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【モノローグエッセイ】オスカーから見るニューノーマル

⭐︎ だれかがあなたの右の頬を打つなら

先日行われたアカデミー授賞式。
SNSのタイムラインでは、どの作品が受賞となるかの予想やゲストのハリウッドスターのドレスコードの写真でいっぱいだった中、おそらく多くの人の目に留まったのは、ウィル・スミスについての件だろう。

この出来事についてももちろん後で語るが、ウィル・スミスの件をはじめ、私は今年のオスカーは、見るだけで現代社会において現在進行形で変わりはじめているニューノーマルな主義思想考え方の勉強になるなぁとざっと見て感じていた。

私の考えの壁打ちではあるが、あーこういう流れが日本でも、特に私が今活動しているミュージカル演劇業界でも広まってほしいなぁと思ったので今回語ろうかなと思う。

ウィル・スミスの件については最後に取り上げます。

↓引用&参考サイト↓



・司会の女性三人のキレッキレトーク

今年司会を務めたのはエイミー・シューマー、ワンダ・サイクス、レジーナ・ホールの女性コメディアンの3人。普段からウィットに富んだキレキレのトークで楽しませているらしく今回もどんなトークが繰り広げられるか期待されていたみたいだ。皆の期待通り、思わずヒュー!と言いたくなるようなキレッキレなトークだった。
エイミー・シューマーが「今年はアカデミーが3人の女性を司会者に起用した。男性1人を雇うより安いからね」とハリウッドの賃金格差をネタに笑いを誘い、ワンダ・サイクスは「フロリダの人たちへ。今日はゲイナイトを開催するよ!」とフロリダ州の「Don't Say Gay法案」(フロリダで今月初めに議会で可決された、州立の幼稚園と小学校の教師に、3年生までの生徒を対象に性的指向や性的アイデンティティについて教えたり議論したりすることを禁じるもので、LGBTQsの若者たちに対する差別やLGBTQsを受け入れない土壌につながると批判されている法案。)を批判し、「ゲイ、ゲイ、ゲイ〜♪」と口ずさむと、会場に集まったセレブ達は大きな拍手を3人の女性に送った。

個人的には、RENTのくだりが好きだった(笑)

まず、エイミー・シューマーの男女の賃金差についての指摘はフェミニズムにつながると思う。家父長制批判にも。ウィットに富んだ言い回しかっけぇ。
Don't Say Gay法案」については、私はこの時始めて知ったが、これは明らかにLGBTQs差別に反対する意図が見受けられる。


・助演女優賞受賞のアリアナ・デボーズのスピーチ

今回、助演女優賞を受賞したのは映画『ウエスト・サイド・ストーリー』のアリアナ・デボーズ。
彼女はアフリカ系とラテン系、そしてアングロサクソン系のルーツを持ち、クイア(自身の性自認や性的指向が定まっていない、もしくは意図的に定めていないセクシュアリティを指す。)であることを公にしている。
アカデミー賞でクイアの有色人種の女優が演技部門の賞を獲得するのも彼女が初。スピーチでは、「この疲弊した世界の中でも夢は叶います。自分のアイデンティティを疑ったことのある人へ。私があなたに約束します。私たちの居場所は確かにあるのです」と語った。

彼女のスピーチで、オリジナル版の「ウエスト・サイド・ストーリー」で同役アニタを演じたリタ・モレノを挙げて「あなた(リタ・モレノ)が演じたアニタが、私のような数多くのアニタに道を切り開いてくれたことに感謝します。心から愛しています。自立した人としてこの役を演じることができて嬉しい。だって、この役をやる人が人生経験のない人だったら、この時代のアニタをちゃんと演じられたかどうかわからない。それがアニタという人。自分の考えがはっきりとある自立した人。」と語っていたのも胸を打った。
彼女の成し遂げた快挙が、彼女のいう「自分のアイデンティティを疑ったことのある」人々の希望の光にとなり、後世にもその光が続いて言って欲しいと思う。


・トロイ・コッツァーの助演男優賞受賞

助演男優賞を受賞したのは映画『コーダ あいのうた』のトロイ・コッツァー。
昨年『ミナリ』で助演女優賞を受賞したユン・ヨジョンが彼の名前を読み上げると、最初は歓声と拍手が沸き起こったがすぐに静かになり、拍手の代わりに手を振る手話の拍手で祝福し、聴覚障害を持つ彼にふさわしいスタイルで彼を称えた。(トロイ・コッツァーが手話で会話ができるようにオスカー像を持ってあげるユン・ヨジョンも素敵。)

