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新海誠監督作「すずめの戸締まり」超分析!被災地と「生」の美しさの拡張と肯定。

 こんにちは!今回は、新海誠監督作品「すずめの戸締まり」 について考えていきたいと思う。「君の名は」「天気の子」そして「すずめの戸締まり」で新海さんは、何を描きたかったのか?311(東日本大震災)とどう向き合ったのか? それでは初めていこう。


○311を直接的な表現で描く意味と
新海誠の表現の課題!

 まず、この「すずめの戸締まり」であるが、「君の名は」「天気の子」に連なる災害三部作の完結編にあたる。
 これらの3作品は、全て災害を扱っているが、前2作と「すずめの戸締まり」が明確に違うのは、311、東日本大震災という実際の震災を作中で扱っている事だ。災害を扱った三部作のラストとして、やはり311を避けては通れないという新海さんの思いがあったのだろうと思う。

 そして、新海さんという監督の核は、圧倒的な背景美術による風景の美化である。現実の風景の美しさをどれだけ拡張できるかに表現の課題を持つ人である事は、今までの作品を見ても明白だ。

 こうして見ると、新海さんは宮崎駿監督などと比べると対象的だ。宮崎さんの場合は、もはや現代日本の風景に希望を持ってもいなければ、興味もないだろう笑。だから、昔の日本を描くか、完全なファンタジー世界を舞台として構築する。新海さんは、現実の現代日本を舞台にするが、その美しさを現実以上に拡張するという訳だ。

 その新海さんの特徴にそって、「君の名は」から簡単に振り返っていこう。
「君の名は」は都会と田舎という対象的な場所の風景の美化があり、RADの音楽を使った、MV的なテンポで進む作品である。脚本も練られており、盛り上がりの山場が何度もくる物語になっていて、エンタメ性の高い作品だ。

 「天気の子」は、天気に着目した風景の美化があり、主人公である帆高が、世界よりも彼女(陽菜)を選ぶという対幻想の話だ。そして過去に戻り、災害をなかった事にした「君の名は」とは異なり、「天気の子」では雨で沈んだ町が元に戻る事はない。 まさにセカイ系の物語だが、一つ気になったのが、陽菜を選んだ結果起こるコストの部分が弱いように感じたのだ。あの結末にするなら、例えば、帆高が陽菜を選んだ事で、結果的に起きてしまった水害により亡くなった人の描写まで描かなくてはセカイ系として弱いのではないかと少し思った(まあ、しっかり感動したのだが笑) 。  

 そして、「すずめの戸締まり」でも、「天気の子」同様起こってしまった災害をなかった事にはしていない。むしろ過去に起こってしまった災害と、それによって変わってしまった環境や自分自身と、どう向き合うかを描いた物語になっている。そして今作の前2作との明確な違いは、彗星や水害に置き換えるのではなく、311の震災そのものを直接描いている事である。

 ただ、311のような実際にあった未消化の事件を扱うには、タイミングが難しい。そういう意味では、時期的にも新海さんのキャリア的にも、今描くのが相応しいと判断したのであろう。そして震災から時間がたった今だからこそ、この出来事を風化させないためにも、真正面から描く事にしたのだろうと思う。メディアで報道が少なくなっても、福島にはまだまだ、住めない地域はあるし、福島第一原発の問題も解決していないのだ。今この瞬間も戦っている人達がいる事や、あの震災があった日、この国で起こった事を語りついでいく事もフィクションの役割の一つだと思うのだ。

 そして、もう1つの特徴としては、「君の名は」や「天気の子」のようなRADの音楽を使ったMV的な要素がなくなっているのだ。この前2作では、ストーリー時な山場でRADの音楽と過剰に美しい映像を掛け合わせる事で、視覚、聴覚、感情、すべてを総動員して感動させてきていたし、また、そういった感情のコントロールが実際に上手かった。
しかし、「すずめの戸締まり」では、そういった新海作品の強みが使われていない。
 
 その理由として考えられるのは、新海さんの、311と向き合う事に対する真摯さが出たのではないかと思う。少なくとも、実際の出来事を扱った今作では、いたずらに人の感情をコントロールしようとするのではなく、純粋に物語の力で語りきろうという気持ちがあったのではないだろうか。

○「生きたい」と思う気持ちの肯定

 では、作品の中身の方に触れていこう。
この物語全体を通して、鈴芽と草太は、生きる事に対する気持ちが変化していく。鈴芽は当初、震災の経験から、人の命はいつ亡くなってもおかしくはない、酷く不確かな物として考えている。だからこそ、死に対しての恐怖が薄く、自分自身の命の扱いも軽い。そして、草太は閉じ師としての責任感が強く、自身の命より、責務の方を優先する傾向があり、鈴芽同様自分を軽く考えている所がある。 そんなこの2人が、物語の中での経験や、お互いが自分にとって大切な存在になる事によって、生きたいという気持ちが強くなる。そして、生きたいと思う事を肯定出来るようになっていくのだ。これは、この作品全体としてのテーマとも繋がっている。

