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「箕輪の剣」第5話

第5話 戦さ

 長野業政が主だった家中を城に集めたのは、翌朝のことだった。上泉秀綱を除けば、殆どが長野一族である。あまり知られたくない話だろうかと、上泉秀綱は思った。
「都の、公方様からの書状である」
 長野業政がぼそりと呟いた。公方とは、室町将軍・足利義輝のことだ。
「して、公方様は、なんと仰せか」
 業正の叔父で厩橋城主の長野宮内大輔方業が身を乗り出した。
 将軍家が、地方豪族へ何かしらの沙汰を出すことは珍しいことではない。上野国でも金山城の横瀬新六郎成繁が将軍より沙汰を得たと聞く。横瀬氏は早くから北条氏と通じているため、長野業政と一切の交流はない。よって、あちらの沙汰の仔細は知らぬ。
 一同は、じっと、長野業政をみた。
「ああ、あのな」
 歯切れが悪そうな口調だが
「悪い話ではない」
 そういって、長野業政は上泉秀綱をみた。
「公方様は、諸国の武芸者を呼んでおる。お前のことも、どこかで聞いたようだ」
「御戯れを」
「行って来るか?」
「お断りします」
 上泉秀綱は、いまが機ではないと断じた。
「なぜだ」
 長野業政は怪訝そうに問うた。
「駄目なのです、迷いがあるのです」
「迷い?」
「悟りがないのです。こういう様で、公方様になにを上覧できましょうか」
 つまりは、こちらの都合だ。遠慮ではない。
「ならば、仕方ない」
 業政は得心した。しかし、長野の一門は、勿体ないことだと、上泉秀綱を責めた。行くことで主家の顔を立てるべきだとも訴えた。
「無様をさらしては、顔を潰します」
 上泉秀綱は譲らない。
 はたして何を迷うのかという問いに、上泉秀綱は胸を張った。
「鉄砲と、どう戦えばよいのでしょう」
 あまりのことに、一同はキョトンとなった。
「鉄砲とは、武器なのか?」
 弾正忠業国が呟いた。あれは、采配するための、遠くまで音を出して伝達する道具だとも呟いた。
「しかし、もしも相対したら、勝てましょうか」
「勝つもなにも、あれは武器ではない」
 たしかにこの当時、鉄砲は貴重な品で、関東でもすべての家が持つものではない。技術も、支度も、面倒なものだ。まだ、弓の方が便利だし、殺傷能力は高い。
「迷う相手が違うだろうが、しかし、納得できないなら上洛せずともよい」
 長野業政は無理強いしなかった。
 どのみち、いま、有能な家臣を割けない事情がある。
 武田だ。ついこの前まで長野家で庇護をしていた真田次郎三郎幸綱が武田に仕官し、小県で活躍をしているという。この真田に与力する勢力が、佐久から西上野を狙っている。長野業政は周辺豪族を取りまとめるとともに、意に沿う家臣を送り出さねばならない。上泉秀綱は必要な人材ゆえ、京に手放すことが出来なかった。
 武田との合戦は、すぐに生じた。
 碓井瓶尻へと兵を進めてきたのは、武田晴信の嫡男・義信を大将とする軍勢だ。上杉憲政がいない以上は、上野国の豪族は烏合の衆である。徐々に切り崩せば、北条よりも先に上野を奪えるというのが、武田の目論見だろう。
 ただし、長野業政と戦っても成果がない事実だけが、武田晴信の気を揉ませた。小田井原での戦いは、上信州の勢力に武田が勝った。しかし、そこに長野業政の策も参陣もない。その後の武田の上州侵攻に、長野業政が立ちはだかった。すべて、結果的には、武田は長野業政に勝てなかった。地の利、人の利、智謀と抵抗、すべてが武田を凌駕した。そのことを、晴信は忘れていない。
 このときの上州勢は、箕輪城主・長野業政を総大将として、小幡・藤田・安中・白倉・金井・和田・甘尾・多々良・尻高・後閑・長根らの二万余騎が連合し、瓶尻原に布陣した。
 武田が軍を動かすときは、調略を先んじる。信濃計略は、まさにこの方法だ。そして、連合するなかの小幡憲重父子は、このとき武田に内通していた。長野業政はこのことを承知したうえで、小幡憲重に重要な布陣を任せた。これが裏切り、そこから武田勢が雪崩打って攻め入ることを、ひとつの策として描いていたのだ。そして、想定通り、武田勢が押し出した。
「撤退じゃ。全軍撤退せよ。しんがりは長野勢がしかと務めん!」
 長野勢はこののちの策を承知している。押されている風を装い、兵を損なわぬよう、じりじりと後退した。この様をみて
「罠か」
と怪しんだ武田の者が一人だけいた。
 山本勘助晴幸、武田晴信の軍師である。
「若様、兵を止めるべきです」
 その諌言を、義信はせせら笑った。傍らの諸将も、取り越し苦労だと囁いた。
「長野信濃守を甘く見てはなりませぬぞ」
「臆病者め」
 義信は、勘助の言葉を退けた。
 ならばと、勘助は前線へ出た。状況を直接見ながら、敵の狙いを見抜こうとしたのだ。しかし、長野勢は、途中に伏兵を置くこともなく、箕輪城へ向け、じりじりと退くだけだった。そのことこそ、薄気味悪かった。
 勘助は、兵站が伸び切らぬうちに兵を退くべきと、再度、訴えた。義信はその声を聞こうとはしなかった。
 やがて、武田勢は箕輪城間近まで兵を進めた。長野勢は城へ籠り、野戦に出ようとはしない。城攻めは籠城する兵の三倍を要することが定石だ。いまの武田勢は、それに満たない兵力だった。