男性ろう者として初のノミネート&助演男優賞受賞を果たしたトロイ・コッツァー。ノミネートが決まった際のスピーチでは、「私がろう者だからではなく、才能のある俳優として仕事ぶりを認めてもらえたことを嬉しく思います。私自身、とても興奮しています。また、世界中のろう者コミュニティが喜び、祝福してくれていることに本当に感動しています。それに、演者で、たまたま耳が聞こえない人たちにとっても今回は大きな意味を持っています。たいてい、映画にろう者が起用されたとしても、たった1人だけの配役なんです。これからハリウッドがさらにオープンになり、多種多様なアーティストに物語を伝える機会が回ってくることを願っています。今回、アメリカの手話やろう者カルチャーの関心が高まったことはポジティブな変化だと考えています。」と語っていたのが私は考え深かった。
多様性を重要視するムーブメントは様々な場所で大きく拡がっていくのではないだろうか。


・ウクライナへのサポート

歌曲賞にノミネートされていたリーバ・マッキンタイアの「Somehow You Do」を紹介したのはミラ・クニス。
ウクライナ出身の彼女は、ロシアの軍事侵攻に立ち向うウクライナを称え、放送ではミラ・クニスの発言を受けて「現在、侵略と紛争、偏見に直面しているウクライナの人々の支持を示すために」黙祷の時間が取られた。黙祷の間、画面には「あなたにできる方法でウクライナをサポートしてください。」「映画は紛争時に私たちの人間性を表現する重要な手段です。しかし現実にはウクライナの何百万もの家族が食糧、医療、清潔な水、緊急サービスを必要としています。資源が乏しい中、私たち国際社会にはもっとできることがあるはずです。」というメッセージが映し出された。

また、主演女優賞を受賞した『タミー・フェイの瞳』のジェシカ・チャステインは、この作品で彼女が演じた実在のテレビ伝道師タミー・フェイのことを語りながら、「私たちを分断させることを目的にこの国を席巻している差別的で偏見に満ちた法律に直面しています。世界中で罪のない一般市民が暴力や憎悪犯罪に晒されています。このような時代に私はタミーのことを思い出し、彼女の愛の行為に触発されました。私は彼女の思いやりに勇気を与えられました。それは私たちを前進させる指針だと思います。ありのままの自分を認められたい、誰を愛するかを受け入れられたい、暴力や恐怖のない人生を送りたいという願望で私たちは繋がっている。孤独や絶望を感じている人たちに、あなたという唯一無二の存在が無条件に愛されていることを知ってほしいのです。」とステージで語った。


・ウィル・スミスの一件について

私がこの出来事について、考えたことは簡単にまとめると以下の4つだ。

①直接的暴力はダメ。"言葉"の暴力もダメ。
②"男らしい"、"漢の中の漢"っていう表現にも違和感
③差別は無知から生まれる。
④怒りや傷ついたことを正しく伝えるには?

順番に説明していく。

① 直接的暴力はダメ。"言葉"の暴力もダメ。

まず私はウィル・スミスの「行動」については賛同できないが、「信念」は正しいと思う。難しいね。でも、皆この出来事について考える時まず悩むところはここなんじゃないかなと思う。
ウィル・スミスは愛する家族(パートナー)がレイシズム要素を含むジョークに傷ついたことを受け、家族(パートナー)のために怒った。その怒りを平手打ちという行動でクリス・ロックにぶつけた。

ウィル・スミスがクリス・ロックにしたのは、「直接的な暴力」であり、これはあってはならないことだと考える。相手に傷害を与える行為で、下手をしたら取り返しのつかない事態になる危険性を秘めているから。
もちろんそんなことはウィル・スミス自身も承知の上で、その行動をとってどんな報いや困難が自分に降りかかってくることも分かっていたと考える。(※現にこの記事をのっそり書いている間にウィル・スミスのアカデミー賞への10年の出席禁止処分が決まった。これについては追記でも書いています。)

