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母の旅立ちへの道 【気付きと感じた事⑦】(介護認定)第30回/全35回

母の旅立ちと私の見送りの記事は終了しました。ここからは母の旅立ちと私の見送りで道のりの中で、気付いた事や感じた事を紹介していきます。今回は介護認定について話してみたいと思います。



【介護認定を受けるのは後回し】


母と私の場合は介護認定を受ける事自体は結構後回しになったケースだと思う。

この「母の旅立ち、私の見送りへの道」と題した記事の中で何度か書いたと思うが、母の体調が急変した為に訪問医師の指導の下で急遽病室改造計画が行われたからである。

病室改造計画に伴って介護用品一式を導入する際に介護認定が下りてないとマズいのではないか?という私の素人的な考えを他所に、訪問診療の先生(I訪問クリニックのI先生)は「介護認定なんてどうにでもなる」という強いひと言ですべてが解決した。まあ何よりもあの時点で必要なのは介護用品を急いで入れる事であり、時間を要する介護認定を待っている暇はないという事だったと思う。

ただ実際には急遽決まったケアマネージャー(Yさん)が間に入った事でスムーズに事が進んだのだろう。改造計画をぶち上げた当日にもう業者さんによる介護用品の見積もりが合って、その際に金額の提示も受けた。しかし実際に支払った時(1か月後、すでに母は旅立った後)には介護保険が効いて1割負担となり、最初に提示金額よりも全然低い金額を支払う事になった。

【市役所への届け出】


実際に介護認定を受けるまでの流れについてだが、正直なところ未だによく分かっていない。先述のようにケアマネージャー(Yさん)が間に入ってくれたし、医師の指導の下での介護用品の導入となったので、医師としての意見書もこの時に提出されたものと勝手に思っている。

それら手続きの迅速に行われたのだろうか、病室改造計画を実施した翌日(1/24)には市役所から電話が掛かってきている。訪問調査の日程についての相談の電話だったと思うのだが、この時は本当に忙しすぎてこの電話に出られなかったという経緯がある。

まあ私としては忙しすぎたという理由もあるし、また向こうから電話がかかってくるだろう…なんて思ってたら、実際に電話が掛かってくることは無かった。翌日(1/25)こちらから市役所の担当課(詳しく覚えていないが長寿介護課だったかも)に電話をしたが、この時は担当者が不在との事。一応伝言を残して、後で再度電話をくれるという事になった。

【介護認定の訪問調査まで】


市役所から介護認定の担当者から改めて電話があったのは1/25の昼前。日程の調整を行うが最短でも1/29の14:00という報告を受ける。「最短で4日か…」と思いつつも、もう選択肢が無いのでその日時での訪問をお願いする。まあ先程電話をしても留守だったし、介護認定の担当者も走り回っているのだろう…。

ただ正直4日後に介護認定が間に合うのか…という懸念はあった。それまでに母が旅立ってしまうのではないか?という疑問もうっすらとはあったが、流石にそこまでは無いと思っていたし実際にその心配は杞憂だった。

この時の現実的な問題としては介護認定の訪問日までに母が入院してしまうのではないか?という事。介護認定を受けられない状態で入院してしまうと諸々大変な目に遭うのではないだろうか…という心配があった。

ただこれは後に分かった事だが、入院という事になっても介護認定の担当者は病院まで来てくれるそうだし、介護保険証があろうとなかろうと入院費には大して変わりがないという事。介護保険で入院費が少しでも安くなる…と踏んでいた当時の私にとってはある意味誤算でしたね…。

【訪問調査と介護認定が下りるまで】


4日後の1/29の昼前。市役所の担当者が来訪して訪問調査が行われる。直に母に対面して、氏名や生年月日等の確認をした後、保護者(私)との面談に入った。まあ「どういう状況ですか?」と聞かれたので、本当にありのままを話したつもり。上半身を起こすと目眩があって、トイレには車いすで移動している点だけは強調しておいた。

