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宮崎監督作「君たちはどう生きるか」超分析! 母のいる創作世界か友達のいる戦中の現実世界、どちらを選ぶか!

 ここからは、宮崎駿監督作「君たちはどう生きるか」について、ジブリガチ勢の僕が語っていきたいと思う。有名な人のレビューや解説でしっくり来なかった人にこそ読んで欲しい。

 まず、僕個人の今作の結論としては、めちゃくちゃ面白かった。確かに、とても分かりやすいとは言えないし、エンタメとしての面白さも微妙なので、つまらないといってる人達の気持ちもわかる。でもスタジオジブリや宮崎駿にすごく興味がある僕にとっては、最高傑作にもなりうる面白さを孕んでいたのだ。その面白さをこれから語っていこうと思う。

 まず、最初にいっておきたいのは、この映画はやはり「風立ちぬ」とワンセットで考えるべきである。「風立ちぬ」も「君たちはどう生きるか」も戦中が舞台であり、宮崎さん自身が主人公として描かれている。
 そして、「風立ちぬ」では、戦闘機という人を殺す兵器に美しさを感じる捩れたフェティッシュなど、宮崎さん自身の本質が高純度で描かれている。そして、「君たちはどう生きるか」では宮崎さんの自分の作品や創作物に対してのアンサーや、スタジオジブリのある結末が描かれている。なので、この2作があって初めて宮崎駿という人間の本質に迫る事が出来るのだ。それでは初めていこう。


○ジブリ作品がずっと捕らわれきた呪い! 母性の呪縛とは?


  なぜ僕が色々と弱点も多い今作を最高傑作だと思ったのか?  それはジブリというか、宮崎さんがずっと捕らわれていた母の呪縛から解放されている可能性を見いだす事が出来たからである。この呪いの正体について説明するには、宮崎駿作品における「飛ぶ」という行為について話しておく必要がある。

 宮崎作品における「飛ぶ」行為については、様々な批評家達が分析しているが、僕が読んだ中だと、宇野常弘さんの「母性のディストピア」の宮崎駿さんの章の説明が一番わかりやすかったので、そこの説明を使わせて頂く。正確な引用ではないが、僕はこう理解したってぐらいの感じで受けとって欲しい。

 「母性のディストピア」によると、 宮崎作品において飛ぶという行為は、自己実現や世界の肯定性を見つける事の象徴なのである。
つまり、作品内で主人公が飛んでいる時というのは、何か世界で肯定できる希望を見つけた時か、自己実現が出来ている時という事になる。

 まず女性主人公の例からいうと、例えばナウシカは作中で腐海の謎を解き明かしつつあり、世界を肯定的な物に替える手がかりをつかんでいるからメーヴェに乗り飛び回る事が出来る。

 魔女宅のキキの場合は、当時のバブル景気や消費社会に肯定性を見いだす事が出来たから箒で飛ぶ事が出来た。(ちなみに物語後半にキキが飛べなくなるのは宮崎さんが消費社会に希望を見いだせなくなったからである笑)

 トトロのサツキとメイがトトロと一緒に飛べるのも、あの昭和の美化された農村の共同体とか、当時の日本の自然との関係性に日本的ファンタジーの希望を見いだす事で世界を肯定できたからである。

 このように、女性主人公の時は、自力で世界の肯定性を見つける事、つまり飛ぶ事が出来た。それは宮崎さんが自分では信じ切れない事でも、主人公を女性にする事で、女性差別的な構造を通して飛ぶ事が可能になっていた側面もある訳だ。

 では男性主人公の場合はどうかというと、男性主人公だとナウシカやキキのように、自力で飛ぶ事、つまり自己実現や世界の肯定性を見つける事が出来ないのだ。それは、日本と言う国は戦争で敗戦した歴史を持つ事から、武力や暴力といった力による男性的自己実現を正義として肯定する回路が存在しないのだ。(アメリカのような戦勝国は力による正義を肯定する回路がある) だからジブリの男性主人公達は自分の力だけでは飛ぶ事が出来ない。

 では逆に男性主人公が飛べる時とはどういう時なのか? それは、母的なヒロインに見守られ、承認を与えらている時だけ飛ぶ事が出来るのである。つまり、この国の歴史的に男性的自己実現や肯定性を見つける回路がないので、ヒロインに母的に承認して貰い、肯定して貰う事で、男性主人公は初めて自己肯定する事、つまり飛ぶ事が出来るのである。

 だから男性主人公が飛ぶ時は、母的に見守り承認してくれる女性ヒロインが必要になる。そのヒロインが主人公に対して、この子を自分が守る!とか、そういう生きる意味を与えてくれたり、肯定してくれるから男性人公は飛べるのである。