だから平手打ちなんだろうなとも私は思った。でも、暴力はダメ。しかし、愛する家族(パートナー)を守るためのものというのも分かる。あーほんと難しい。

なんか妹のためにパンを盗んだ罪で捕まったあの方が頭の隅に浮かぶ。彼も命を救うためにという正しくあるべき「信念」と「窃盗」という行動の狭間にいる。

あ、前述でウィル・スミスの行動については賛同できないと語ったが、クリス・ロックの発言は平手打ちされて当然だと思ってる私もいる。ウィル・スミスの「直接的な暴力」に対して、クリス・ロックがしたレイシズム要素を含むジョークは、「言葉の暴力」だと私は思う。これも私は「直接的な暴力」と同等にあってはならないことだと考える。
また、もう一つ驚いたのは、クリス・ロック自身も黒人でどちらかと言うと今まで差別を少なからず経験したことのある人だと私は推測するのだが、被差別者であろう人が他人に対してレイシズム的発言をしたことについてだ。これについては、私たち黄色人種が黄色人種間でレイシズム的発言する、されるをしていることに後から気づいて、そういうことなのかなあ…と思い始めてる。あー難しい。

言葉の暴力は、直接的な暴力に比べてジャッジがしにくいし、見えにくいのがややこしいものだと本当に思う。
パワハラ、セクハラ、モラハラ各種、「相手が嫌な思いをしたら、傷ついたらそれはハラスメント」とされる一方で、「そんなんで傷ついていたらやってけないよ云々」という言葉が降りかかるのがよくあるパターンだ。

しかし、いや、だから、私は、どちらの暴力もダメだと思う。

② "男らしい"、"漢の中の漢"っていう表現にも違和感

この出来事を受けて、米国と日本でのリアクションの違いも話題になった。
米国では、ウィル・スミスの行動は「何があっても暴力は許されるべきではない」と批判的な評価(※余談だが、舞台裏ではロサンゼルス市警察が暴行罪でスミスを逮捕しようと駆けつけていたらしい。)なのに比べて、日本では、「男らしい立派な行動だ」「妻を守ろうとした、まさに漢の中の漢」といった擁護する評価が多く見受けられた。

何故このようなリアクションの差があるかについては様々な見解が見受けられたが、私はそこよりも、日本での評価の中で、ウィル・スミスの行動を「男らしい立派な行動」「漢の中の漢」と表すのは少し違うのではないかと考えた。ジェンダー論的なことになるのかな、妻を守るための平手打ち=男らしい、立派、漢の中の漢っていう印象を持つのが、ちょっと違うかなと思う。男らしい行動=力を行使するイメージの強さを感じて、違和感を覚えた。また、例えばの話だが、もしウィル・スミスが平手打ちではなく、非暴力の行動でクリス・ロックに対抗していたらどうなるか、平手打ちをしたのがジェイダ・スミスの方だったらどんなリアクションがあったのだろうか?きっと違うリアクションがあったんだろうなと考える。


③ 差別は無知から生まれる。

この一連の出来事を見て、私が真っ先に思い出したのは、ブレイディみかこ著作の「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」の以下の場面だった。

まず、中学生の息子が学校で上演するミュージカル「アラジン」のリハーサル中に起きた出来事。

二週間ぐらい過ぎた頃、今度は、息子がアラジン役のダニエルと喧嘩をして帰ってきた。

「彼はレイシストだ!」

と、たいそう激している様子なので、

「何か言われたの?」

と聞いたら、息子は答えた。

「僕じゃなくて、黒人の子のことで、ひどいこと言った。移民に対する差別がひどいんだ、彼は」
「だけど、ダニエルも両親は移民でしょ?」
「そうなんだよ。それなのに、どうしてあんなことが言えるんだろう」

息子によれば、ダニエルは、黒人の少女がなかなか振り付けを覚えられないのを見て、

「ブラックのくせにダンスが下手なジャングルのモンキー。バナナをやったら踊るかも」

と陰口をたたきながら笑っていたという。
今どき黒人とジャングルやモンキーと結びつけるなんて、ずいぶん古式ゆかしいフレーズだなと思った。バナナという発想も、ヒップホップやR&Bといったアーバン・カルチャーが席巻する時代に育った英国の子どもにはちょっと出て来ないと思う。子どもがこういう時代錯誤なことを言うときは、たいていそう言っている大人が周りにいる、というのがわたしの経験則だ。

