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「正しさ」に逃げるな

1年を振り返って、今の気持ちを主に未来の自分のために残しておきたい年末恒例的な気分が芽生えるも、あとで読み返すと恥ずかしい文章になるのは自明。ゆえに、何の罰ゲームか、と思いつつ、しばらくの葛藤の末、ちょっとだけ何かを上回った結果、書かれて公開された何かです。読んで欲しいような、読んでほしくないような。

「ウソはバレる」というビジネス書を読んで「我が意を得たり!」と興奮しnoteを書き出した2018-2019の年末年始

2018年末に「ウソはバレる」という本を読んで「我が意を得たり!!」今年のベストビジネス本やで!と興奮したのが、昨年末。

改めて、本書の概要を、さらっとおさらい。

マーケティング理論が開発された当時、消費者の意思決定のしかたは今と違っていた。しかし、きわめてソーシャルな現在の情報環境では、消費者の意思決定のしかたはいくつもの点で変わってきた。マーケティングというものが今〝発明〟されるとしたら、現在のビジネス・スクール、幹部向け教育プログラム、教科書で教えられているマーケティングとはまったく別物になるだろう。説得の手法だとか選好の形成だとかいう話はあまり出てこないだろうし、企業が何をどう言うかではなく、何をするかが重視されるだろう。新時代で成功するためには、みんなの求めているものを追跡し、人々に絶対価値を提供することが重要になる。

インターネット、特にSNSが出てきて、マーケティングの理論や定説、かなり変わってまっせ、という話。

消費者が知識豊富な専門家や数々の情報サービスへと完璧にアクセスできる世界、過去のユーザーの意見を一発でずばり確かめられる世界では、製品やサービスのおおよその利用体験を予測するのはずっとラクになる。そう、つまり製品やサービスの「絶対価値」がまるわかりなのだ
絶対価値とは、ある製品についての何か普遍的な真実、という意味ではなく、特定の消費者が体験する製品の実際の質という意味だ。つまり、製品を実際に体験する前に、「たぶん使い心地はこんな感じだろう」とわかってしまうのが今の時代なのだ。

SNSやレビューサイトなどを通じて、商品やサービスを体験する前の期待値と実体験(≒絶対価値)のギャップが、どんどん埋まっていく。

ゆえに、マーケターの仕事は、心理操作や知覚品質による事前期待の粉飾ではなく、正直な消費者コンテンツを生み出すこと、そして、商品やサービスの体験における「絶対価値」を磨く競争になっていく、というのが本書の主張。

そういう世界観に希望を感じて「我が意を得たり!!!」と高ぶり、何かを書きたい衝動が湧いて、その勢いで今年の頭に初めてnoteを書きました。それがこちら。(あとでサマるので、読まなくて大丈夫。)

1年前は黒歴史!このnote読み返すと、だいぶナーバス

それからというもの、2019年の1年間、なんとなく書き続けないといけない気がして、毎週毎週、一度たりとも欠かすこともなく、52週間にわたりnoteを書き続けて行くことになる(週報)。

実はずっと、この本の感想として書いたことが、心のどこかでひっかかっていて。その正体がわからぬまま、いつか向き合わねば、、と思いながら、直視できないことをごまかすために、代わりに別のことを書いてたら、1年過ぎてしまった結果が週報なのかもしれない。

過去の自分は黒歴史。1週間前に書いた文章を読み返しても、ああああああー、、と思うのに、1年前に書いた文章に向き合うのは相応の覚悟が必要。

それでも意を決して読み返す。当時の自分が書いた本書に対する感想を列挙すると、概ねこんな感じ。

・マーケティングの「心理操作」の効果が薄れることに、救われる。
・ブランディングの名の下に、消費者を騙して企業の養分にしている側面があることがずっと引っかかっていた
・自分が消費者ならマーケティングなんてされたくない
・だから自分は「マーケター」なんて名乗りたくないし、名乗ってない
・自分が欲しいと思えるモノ・嘘偽りなく推奨できるモノが売れる仕組みを作る支援をしたい(推奨できないもののマーケティングはしたくない)
・「絶対価値」が高いものが、ちゃんと評価される世の中になっていくのはとても良いこと
・期待値を煽って、心理操作することではなく、絶対価値の向上させる営みに投資されていく世の中は健全
・そういう世の中になる後押しをするのを自分の使命としたい

個人の意見として、別にいいんじゃないか、今もそんなに考えていること変わらない気もする。

意を決して読み返した割には、特に「もやもや」するところもなく。何がひっかかってたんだろう、そもそも何も引っかかってなかったのか、いや、たしかに何か引っかかっている。何を言っているかよくわからないと思いますが、自分でもよくわからない。

そこで、今度は本書を頭から読み返してみることにした。

本書は、「希望の書」ではない。ただ起きている「変化」について書いてあるだけ

改めて読み返すと、自分の書いた感想のもとになっている解釈と本書に書いてあることに、若干のズレがあることに気づく。

本書では、消費者は「絶対価値」に基づいて的確な判断が下せるようになる、その結果マーケティング手法を変えていかないといけない、という変化について客観的に書いてあるだけ。

その結果、訪れる世界の是非について、よりよい世の中になるとか、正しい世界になる、というニュアンスは感じられない。

##ちなみに、そもそも、内容も古い。原著は2013年に書かれた本なので、そりゃ仕方ないんだけど。本書によって覆された定説と同様に、本書の主張も、その後の変化によって覆されている部分もある。例えば、SNSの登場によって、体験価値自体が変わっていくので、「絶対価値」自体がSNSによって変容しているのではないか。わかりやすい例でいうと、「インスタ映え」とか。そういう点を意識して読むべき本だと思う。