○「戸締まり」とは人が生きた記憶の弔う事

  そして、この作品のタイトルにもなっている、「戸締まり」とは何なのか?設定状の説明としては、後ろ戸という、常世に通じる扉から、災い(ミミズという、地震のエネルギーわ可視可した存在)が出てこないように、扉を閉じる事である。これが何を意味しているかだが、僕の考えでは、311の震災でもう住めなくなった土地や、もしくは、大きく変わってしまった土地がある。そういった場所はどんどん忘れさられていくかもしれないが、そこで生きた人や、そこにあった当たり前の生活などの、人が生きた景色みたいな物は、間違いなくにそこにあったのだ。そういった記憶のような物を弔う行為が「戸締まり」の本質であって、ミミズを閉じ込めるというのは、表面的な事にすぎないのだと思う。

○儚く不確かな命と、少しでも生きながらえたいと思う人の性

  作品全体としてのメッセージとしては、草太がラスト付近でセリフでも少しいっていたが、人っていうのは、すごく儚い存在であり、生きるって事は仮初めみたいな物であると、 鈴芽も人の生き死になんて、運でしかないと思っている。確かに人の命なんて災害などで簡単に失われてしまうのだが、だからといって、人々がそれを、仕方ないと許容出来るのかといったら、もちろんそんな事はない。

  鈴芽が、日本各地をロードマップして見てきたように、日本の色んな土地で、そこで生活している人達がいて、沢山の人の思いがある。それが簡単に失われていい訳がない。確かに、命は災害でも事故でも病気でも、簡単に失われてしまう。すごく儚く不確な物だ。生きるという事は、そんな仮初めのような物かもしれない。しかし、それでも、ほんの少しでも生長らえたいと思ってしまうのが、私達人間であるし、そう思う気持ちは、肯定されるべきなのであろう。

○小鈴芽(被災者)の心を救うのは、自分自信で出した答え

 そして、物語のラスト、 常世の世界で、鈴芽は子鈴芽と出会う。やはり、鈴芽(被災者)の心のわだかまりを解く言葉をかけるのは、鈴芽自身でなくてはいけない。その役割は草太でも、お母さんでも、環でもない。鈴芽を癒し、「生」を肯定するのは、やはり自分自身なのだ。実際この役割が他人ではしっくりこないっていうのはすごく納得がいく。環や、草太の言葉で鈴芽が救われるのは、やはり違うと思う。身も蓋もないが、自分を救えるのは自分だけなのだ。鈴芽自身の経験で、言葉で、自分の心に決着を着けなくてはいけないのである。

○「生きる事」は当たり前の幸せで祝福されている。

 そして、鈴芽が小鈴芽にかける言葉も、実は、ごく当たり前の事をいっている。僕はそれが、すごくいいと思った。

   鈴芽は小鈴芽にいったセリフの1部として、「あなたは、これから誰かを好きになるし、自分を好きになってくれる人にだって沢山出会う」という下りがある。つまり、僕達が生きている日常は、そういった当たり前の幸せや祝福で溢れている。だから生きる事って価値があるのだ。日常の中にある、当たり前だからこそ、見落としがちな幸せに目を向ける事が、これから生きていく鈴芽にとって何よりの励ましになるのだと感じた。

○環と鈴芽の関係について

 他に印象に残ったシーンとして、環が、鈴芽に生々しい本音をぶつける描写がある。
すごく酷いこといっているように聞こえるのだが、よくよく聞いてみると、環はある意味では当然の事をいっているのだ。
 だから鈴芽も、ショックは受けているのだが、そこまで引きずる訳ではない。それは、
環が少し鈴芽を疎ましく思っていた事も、逆に、愛して大切にしていた事も、どちらも本当だと鈴芽はわかっているからだ。だから環が、「さっき言ったこと、ちょっと心にうかんだ事もあるけど、それだけじゃなかとよ」というのだが、鈴芽と環のような関係に限らず、人と人とが関わるって事はそういう事だ。いい事もあるし、上手くいかない事もある。そして、鈴芽は環と暮らした、十何年の間に、確かに愛を受けとっていたのだろう。

○被災地や人々の生き方から美しい部分を抜きだし拡張する事

 さて、そろそろまとめに入ろうと思う。今作の福島の災害跡地を美しく描く事は、現実の風景の中に残る、美しい部分を拡張して描くという新海さんの表現のテーマと親和性が高い。そこから考えられる、この映画の本質はどこにあるか考えてみよう。

 まず、福島は被災地として、まだ人が住めない災害跡地も沢山ある訳だが、そんな場所でも、芹沢のように、ある人が見ると美しく見えてしまう。それは、震災を経緯として知っているかどうかの違いである。劇中でもあったように、芹沢が福島の風景を綺麗だといい、鈴芽が驚くシーンがある。鈴芽にとっては悲惨な福島の風景も、芹沢にとっては美しく見えてしまう。

 それは「君の名は」の彗星もそうで、それによって死ぬ三葉には恐ろしく見えるが、滝などの、それ以外の人から見ると美しく見える。自然災害は意志が介在しない、つまり、それそのものはあまくまで中立的な物だからこそ、見る人によっては美しくも恐ろしくも見えるのだ。そして新海さんが、今回やろうとし事は、その被災地の風景や、災害から生き延びた人達の生き方や、生きたいという気持ちから、美しい部分を抜き出して拡張し、肯定出来る部分に目を向ける。これがこの映画の正体だと僕は思う。

 とまあ、「すずめの戸締まり」についての感想はこんな所である。災害を扱った三部作を終えた新海さんが、次に描くテーマは何なのか、今から楽しみだ。

 長文最後まで読んで下さってありがとうございました🙇  ではまた🙋

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