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ぼんやりしているうちに今日が終わっていく。何もしていなかったわけではない。仕事をしたり、食事をしたり、用事をしたりしていた。なのに全体としてぼんやりした印象の今日だ。はっきりした出来事など、頻繁に起きるものでもないのだろう。こうやってぼんやりしているうちに多分、何もかもが終わる。

このつぶやき投稿欄を、ただ「つぶやき」として使ってみたい。この欄が140字入力できる上に、文字数をちゃんとカウントしてくれるため、私はこの欄で「140字小説」を書いてしまうのだ。それをやめてみたい。140字小説を書かずに、つぶやきを残したとして、別に何が変わるわけではないのだが。

すごく具合が悪いわけではなく、ちょっと具合が悪い。もしかすると「すごく」の時のほうが逆に気合いが入って、やるべきことができてしまうのかもしれない。「ちょっと」の時が問題だ。休むほどではないが、頑張れるほどの元気はない。あやふやにどっちつかずで、やろうか、やるまいか、迷うばかりだ。

特筆すべきだと思われないちょっとした出来事も、振り返ると立派に思い出だったり、時には分岐点だったりすることもあるのではないか。どうってことのないあたりまえでありきたりな時間こそが、大事だったと思う日が来るのかもしれないし、そんなこともないのかもしれない。わからないから残してみる。

何かを作ったところでいいものができる保障はない。うまくいかない確率のほうが高い。それでも作り始めてみなければ、その何かは姿を見せてくれないのだし、作り上げてしまわなければ、その何かが何なのかを知ることもできないのだ。そしてできたそれは何であっても、作った者には愛おしいものなのだ。

疲れた。何か暖かい物を飲んで気持ちを落ち着かせたい。カフェに入りたい。そう思うのだが、同時に、カフェに入るともっと疲れるかもしれないとも思う。疲れているので少し休むか、疲れているので早く帰るか。決めることができない。疲れていて決める気力すらないのだ。そして迷っているとより疲れる。

締め切りのあるものを三つ提出した。三つも。我ながらよくやったと、とりあえずは褒める。しかし、締め切りはまたやってくる。また立ち向かわなければならない。大変である。しかし、何かが終わって、もう何もない。そんな状態のほうがきっと怖い。だからまた締め切りを作るか、作られるかして、やる。

自分がされて嫌なことは人にもしない。これは正しいようでいて、そうでもないと思う。自分と他人は違う。自分の許容範囲と、他人のそれも違う。自分が嫌だから他人も嫌なはず、だなんて、自己中心的な考え方ではないか。他人に嫌な思いをさせたくないのなら、その人を中心に物事を考えないといけない。

人間、何事も自分の身に降りかかってこないとわからないんだとは思う。想像力にも限度がある。だから、自分が知らない状況や状態にある人の話を聞かねばならないのではないのかな。誰かに起こっていることは、自分にも起こり得る。自分にもなら、自分の大切な誰かにも。他人事なんてこの世界にはない。

陰の要素があるものに惹かれがちで、陽が強いものは苦手だなと思ってしまうことが多々あるのだけど、そこで理解されない陽の寂しさというのも、陰が理解されないことと同じように存在しているのだろうか。他者からの理解の有無など気にしない力があってこその陽な気もするのだが、それは偏見だろうか。

年を重ねるほど時間の流れが早く感じるのは、やるべきことが増えているからだという説を聞いたことがある。それらを終えるだけで時間が足りなくなるのだ。やるべきことを多く抱えている状態は忙しなく落ち着かないが、悪いものではないと思う。手持ち無沙汰で長い時間の中に放り出されてしまうよりも。

気が付くと時刻が23時23分で、202302232323を逃してしまったとがっかりしたのだが、そこで落ち込んでいる場合ではなく、2月23日中に投稿をしなければ、毎日投稿が途絶えてしまう。毎日投稿を続けるか否か。決め切れないまま続けてしまっている。習慣とはこのように恐ろしいものだ。

権威側の肩を自然に持とうとしてしまう自分の思考が嫌だ。教えられてきたためについた癖だと思いたいが、例えそうだとしても、そこから離れるのはきっと難しい。強さになびいて護身することが自分に馴染んでいるのだと、気付くたび自己嫌悪に陥る。流されたほうが楽なんだ。でも抗わなければいけない。

ずっとマイナスの辺りを微動しているような状態で、ゼロのラインを越えてややプラスになることはあっても、プラス地帯に居続けられない。気が付くとマイナス地帯に戻っている。無理に上がろうとすると反動で叩き落とされるような気がして怖い。待っていても下から押してもらえたりしないことはわかる。

「こっそり物を書いています」私のプロフィール文だ。これだけだ。プロフィールとしてかなりダメだ。この一文からは「こそこそしてる人なんだな」ということしかわからない。しかも、物を書いていることを隠しているわけでもないのだ。看板に偽りあり。早くちゃんとした看板を掲げろ。話はそれからだ。

新年を迎えようとしている今、どこからか聞こえる声がある。今年を終わらせてよいのかな?できていないことがたくさんあるよ?言われなくてもわかっている。あれもこれも、できなかった。だけど、いつまでも悔やんで止まってはいられない。できなかったを、できたに変えるためにも。また始める。進む。

「投稿」欄にこれまで表示されていた、連続投稿の日、週、月が消えている。その代わりに「今日投稿すれば642日連続!すごい!」といった文章が出るようになっている。確かにこの文章で十分なのであろうが、これまでにあった表示では、今日更新したかしないかがぱっと見でわかって良かったのだった。

何事も「勘」でやってしまう傾向がある。多少の知識があったり、過去に経験があったりすれば、何とかなることもある。だが、よく知らない物事に対しては何ともならないどころか、逆効果の場合もある。物事の仕組みは論理立てて作られていて「何となく」は通用しない。勘にも知識と経験が混じっている。

「今日投稿すれば652日連続!もっと見たい!」とか言われましても……。帰ってきたのが22時50分頃でして……。何かしていたから遅くなったわけで、何もしていないわけではなく、むしろ書ける出来事はあるのですが……。それをまとめて文章にする心の余裕がないのですね……。すみませんね……。

普段の生活で電車に乗ることがないので、電車を使って移動するとなると、それはもう小旅行と言ってもいい。わりと早くから先頭で待っていた。到着した電車に乗ろうとして「あける」ボタンを押さねば扉が開かないことを失念していた。後にいた方が素早く押した。非日常の不慣れ感を早速、味わっている。