操作によって作為的に生み出されていても、消費者が信じていれば価値

例えば、本書のこの記述。

長年、ボルボは安全の代名詞だったが、信頼できる情報源により、安全性はほかの車と変わらないことがわかると、ボルボの名声は消えてなくなった。

20年前、自分の父親が単身赴任で東南アジアに行ってた時、付与されていた車がボルボだった。「ボルボは一番安全なんだ」と得意気に言ってた父に、

「それはマーケティング上のメッセージによる知覚品質の操作でしかなく、信頼できる情報源によれば、安全性は他の車と変わらない」

なんて、わざわざ伝えることに価値はない。

情報環境の変化は、当然ながら、良い部分もあれば、悪い部分もある。それが正しいかどうか、を考えること自体はむしろいいことだし、明らかに悪いと思うことをやってはいけない。だけど、それで動く、価値を感じる人が存在するということは、真実。

サンタクロースはいません、って、バレやすくなった世界はあんまり幸せじゃないと思うし、自分が子供の時に信じていた頃の感情は、真実を知っている今振り返った時に減衰するものでもない。

「正しさ」で、逃げ出したい弱さを正当化していないだろうか?

自分は「正しさ」と「見せ方」みたいな概念で捉えて、「正しさ」にこだわって来た。例えば、コンペの資料を分厚く作ったり装飾する「見せ方」よりも、内容そのもの「正しさ」で勝ちたい。装飾は無価値。

でも、これって、受け手側が装飾された分厚い資料に価値を感じるのであれば、それは「見せ方」ではなく「価値」の一部、であり、作り手の考える「正しさ」は、自己満足でしかない。結局、正義なんて、自分の主観的なこだわりでしかない。

装飾する技術に自信がないから、装飾に向き合うことから逃げるために、装飾が無価値、という「自分なりの正義」の名の下に逃げ出したい弱さを正当化してるだけに過ぎない。結局、不安で逃げたかっただけ。

「正しいかどうか?」にナーバスになっているうちは、勝てやしないし、ほんとうに正しいことなんてできない。

期待値を煽って売ることが悪、というよりは、期待値に実体を合わせようとする努力を怠っていることが悪。「正しいかどうか?」にナーバスになっているということは、正しくするための覚悟がない、というだけなのかもしれない。

ウソにならないように、帳尻を合わせる努力をしつづけることが責任、辛くても逃げない

ボルボは、もしかしたら現時点での安全性は他の車とかわらないかもしれない。そういう意味ではウソをついてしまっていることになるのかもしれない。だけど、今もなお、一番安全な車であることを目指し続けていて、いつか一番安全な車になる日が来るのであれば、いつかウソじゃなくなる。

負けたのは「弱かった」だけ。正しくなかった、とか、正しかったとか、そういう話じゃない。

なので、「正しさ」を持ち出している時は、だいたい何かから目をそむけて、自分を正当化しようとしてる時なんじゃないかと。

負けたのは弱かっただけ、そこに向き合うべき。

問うべきは、それで勝てるのか?強くなれるか?誰かを傷つけないか?

だからこそ、意思決定においては、正しいかどうか、を問うんじゃなくて、それで勝てるのか、強くなれるのか、誰かを傷つけないか、そういう事を問うことが大事なんじゃないかと。

力なきものは、誰も救えない

強くなったら、弱った仲間を助けられるし、弱ったら、強い仲間に助けてもらえばよい。

内向きではなく、外に向けて。自分のためではなくて、まだ見ぬ誰かを救うため、いつか出会う使命や大義を成し遂げるために。

強くなりたい、強くなる

オラ、もっともっと強くなりてぇ(孫 悟空)

これ、一周回って、すごい名言かもしれない。

強くなければ、勝てないし、もたらせるやさしさも限定的になってしまう。

やさしく、正しく、だけど弱い、って、残念じゃないか。

「正しさ」は、しばらく脇に置いといて、考えすぎるのやめよう。強くなろう。勝ちにいこう。

「正しさ」に逃げるな。もっと強くなって「勝ち」にいけ

ってなわけで、今年1年かけて悩んだ末に気づいた、心に刻んでおきたいメッセージは、「正しさ」に逃げるな。もっと強くなって「勝ち」にいけ になる。

このひとことに、たどり着くために、今年中、いや、5年くらい、もがいて、のたうち回っていたんだな、と。

もう、迷いはない。

毎週note書いてました

先程も触れた通り、今年の頭に1つ目のnoteを公開してから、ちょうど1年、52週目になります。

noteを書いたおかげで得られたものは、たくさんあって、例えば、ぎっくり腰になると、みんな私に報告くれるようになったりしました。(ぎっくり腰センターは誰も呼んでないんだけど)

目的も理由もわからないまま、年始に「無理矢理にでも毎週書く」という目標だけ設定して、めんどくさくなった週もありましたが、なんとか1年間続けられたのは、意地でしかない。何か持て余していたエネルギーの行き場を探していたような、そうでもないような。

これからは、そのエネルギーは、もっと強くなるために使おうと思ってます。フリーザ倒す!

※今回は、12月22日(日)~12月28日(土)分の週報になります。

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