 だからパズーがあの飛行機械で飛ぶにはシータが必要だし、ポルコが飛行機で飛ぶにはジーナが必要だし、ハウルが鳥になって飛ぶにはソフィが必要になるのだ。あと主人公ではないが、ハクも千尋という、自分が守るべき、自己実現を保証してくれる存在がいるから竜になって飛ぶ事が出来るのだ。

 ただ、もののけ姫のアシタカは例外で、彼は飛ぶ事が出来ない。それはヒロインであるサンもエボシも、アシタカを無条件で承認してくれる母としては機能してないので、アシタカは飛べないのだ。

 そしてポニョで、この母性の呪縛の構造はより明確になる。それはポニョと宗介は海に沈んだ町を冒険し、成長したような描かれ方をしているが、そもそもこの冒険は、実はグランマンマーレの手の平の上で安全な庇護下で行われたごっこ遊びのような物だった事がわかる。
 
 つまり、今までの男性主人公の母的なヒロインに見守られながら、偽りの自己肯定を行う事は、まるで母の子宮の中から一歩も現実に出ていない、その先になにもない死の世界と同じであるという事をポニョでもう明言してしまっているのだ。
 本当の自己実現や世界の肯定性を見つけられずに、お母さんに慰めて貰って満足しているような物で、それは本当に何か成長した事にも、何かを達成した事にもならないという事だ。

 そして、次の風立ちぬでも、この呪縛はより強固になっている。この作品内で主人公は、美しい飛行機を作るという夢があるが、その飛行機は兵器でもあり、人を殺す道具であるという事から、やはり完全な肯定性を見いだす事が出来ない。その変わりに菜穂子という母的なヒロインに承認して貰う事で救って貰うという、母性の呪縛の構造がより純化されて描かれている。それに加えて、兵器という人を殺すための道具に美しさへのフェティッシュという、宮崎さんの本質を純度100%で作品にしたのが風立ちぬなのだ。

 とまあ、このように、男性主人公が自分自身での自己実現や、世界の肯定性を掴む事を諦め、その変わりとして、ヒロインに母的な承認や肯定を貰い救って貰う事、これが宮崎作品にがずっと捕らわれている母性の呪縛の構造になる。

 説明が長くなったが、これで母性のディストピアの説明は終わりで、ここからが本題である笑(もっと詳しく知りたい方は、ぜひ「母性のディストピア」を読んでみて欲しい。) 僕の君たちはどう生きるか、の感想を伝えるには、どうしてもこの呪縛の構造を知っておいて貰う必要があったのだ。

○偽りの虚構世界で「飛ぶ」のではなく、現実世界を自分の足で歩いて生きていく

 では、今の話を踏まえて、今作の「君たちはどう生きるか」はどうだったのか?結論から言うと、僕の考えでは、今作で宮崎さんは
この呪縛から解放されている。だから見方によっては最高傑作にも成りうると思うのだ。

 では、詳しく説明していこう。
確かに今作、今までのジブリ作品のように、母性的なヒロインっていうか、もはや母そのもののヒミが登場し、主人公の真人に承認を与えてくれる事から、むしろ母性の呪縛が極まったようにも見えるが、僕の考えはむしろその逆である。というのも、あるドキュメンタリーでの宮崎さんの発言で、「自分が死んだ時に、お母さんに会えるんじゃないかと思ってて、どうせ会うなら一番若くて綺麗な時のお母さんに会いたい」という発言があるのだ。こういった発言からも宮崎さんの中で、どれだけお母さんが大きい存在だったのかがわかる。 しかも、死んだお母さんに一番若くて綺麗な時に再開するって、そりを今作で。真人とヒミでまったくそのままやっていたのだ笑

 真人は宮崎さんと同じ、父親が戦闘機を作る工場の仕事をしている事や、戦中という時代背景からも、宮崎さん自身の投影である事は明白なので、今回宮崎さん自身が若い頃のお母さん(ヒミ)と再開しているのだ。さらに、真人はヒミに「真人を生めるだなんて素敵じゃないか」と、生まれきた事をを肯定して貰い、これ以上ないくらいの愛を貰う事になる。

 つまりこれは、宮崎さんがずっと望んでいた、亡くなった母と再開し、自分を承認して貰うという、本当の願望を作品の中で、完全に真正面から向き合い、本音でそれを表現しているのである。このように宮崎さんは、ついに本心を自作の中でさらけ出した事で、逆に今までずっと捕らわれてきた母の呪縛から解放されたのではないかと思うのだ。

