天正10年(1582)3月11日は武田勝頼が信長軍に攻められ天目山麓の田野で自害し甲斐武田氏が滅亡した日。相次ぐ身内の離反により最期は夫人や嫡男信勝ら僅か40人余だったという。滅亡の原因は様々語られますが兄義信が廃嫡され信玄の死で名門を継いだ勝頼は一体何と闘っていたのでしょうか。
永禄10年(1567)10月19日は武田信玄の嫡男義信が2年間の幽閉の果てに死去した日。死因は自害か病死かはっきりしない。義信は傅役の飯富昌虎らと謀反を企て事前に発覚した。信玄は信長と結び対今川の方針転換を図っていた。今川氏真の妹を妻としていた義信はこの方針に反対したとみられる。
31日は旧暦にない。天文23年(1554)7月は北条氏康の娘早川殿と今川氏真の婚姻が行われた月。既に武田義信に今川義元の娘嶺松院が嫁いでいた。この年の12月に武田信玄の娘黄梅院が北条氏政に嫁ぐことになる。これで武田・北条・今川の甲相駿三国同盟が成立し三者の後顧の憂いがなくなった。
永禄10年(1567)10月19日は武田信玄の嫡男義信が2年間の幽閉の果てに自害した日。傅役の飯富昌虎らと謀反を企てたが事前に発覚した。義信の妻は今川の姫で信玄による対今川の方針転換が原因といわれる。信玄は父の追放もしている。せざるを得ない状況とはいえ親子の争いを見るのは辛い。