部屋にはこれ見よがしに介護ベッドの横にポータブルトイレを置いていた(実際に母がこのポータブルトイレを使用することは無かった)のは我ながら嫌らしいなとは思った。全体的に部屋も乱雑になっていて、折り畳み用の車椅子、点滴棒、介護ベッドの上で食事をする際のテーブルなどが所狭しと置いてあって、なんか変なアピール(介護認定が欲しいからのアピール)と受け取られないかな…?なんて変な気を回したが、実際問題これらは使用していたものなので仕方ない。

そんな気の私の気の回しとは関係なく淡々と聞き取り調査は終了。ただ私との面談中に担当医のI先生から翌日(1/30)のS病院緩和ケア科の入院が決まったとの電話連絡を受けるなど、こちらとしては非常にタイムリーな電話だったかもしれない。これが介護認定にどこまで影響したかは分からないが…。

【介護認定証が届くまで2週間以上】


実際に介護認定証が届く前に認定結果の通知があったが、それは大して役に立たない物。実際に必要なのはやはり介護保険証である。その保険証が届いたのは2/15。訪問調査を受けてから2週間以上が経過してやっと届いたのである。

もしかしたらこれでも早い方だった可能性はある。介護認定で訪問調査に来てくれた担当者は「なるべく早く認定が下りるようにしますね」と言ってくれたし、担当者がサボったとか遅らせたという風には受け取っていない。担当者と面談の日程を調整した時に4日後を指定されたように、市役所の方でも介護関連の手続きの対応でいっぱいいっぱいなのだろう。

とにかく介護認定証が手に入った事で、ケアマネージャーのYさんに連絡。保険証の写真を撮ってもらい、これで介護用品のレンタルなどの費用がすべて確定する事になる。

【母の場合、認定結果は要介護5だった】

母の場合は介護認定の結果は「要介護5」。訪問診療の先生は診断当初に要介護3くらいかな?と言っていたが、実際の認定結果は5だった。まあほぼ寝たきりの状態になってしまったので、こういう結果になったとは思うが、それでも要介護レベルが3だろうと5だろうと母と私の場合は特に大きな違いは無かったと思う。認定がされた時にはすでに入院していたし、どちらにしても自己負担割合も1割だったから。まあ入院先が決まらず…というケースや、自宅で最期を迎えるのを前提としていればこの認定結果は大きく影響しただろう。

ただすべてが終わってみて、母のあの状態が「要介護5」のレベルだったという事実は少し感慨深いものがある。母がいよいよ自力で動けなくなって…という状態から入院までは2週間。ほぼ寝たきりになった状態から入院までは僅かに1週間だった。その1~2週間の間を要介護レベル5の母を私一人で看護、介護した…という事になる。

【私自身は看護、介護をできる人間とは思っていなかったが…】


正直、私自身が人の看護、介護できる人間では無いと思っていた。だが相手が自身の母親でもあったし、何よりも今の今までの恩返しをしたいという私自身の気持ちが強かったから出来たのだと思う。

今振り返っても自宅での最後の2週間は、母と二人三脚状態で必死に乗り越えたと思っている。あの2週間で母に対して何をしたかを知っているの母と私の二人だけだった。そして母に対して何をしたかを知っているのは今現在はこの世で私だけ。私以外にも家族が居るのに母と私がどんな戦いをしたかを知るのは私一人だけ。本当に寂しい現実だが…。

先述のように要介護の認定結果がレベルが3だろうが5だろうが関係ないと書いた。しかしすべてを終えた後であの時の母が「要介護5」と認定された事で、その母を短期間でありながら付きっ切りで看護、介護したという事実が出来たと思う。これは人にあれこれと自慢するようなものでは無いが、私がそういうことが出来る人間だった…という事を自分自身が認識する事いい機会にはなったと思う。

実際にこれが仕事だったり、他人に対してやれるか?と言われると多分無理だと思う…。まあちょっとばかし看護と介護をしたからっていい気になるなって言われそうだしね。

【注意事項】

この記事を書いている私は医療に関しては素人なので記事の中で間違った認識、表現、名称を記述している可能性は高いです。さらに一部で感情論に走っている面もあると思いますが、なにとぞご理解と温かい目で見て頂けるとありがたいです。


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