そして物語の方を見ても、宮崎さんが、母の呪縛から逃れられたと受けとれるシーンがある。それは現実が辛くなり、異世界、つまり虚構の世界に逃げ込み、現実に帰りたがらない夏子に向かって真人が、「お母さん! 夏子お母さん!」と初めて夏子をお母さんと呼ぶシーンである。これは真人(宮崎さん)が、もう母のいない現実を受け入れた事を意味する。そして、物語の最後には、ヒミを元々いた正しい時間軸、正しい現実世界に返してあげている。これも宮崎さんが、自分も母のいない現実を受け入れたし、ヒミ(母)も自分自身のあるべき人生に帰っていく事が出来た。つまり正しい意味でお母さんとお別れが出来たのだ。

 そして、なにより、今までのジブリ作品のように、ヒミという母性的ヒロインに見守られ、承認される事により真人が自己肯定出来るという、母性のディストピアの「飛ぶ」ための条件は揃っているのに、真人は一度も作中で飛ぶ事がないのだ。あの異世界なら、いくらでも真人を飛ばすシーンを描くチャンスはあったにも関わらずである。これは、今作で宮崎さんが母性の呪縛から解放された事の証明ではないだろうか?

 母の呪縛から解放されたからこそ、今までのジブリ作品ではあった、母的なヒロインの承認による、主人公の自己肯定により飛ぶ事が、今作の真人には必要ないのだ。
だから真人は作中で一度も飛ぶ事がない。
真人は、呪縛から逃れ、女性依存的な、偽りの自己肯定により虚構の世界を飛ぶのではなく。現実世界を自分の足で歩いて生きていくのだ。これが宮崎さんの、君たちはどう生きるか?という問いに対する答えなのであろう。

○サギ男との男友達的関係こそ、母への依存関係に変わる新しい関係性

 そして、母の呪縛を解くのに、最も重要な要素になったのはサギ男の存在だったのだと思う。真人とサギ男の男友達であり、しかし、敵か味方かもよくわからないような危うい関係は、今までのボーイミーツガールを多く描いてきたジブリでは初めて描かれる新しい関係性である。
 このサギ男は、宮崎さんにとっての鈴木敏夫さんを代表とする、今まで一緒に作品を作ってきた友達的存在を表しているのだと思う。要するに、この真人とサギ男の新しい男友達的関係が、今までの母への依存関係に変わる、新しい関係性であり、宮崎さんがついに辿り着いた、新しい偽りじゃない肯定性なのだ。

 つまり最後の最後で、お母さんが愛してくれて、全部受け入れてくれる天国のような世界ではなく、サギ男のような、よくわからないけどどこか憎めない、そんな友達がいる現実世界の方を宮崎さんは選ぶ事ができたのである。ずっと捕らわれてきた母よりも、一緒に作品を作ってきた鈴木敏夫さんや高畑勲さんのような友達との関係性を選ぶ事が出来たのだ。 宮崎さんが最後に辿り着いた自分が信じらる肯定性は、ジブリで一緒に戦ってきた友達との関係だったという訳だ🥺(感涙)

 まあ要するに、宮崎さんはサギ男のような友達と出会う事で、ついに今作で母の呪縛から解放されたのである。

○清浄と汚濁こそ生命であり、悪意も愚かしさも人間の一部である事

 母の問題については以上である。
次に、物語のラスト付近について語りたい。物語の終盤、あの異世界を作りだした大伯父様が、真人にあの世界の創造者としての役目をついで欲しいと言い出す下りがある。そして、悪意のない石が13個あるから、これで今の、あのペリカン達のような犠牲の上に成り立つ悪意ある世界ではなく、もっと穏やかな世界を作りりなさいというのだ。
しかし、それを真人は拒否する。なぜなら、自分も悪意を持った人間であり、自分で自分の頭を傷つけ、それを利用するような狡さを持っているからと。
つまり、そもそも、大伯父様のいう悪意のない石を使おうと、それをどんなに立派で賢い人間が使おうと、結局は、大伯父様のように、呪われた悪意ある世界を作ってしまうからだ。なぜなら、悪意も愚かしさも人間の一部であり、人間が人間である以上決してなくす事は出来ないからだ。漫画版ナウシカでもいっていたが、清浄と汚濁、美しさや残酷さ、それらの相反する物両方を持っているのが生命であり世界なのだ。
だから真人は、自分が人間である以上、必ず悪意を持っている、だから必然的に、そんな自分があの異世界を継いだとしても、決して完璧なものにはならず、大伯父様と同じように、呪われた世界を生み出してしまうという事だ。

○母のいる創作世界より、友達のいる戦中の現実世界を選ぶ! 


