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何か書かねばと、ただただキーを打っている。こんなようなことを、前にも書いた気がするが、思い出せない。私の記憶力はかなり悪い。昼食に何を食べたかを忘れ、明日の予定を忘れる。だが前向きに行こう。記憶力が悪いことを、忘却力が強いと言い換えてみるのだ。あの日の失敗も、もう、覚えていない。

「2024年結局どの手帳をどういうふうに使っているのか」を、7月のうちにまとめておきたかったのだが、難しいかもしれない。最も億劫なのが「写真の撮影」である。あまり空きスペースのない部屋なので、物を撮影しようとするとそこに影が映り込むのだ。つまり広い部屋が私には必要(論理の飛躍)。

花火を見るために外に出るような行動力を持ち合わせていない。だから毎年、音だけ聞いている。大きく響くこの音は、綺麗な花火が空に広がっていることの、そしてそれを楽しむ人々が多くいることの証なのだと、安心していられることを幸せに思う。だからこそ願いたい。どの空にも、不安な音はいらない。

忙しい人と比べたら全然忙しくない私だが、私にとってはこれでも忙しいのである。「みんなに比べたら私なんて」とはよく聞かれるセリフだし、私もそう思ってしまいがちであるが、そういう態度は謙虚なのではない。むしろ、自分もみんなと同じくらい忙しくなれるという前提なのは、傲慢なのではないか。

「だるい」と訴えても、「怠けているだけでしょう」とか「元気出して」などと言われてしまうことがあるが、精神力だけでは体のだるさは変わらない。好きで動かないわけではなく、むしろ動きたいのに動けない、思うとおりに体が動かない、そんな状態を「だるい」という。ご理解いただけると幸いである。

猫カフェに行った。しかし14時過ぎという時間のためか、店内の猫の8割は寝ていた。おやつを買うというオプションを発動させれば、匂いで猫たちは起きてくれたかもしれない。しかし眠りの時間にこれ以上の邪魔をするのは申し訳ない。寝姿を堪能するに留めた。決しておやつ代を惜しんだわけではない。

noteにつながりにくい瞬間があり、なんだどうしたと不安になる。混雑しているだけのようだが、これでもしも、大規模な障害が起きていたら、どうしたらいいのだ。連続投稿の記録は。何より、保存されている記事は。心配したところでどうしようもないのだ。消える時は、消える。その潔さが恐ろしい。

「すごく良い風景でした」とだけ書いて、すごく良い風景の写真を付けてつぶやけば、今日はそれでよしとしてもらえないだろうか。ああ、だめだ。すごく良い風景の写真を撮っていない。そもそも、すごく良い風景を見ていない。だいたい、すごく良い風景を見ていたなら、書くことがなくて困ることはない。

ぼんやりしているうちに今日が終わっていく。何もしていなかったわけではない。仕事をしたり、食事をしたり、用事をしたりしていた。なのに全体としてぼんやりした印象の今日だ。はっきりした出来事など、頻繁に起きるものでもないのだろう。こうやってぼんやりしているうちに多分、何もかもが終わる。

珍しく早朝に書いている。思ったより早く起きてしまったからだ。そして今日は用事があるため、遅くなると書けない可能性があるからだ。用事があるので緊張して早く起きたのだろうか。だとしても、緊張するくらいの非日常がときどき日常に訪れる。それは悪いことではないだろう。しっかり起きておこう。

ちゃんとしなきゃと思うほど、ちゃんとできない。そもそも「ちゃんと」ってどういうことだ。検索してみたところ、「丁度(ちょうど)」が語源である説がいくつか見られた。ちょうど(いい感じに)しなきゃ、ということか。ちょうどいい感じに合わせることは難しい。よって、簡単にはちゃんとできない。

問:検索をかけたところ結果の一番上に表示された文章が5年前に自分で書いた記事だとわかった時の気持ちを答えよ(50文字以内)(配点10) 答:いや、あるやろ、他に、もっと適切な文章!ないんか!なんや、昔の私に助けられてしもうたわ。あんがとな。 この回答で10点もらえると思います。

このつぶやき投稿欄を、ただ「つぶやき」として使ってみたい。この欄が140字入力できる上に、文字数をちゃんとカウントしてくれるため、私はこの欄で「140字小説」を書いてしまうのだ。それをやめてみたい。140字小説を書かずに、つぶやきを残したとして、別に何が変わるわけではないのだが。

すごく具合が悪いわけではなく、ちょっと具合が悪い。もしかすると「すごく」の時のほうが逆に気合いが入って、やるべきことができてしまうのかもしれない。「ちょっと」の時が問題だ。休むほどではないが、頑張れるほどの元気はない。あやふやにどっちつかずで、やろうか、やるまいか、迷うばかりだ。

特筆すべきだと思われないちょっとした出来事も、振り返ると立派に思い出だったり、時には分岐点だったりすることもあるのではないか。どうってことのないあたりまえでありきたりな時間こそが、大事だったと思う日が来るのかもしれないし、そんなこともないのかもしれない。わからないから残してみる。

何かを作ったところでいいものができる保障はない。うまくいかない確率のほうが高い。それでも作り始めてみなければ、その何かは姿を見せてくれないのだし、作り上げてしまわなければ、その何かが何なのかを知ることもできないのだ。そしてできたそれは何であっても、作った者には愛おしいものなのだ。

疲れた。何か暖かい物を飲んで気持ちを落ち着かせたい。カフェに入りたい。そう思うのだが、同時に、カフェに入るともっと疲れるかもしれないとも思う。疲れているので少し休むか、疲れているので早く帰るか。決めることができない。疲れていて決める気力すらないのだ。そして迷っているとより疲れる。

締め切りのあるものを三つ提出した。三つも。我ながらよくやったと、とりあえずは褒める。しかし、締め切りはまたやってくる。また立ち向かわなければならない。大変である。しかし、何かが終わって、もう何もない。そんな状態のほうがきっと怖い。だからまた締め切りを作るか、作られるかして、やる。

自分がされて嫌なことは人にもしない。これは正しいようでいて、そうでもないと思う。自分と他人は違う。自分の許容範囲と、他人のそれも違う。自分が嫌だから他人も嫌なはず、だなんて、自己中心的な考え方ではないか。他人に嫌な思いをさせたくないのなら、その人を中心に物事を考えないといけない。

人間、何事も自分の身に降りかかってこないとわからないんだとは思う。想像力にも限度がある。だから、自分が知らない状況や状態にある人の話を聞かねばならないのではないのかな。誰かに起こっていることは、自分にも起こり得る。自分にもなら、自分の大切な誰かにも。他人事なんてこの世界にはない。