 武田勢は峰法寺口に陣を張って攻めた。堅固な縄張りである箕輪城を落すことは至難だった。ここで、業政は反撃に出た。昼に夜に、延びた兵站を脅かす奇襲を繰り返し、武田勢を悩ませた。損害が増える一方だ。このとき、晴信の弟・武田典厩信繁が箕輪城下まで進軍してきた。
 義信の本陣にくると、鬼のような形相で
「勘助の進言を退け、敵に深入りするとは、愚かしいこと」
と激昂した。義信は局地戦のつもりであったが、実は広範囲の組織戦であることに気付いていない。
「善光寺平へ、越後勢が進発する報せがございました」
「越後勢が攻めてくると?」
 義信は目を丸くした。
 そして、それが意味することを洞察した。
「……北信州が、奪われる」
「そうじゃ、敵は越後へ逃げ込んだ小県の豪族どもである。領地を奪回するために攻め寄せることでしょう。もし、川中島を抜かれたら、ここは背に腹に敵を受けてしまう。このままでは殲滅ですぞ」
 義信は戸惑いを隠せない。
「まさか」
「ええ、このことも、長野信濃守の策だったのでしょう」
 越後と通じて、そのうえで上州へ武田勢を誘う。いかにも長野業政の仕業だ。戦さ上手の長尾景虎が、この気運に呼応すれば、この動きも道理が合う。
「それでは、我らをもっとここに」
「釘付けにする所存」
 義信は蒼白になり、撤退を命じた。
「ここは敵地、なりませぬ!」
 山本勘助が制した。
 もしも一斉に退いたなら、箕輪城や周辺の山城から、間髪入れず追撃されるだろう。そうなれば、武田勢は全滅する。兵站を延ばしたことで、いまは絶体絶命の窮地といってよい。
「退くならば、退き方を考えねばなりませぬぞ」
「されば勘助、それを云うてみよ」
 瓶尻まで退くには、五里ほど要する。下り気味の山道だ。途中には、安中や後閑といった城がある。これらが押し寄せる恐れもあった。
「魚鱗の陣を崩すことなく、まずは瓶尻まで退くのです」
「それだけでは、碓氷峠を越えられまい」
「調略に応じた倉賀野へ、使いを差し向けるのです」
 倉賀野は和田城の東南にあり、大きな勢力を有している。
「倉賀野が動けば、和田も、安中も、そちらを警戒するでしょう。我らは後閑城さえ注意すればいい」
「危険だな、誰が敵中を抜けて倉賀野へ行くというのか」
 勘助はじっと義信をみて
「それがしが」
「待て。勘助には別命があるはずだ」
 信繁が制した。
「たしか市河藤若のもとへ赴き、越後に転ばぬよう説得せよと命じられておるはず」
「はい」
 義信が兵站を伸ばしたため、その任につけないのだ。しかし、このままでは飯山まで赴くことなどできない。ならば、どうしたらいい。勘助は思案した。
「儂が後閑城下を抑えよう」
 信繁が断じた。傍目には、信繁の軍勢は本隊への伝令程度の規模だ。これが単独で退いたところで、義信をそのまま箕輪城下に引き止められるなら、長野勢はそちらを選ぶだろう。
「儂が単独に退き、後閑城下で動きを止める。そこで若殿が魚鱗陣を崩さず退くのだ。後閑の兵は我が軍勢に縛られる。その間に、若殿がこちらへ合流すれば、後閑城の兵を突破できるだろう」
「叔父上」
「倉賀野へは、乱波を走らせることとする」
「乱波で動いてくれるだろうか」
「飛び加藤ならば、どうだ」
 術者として熟練の乱波で、変装も得意だ。これまで勘助に幾度も化けている実績があった。飛び加藤が勘助に化けて、兵を動かすよう求めれば、本人でなくても用は足りる。
「勘助、それでいいな?」
「かたじけのうござる」
 山本勘助は甲冑を脱ぎ、杣人のような身形に扮して馬を走らせた。
 武器は太刀一振りだけだが、押し通るしかない。まさか単騎が抜けようなどとは、相手も思いつかぬ。が、松井田あたりで勘助の行く手を阻む者がいた。上泉秀綱の伏兵だ。こういう伏兵を上泉秀綱は山中に散らし、碓氷峠をめざす敵に備えていたのだ。
 そのなかにいたのが、疋田文五郎である。疋田文五郎は山中の戦さには槍が不向きと知っていた。太刀だけで捕えようとした。そして、偶発的に、山本勘助と対峙した。
「何者か!」
 暗い山中、疋田文五郎は脇を締めて、登るように勘助を追った。
 勘助は地の利を求め、峠を目指すような格好で、退いた。そして、立地を得ると、反撃に転じた。山本勘助は京八流の使い手だ。鞍馬山で興ったその流派は、山中の野戦にこそ真価を得る。
「あ」
 疋田文五郎は蹴落とされて、勘助に逃げられた。
「新当流に似ているが、あれが新陰流か」
 山本勘助は塚原卜伝とも知己で、新当流はよく知っていた。その卜伝から、上泉秀綱のことも、むかし聞いていた。槍も使わない輩は、剣術使いだ。長野業政の家臣なら、間違いなく上泉秀綱の門下に違いない。
 疋田文五郎にとって、勘助が相手だったことが不幸だった。軍略のみならず、剣の使い手でもある。まだまだ相手にはならない。
 結局、山本勘助は、この囲みを突破することが出来た。
 飯山へ向かう先々で
「若殿の救援を」
と勘助は触れた。追加の軍勢が碓氷峠に向かった。これと対峙するには、上泉秀綱の伏兵は少なすぎた。
 武田信繁と義信は、辛くも追撃をかわし、信州へ逃げ込むことができた。失う兵は多かった。長野業政の強さに、義信は震えが止まらなかった。
 長野業政は国境を越えて武田勢を追撃することはなかった。追い払えれば、それでいいのである。
「越後勢に恩を売れた。これで、当方を無視できなくなろう」
 これが、長野業政の狙いだった。
 
