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もう、誰にもソバを止められない

夏の太陽が川面に反射し、長瀞の川は白く照り輝いている。大きな岩から次々と白い川へ飛び込む子供達。あがる水しぶきに一瞬の虹がみえたのを、椿田竜児は見逃さなかった。家族づれで賑わう長瀞の河原を横目に、椿田は浅瀬でサンダルを濡らしながら石を投げていた。ひとつ、ふたつ、みっつ…。

もう何個投げただろう。額から流れる汗を腕でぬぐいながら、後ろを振り返ると親父がいた。親父は目で合図をすると、何も言わずに車の運転席のほうへ歩き出す。バシャバシャと音を立てながら河原に上がり、椿田も親父の後を追った。

「そばを食いに行く」

それだけ言って車は走り出した。連れて来られたのは、今にも死にそうなジジイと、あと2年は生きられるババアがやっているそば屋だった。店の奥に通されると、そこには長瀞の川を一望できる眺めのよい席があった。崖の際に作られたこの展望席の100メートル下には、川がゴオゴオと音を立てて流れている。慣れた様子で親父は座ると「流しそば2つで」と注文した。その時、ジジイの目の奥が光るのを、椿田竜児は見逃さなかった。

古びた柱についた赤いボタンをジジイが押すと、地鳴りとともに、崖の際にあった展望席がせり出し始めた。椿田が動揺する一方で、親父は涼しい顔をしている。そして、とうとう川の真上まで展望席がせり出してしまった。さらに、黄色いボタンを押すと、今度は足元の床が一瞬にしてガラス張りになり、椿田はたじろいだ。さっきまでの清い急流が、禍々しい水の塊となって大きな口を開けている。テーブルに目をやると、いつのまにか長い竹が一本置かれており、水が流れていた。その流れは長瀞の急流のごとき勢いで、最後は一筋の滝のように真下の川に注ぎこんでいた。

「れでえいす、えんど、じゅえんとるめん」

ねちっこい英語が聞こえたかと思うと、「始め!」とババアが勢いよくドラを鳴らした。空気が震え、ほんの少しの間を置いて、木々の間から山鳥たちが飛び立った。

竹の上を水とともに、そばが流れ始める。速い。だが、親父は流れるそばをやすやすと箸でつかみ、めんつゆにつける。そばがすすられる時の心地よい濁音が長瀞の川にまで染み込んでゆく。椿田も遅れて箸を持つ、が、そばは速い。水をつかむ椿田。とり損ねたそばをつかむ親父。しかし、親父もそばを一本とり損ねる。一本のそばは100メートル下の川へ、一筋の水の流れとともに落ちていく。

「音だ」

親父がつぶやく。そばが流れる。つかみ損ねる。そばをすする。ジジイがそばに手を伸ばす。水が流れる。ババアがせきこむ。そばが流れる---音。見上げると大きな入道雲が風に流されていく。今。そばをつかむ椿田。そばから滴り落ちる水が、涙のように、嬉しさのあまり。めんつゆに静かにひたし、口に運ぶ。と同時に震える唇。一瞬の静寂。川の轟音が蘇る。初めてだ、うまいそば。

「あんた、とうとう見つかっちまったみたいだよ」ババアがドラを3回鳴らすとアナウンスが流れ始める。

「コノ、シセツハ、アト3分デ、ショウメツシマス」

店のほうが騒がしい。怖い顔をした大人たちが次々と店に踏み込んでくる。それでも、そばは流れ続ける。水の上をすべるそばの音。突然の爆発音。店の入り口が木っ端微塵になる。つかみ損ねる椿田だったが、親父がつかみ、そばをすする。ババアの怒声が響き渡り、燃え盛る炎が迫り来る。ジジイの手は止まらない。そばも止まらない。流れる。つかむ。すする。その繰り返し。

「THE END」

そう言って、最後のそばを流すと、ジジイは椿田と親父の首根っこをつかみ、展望席から二人を放り投げた。直後、そば屋と展望席は爆発し、炎に包まれた。そばとともに、椿田と親父は真下の川へ落ちていく。


※  ※  ※


椿田が目を覚ますと、親父は焚き火に木をくべていた。びしょ濡れのジジイとババアは、寒そうに肩を寄せ合っている。親父は椿田に気づくと、すっと暖かい飲み物を差し出した。椿田は、渡されたそば湯を少し眺めた後、ぐいっと上を向いて飲みほした。燃える盛るそば屋の火の粉が、青い空に溶けていく。


-終-

photo by SimonWhitaker

以上、『橋本歩と椿田竜児のレイディオ』の再構成バージョンでした。
第16回目「カビが生えたマカロン」

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