飛岡利明さんは、1991年2月9日に発生した関西電力美浜原発2号機の蒸気発生器伝熱管破断事故後、事故隠蔽に走る関西電力に忖度、正確な事故分析をして関西電力に批判的な私に対し、PWRの設計条件も知らず、不快極まりない強権的脅迫行為をくり返し、事故隠蔽体質の関西電力の僕的役割。
日本の原子力安全規制は、規制側と電力側の八百長で成立しており、規制側は、電力業界の意図を汲み取り、いかに、電力業界に便宜を図るかにあり、その不正操作の先兵役を担っていたのが飛岡利明さんでしたが、そのことごとくの現場に対し、偶然にも遭遇したのが、証人として数少ない存在の私でした。
飛岡さんが亡くなった5年後に、福島第一原発事故が発生しましたが、飛岡さんは、事故に遭遇せずに亡くなったことは、本人にとって良くないことであり、アルコール中毒患者が、素人並みの安全対策に携わったことも一因しており、いい加減なことをすれば、いい加減な結果になることを認識すべきでした。
飛岡利明さん(元原研、元原子力安全委員会委員)は、関係職場の誰しも知るアル中患者であり、アルコールの影響で、常に強弁をはいていましたが、仕事上の関係組織にウイスキーを求めるなど不正行為、その程度ではなく、電力業界との癒着もひどく、関西電力と共謀不正実験(1991)、情報操作。
飛岡利明さんが、原子力安全委員会委員の時、勤務中に飲酒が目撃され、問題視されましたが、改められず、勤務時間が終了すると、同ビルの地下街の飲み屋に直行する毎日が、原研から同委員会事務局に出向していた人物により目撃され、私は、その様子の報告を受け、日本の安全規制の危うさを感じました。
飛岡利明さんは、昔、いつも、日曜日の昼頃、水戸市にある原研住宅から少し離れた旧茨城県庁敷地内にあった茨城県立図書館附近のベンチに座り、新聞を読みながらビールを飲んでいるのが目撃され、アル中であることは知れ渡っていて、私は、原研理事経験者から、そのことを聞いたことがありました。
飛岡利明さん(原子力安全委員会委員、67歳)は、2006.11、亡くなりましたが、アルコール中毒による疾患に起因し、原研勤務中と同委員会勤務中に、飲酒が目撃され、問題視され、誰もが知ることになっていたことですが、問題は、そのような人物が、原子力安全と言う役割を任されていたこと。