環境問題についてとやかく言う前に、自分のフードロスをなんとかしたい奮闘記
最近、環境問題に関心がありまして。
一番関心があるのは私たちが日々暮らしている街の景観や音、においなどといったトピックなのですが、それ以外にもいろんな環境問題に関心を持つようになりました。
その中で調べていて耳が痛かったのが、フードロスに関する問題。
食糧不足が叫ばれる世の中で、実は私も食べ物を腐らせてしまってやむなく処分するということを結構してしまいます。
特に、料理に使おうと思って買ったのに、料理をする時間がとれずに野菜や肉が傷んでしまった、というパターンがとにかく多い。
調理さえしてしまえば食べきれるのですが、(料理をすること自体は好きなものの)時間がとれない中で料理をするというハードルがなかなか高く...。
そこで、世の中全体の環境問題を考える以前にまず自分のフードロスをなんとか削減すべく、なぜそもそも私はフードロスを発生させてしまうのか、そしてそれに対してどんな対策ができるかを考えてみました。
「ごはんは品数が多くて然るべき」という認識に問題がある
ありがたいことですが、子供のころ、実家では母が何種類ものおかずを毎日作ってくれていました。
そんな食卓を見て育ったからか、
「母がしてくれていたように、ごはんを食べるときはおかずをたくさん用意しなければならない」
「母がしてくれていたように、おかずは少なくとも3品はあって然るべきだろう」
「母がしてくれていたように、毎日違うものを食べなければ」
といった思いが無意識ながらありました。
でも、コンロが3口ある実家に対して、私のアパートのコンロはたった1口です。
実家では炊飯器を使って米を炊いていましたが、私は1口のコンロを占領して鍋で米を炊きます。
そもそも、私はフルタイムで仕事がありますから、基本的には料理は週2日の休日にしかできません。
このような条件の差を考えると、これまで無意識に自分を縛っていた「母のように」という目標がいかに無謀なものだったかを痛感します。
「母のように」を目標にして、おかずを何種類も作ろうとしていたことが、食材の買いすぎ、ひいては私のフードロスにつながっていたのではないか反省しました。
私は大学入学と同時に実家を出て一人暮らしを始めたのですが、大学時代は時間があって(コンロも2口あって)、母のような品数の多いごはんも作れていたので、それも自分に対して「社会人になってもできるはず」という期待を持ってしまった一因かもしれません。
「料理は手を抜いてはいけない」という呪縛
品数に加えてもう一つ、私が母を手本に無理をしていたのが「おかずを作るのに手を抜いてはいけない」ということでした。
母の手料理は揚げ物など手の込んだ料理も多かったので、なんとなく、「○○の素」「○○のたれ」といったネーミングの便利な調味料を使うことに対して「手抜きをしている」という罪悪感を感じてしまって、これまで敬遠してきた部分がありました。
でも考えてみれば、フードロスが発生するよりも、楽におかずを作ることの方がよっぽどいいはずです。
そもそも、先ほど比較したように母と私では条件が大きく異なります。
「母は手抜きをしてはいけないけど私はいい」と言いたいわけではなく、母という他人がこうしていたからといってそれに対抗して自分も無理をする必要は必ずしもない、というか条件も人それぞれ違うのだからそもそも対抗する意味がないということに気付きました。
対策として変えてみたこと
これらを踏まえて、私は自分の日頃の料理に対する考え方を次のように改めました。
・1回の食事の品数を減らす
・毎日同じおかずでもいい
・便利なものは利用する
元々私が小食なのもあり、最近は具沢山のみそ汁を作り置きして、白米と納豆とみそ汁だけで済ませる日もあります。
また、やきとりのたれで鶏肉とネギを炒めるだけのおかずなど、たれや素の活用も少しずつ始めています。
今のところ、毎日のごはんの味や品数に特に不満は感じておらず、おいしく楽に続けられています。
まだ新しい考え方にシフトしきれていなくて、フードロスも未だゼロにはできていませんが、確実に食材の購入量は減っていて、最近は目に見えて食費が下がりました。
頑張ることが良しとされてきた世の中で、「頑張らないこと」が逆に物事をうまく進めてくれることもあるのだという学びを得ました。
これからも自分のフードロス削減のためにこの考え方を意識し続け、また新たな工夫も取り入れ続けたいです。
そして、適切な量だけ購入することが自分の中で当たり前の習慣になればいいな、また最終的には私自身のフードロスをゼロにしたいなと思います!
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