 川中島で小競り合いしたのち、長尾景虎は越後へ退いた。
 関東出兵の声は、西上野からだけではない。武蔵からも、下野からも届いた。そして、上総の里見家からも届いた。
「里見は北条を引き付ける。その間に越山し、小田原を攻められたし」
 尊大な物云いだ。里見とはどのようなものか、長尾景虎は長野業政に問わねばならなかった。
 それを質す文に
「上総の槍大膳がいる精強なつわものなり」
 返事は、単純明快なものだった。
 長尾景虎は関東出兵の意思を、願う者たちに返事として送った。
 
 新月の夜。
 上泉秀綱は、庭の物音に気がついた。そっと裏口から表へ廻ると、垣根のところに、くまがいた。くまは、誰かと話をしている。薬売りのようだ。それにしては、様子がおかしい。
(どこぞの乱波か?)
 くまと、関係があるというのか。会話はうまく聞き取れないが、長尾勢の関東入りのようなことが聞こえた。くまが、相手に伝えている。
(くまは間者だったのか?)
 上泉秀綱は、悟った。意味もなく姿を消すことが多かったのは、くまが、他国のどこかに繋ぎをとっていたからだろう。そうでなければ、合点がいかぬ。
(斬るか?)
 簡単なことだ。
 しかし、上泉秀綱は思い留まった。どこの乱波かを探ってからでも、くまの始末は遅くはない。
(それにしても)
 あのとき、童の頃から、すべてが計算されたことだったとしたら
(裏切られたものだ)
 という失望が胸中をよぎった。
 上泉秀綱は深く息を吸って、すべての想いを飲み込んだ。いつか、くまは、斬らねばならない。そのときまでは、騙されたふりを続けるだろう。そう思い、裏口に戻り、何事もなかったように床に就いた。
 しかし、この夜は、どうにも眠れなかった。


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