  だからこそ真人は、あのジブリそのものでもあり、ファンタジーなどの創作物の象徴であるあの異世界に閉じ籠り、完璧な世界を作ろうとはしない。真人はあくまで悪意も善意も持った1人の人間として、美しさも残酷さもあわせ持つ、元の戦中の現実世界に戻り、サギ男のような友達を探すと、自分はそういう生き方をするという事である。

 要は、全て自分の思い通りに作れるファンタジー世界から、戦時中のいつ死ぬかもわからず、母も死んでしまった現実世界を選び、そこで友達(他者)と向き合いながら生きるという、すごく前向きで肯定的なメッセージになっていると思う。(この辺の結論は、作品世界より、決してわかり会えない他者がいる現実を選択した旧エヴァとすごく近しいものを感じた)

 あと、ラストのヒミの現実に帰る選択も同じで、あの創作世界に留まるより、病院の火事で焼け死んでしまうとしても、現実世界に出ていくと。なぜなら、現実世界はそういった悲しみや、残酷さもあるけど、それでも真人みたいな子供を生めるなんて素敵じゃないか!って事である。辛い現実世界でも、そういった輝きや喜びがある、だから人生って生きる価値はあるんだよという事だ。ここも、まさに君たちはどう生きるか、である。ヒミはこう生きたという事だ。

○ポストジブリ論とジブリの歴史から解放された宮崎駿の新しい可能性

 とまあこんな感じであるが、まだまだ語りたい事はあるのだが、そろそろ最後にしようと思う。最後に語るのは、今作から読みとれる宮崎さんのポストジブリやポスト宮崎駿に対するアンサーについてだ。
 
 今までスタジオジブリとしても、ジブリの若手を監督に育てようとしたり、外部から監督を引き入れたりと、宮崎さんの後継者を作りだしてジブリを存続させようという動きはあった。しかし、結果として後継者は育たず、風立ちぬ公開後ジブリは制作部門を解体した。こういった背景からも、あの大伯父様も実は宮崎さん自身であり、あの異世界や積み木はスタジオジブリやジブリの作品群を指している。だからあの大伯父様が作りだした異世界は今までのジブリ作品で、どこか見たような場面が多いのだ。
 つまりあの大伯父様の、スタジオジブリを残していきたい、次世代の人についで欲しいというのも宮崎さんの本音であるし、逆に真人の継がないという答え、スタジオジブリは自分の代で終わりで、次世代の作り手達にジブリの歴史とか重圧を背負わせないで、自由に作って欲しいというのも、また宮崎さんの本音なのではないだろうか。つまり、宮崎さんの矛盾する2つの本音が真人と大伯父様に分裂しているのだ。

  結果的に、作中では真人は大伯父様の後継者にはならず、あの異世界は崩壊する。つまり、宮崎さんの答えとしては、やはりジブリも自分もこれで終わりにして、後継者を探してジブリを存続させるような事はしないという事である。庵野さんや、細田さん、新海さんがポスト宮崎駿みたいな言われ方をする事もあるが、宮崎さんの変わりは誰もできないし、する必要もないのだ。

  こういう言い方をすると、ジブリも宮崎さんも、もう終わりなのかと寂しい気持ちになる人もいると思うが、実は僕は全然そんな事はないと思っている。むしろ、今作で宮崎さんは、母の呪縛からも、ジブリの歴史からも解放されているのだから、次はジブリの宮崎駿としてではなく、しがらみのない1人のクリエイターとしての宮崎駿作品が見れると思うのだ。なので宮崎さんは必ずもう一作作るだろう。

○大切な事は思い出せないだけで、決して忘れない! 宮崎駿が目指した作品のあり方

 そして、真人が石をポケットに入れて持って帰ってきた事で、本来忘れてしまうはずの、異世界の記憶が真人だけは残っているのだが、サギ男が、そんなに力のある石じゃないから、じきに忘れるさ。でもそれでいいのさ。と言うのだ。これは、宮崎さんもこれから自分の作品もどんどん忘れさられていくけど、でも、それでいいのさ、という事だろう。作品そのものは忘れても、その作品から貰った大切な物は、その人の中に残り続けるから。千と千尋の銭婆がいっていたように、大切な事は、思い出せないだけで、決して忘れる事はないからという事であろう。だから真人や宮崎さんが子供の時に「君たちはどう生きるか」を読んで、何かを受け取ったように、宮崎さんも自身の作品で、受け取った人の中に、大切な物を残せる作品を目指してアニメーションを作り続けていたのだと感じた。

 とりあえず以上になります。読んで下さった方、長いのに本当にありがうございました。
あばよ!友達。

YouTubeの方でも解説動画を出していますのでぜひこちらもお聞き下さい↓
https://youtu.be/inMjqaWexeY

 

 

 


 





 

 

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