「無知なんだよ。誰かが言っているのを聞いて、大人はそういうことを言うんだと思って真似しているだけ」

「つまり、バカなの?」

忌々しそうに息子が言った。

「いや、頭が悪いってことと無知ってことは違うから。知らないことは、知るときが来れば、その人は無知ではなくなる」

わたしがそう言うと、息子はちょっと考えるような顔つきになり、黙って自分の部屋に入って行った。
ブレイディみかこ「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」

次に、「ぼくはイエローで、ホワイトで、ちょっとブルー2」のイギリス国内での総選挙が行われた時の出来事。
ブレグジット党(UKIP(イギリス独立党)という政党の党首だったナイジェル・ファラージが設立した新政党。EU離脱の国民投票のときに離脱派を率い、大勢の移民の写真を使ったポスターで非難を受けたりして、排外主義的と批判された政党。)の話題となった時に、息子がクラスメイトに言われたジョークについて。

英国では12月12日に総選挙が行われるのだが、今回はうちの息子の学校でも「スクール総選挙」なる催しが行われる。(中略)NHS(国民保健サービス)、EU離脱、教育、気候危機の4つの分野に絞って政策を読み、みんなで話し合ったりしているそうだ。(中略)

両親がブレグジット党やEU離脱を支持しているというのは、なんとなく言いづらいのだろう。口にしづらい原因の一つは、たぶんブレグジット党党首のファラージの存在だ。この人がなんというか、喋り方や表情などが個性的であることから嘲笑されやすく、離脱派と言うと、「ナイジェルの支持者」と笑われてしまうから黙っている人も少なくないはずだ。そんなナイジェルは息子の学校の少年・少女たちの間でもジョークのネタとして定着しているようで、先日も音楽部の部室でこんなことを言ってみんなを笑わせた子がいるという。

「ナイジェルが首相になったりしたら、○○や○○と一緒に演奏できなくなっちゃうよ」

○○の一つのほうには、うちの息子の名前が入っていた。

「え、そんなこと言ったの?みんなの前で?」

それを聞いたとき、わたしはぎょっとして、食事の手を止めた。

「うん」
「……でもそれって、あんたやもう1人の子は外国人の親を持っているから、ってことでしょ?」
(中略)
「彼はナイジェル・ファラージが人種差別的だってことをからかってたんだよ。別に僕らのことを外国人の親がいるからどうのって言ってたわけじゃない」
「……でもなんか、残酷じゃない?」

2人がまじまじとこちらを見ているので、ちょっと怯みそうになったが私は続けた。

「だってそれ、あんたは英国人に見えないからってことでしょ」
「けど、それは本当のことじゃん。僕はアジア系の顔してるし、もう1人の子はインド系だし」

息子は淡々と言う。

「そう言われたとき、どうしたの?あんたもみんなと一緒に笑ってたの?」
「うん」

釈然としない気持ちで息子を見ていると、配偶者が会話に入ってきた。

「おいおい、おめぇ、なんかそれ、またポリティカル・コレクトネスのイシューにしようとしてる?そこでは笑っとけと俺も思うぞ」

息子もその言葉に黙って頷き、2人はまたもくもくと食事を始めた。が、わたしには強い違和感が残った。
ナイジェル・ファラージの排外主義をジョークにするために、自分の身の回りにいる白人以外の人たちを指して、「彼が首相になったりしたら、この人たちはここにはいられなくなるかも」と言う。おそらく、その少年の両親は残留派て、ファラージや離脱派のことをジョークにして笑っているのかもしれない。排外主義は悪いことで、愚かしいことだから、何かにつけて皮肉っているのかもしれない。
でも、そのためにその少年が白人ではない子どもたちを名指しして、笑いを取る材料に使ってもいいのだろうか。
ブレイディみかこ「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー2」

差別というものは無知から生まれる。
クリス・ロックが何故あのようなジョークを言ったのか、それはそのジョークでジェイダ・スミスが傷つくこと、ウィル・スミスが怒ることが分からなかったからだと私は考える。本当に分からなかったんだと思う。だから今回の出来事が起きた。
著者の中の文を真似て、問題提起するならば、
ジョークで周りを沸かすためにジェイダ・スミスが脱毛症のためバズカットにしているのを『G.I. ジェーン』の主人公のようだと言って、笑いを取る材料に使ってもいいのだろうか。
しかし、著者の中でも実際のアカデミー賞の客席の反応を見ても分かるように、それをジョークと認識して笑える人もいる。あー本当に難しい。私はこれは笑えないだろって思うけどね。

「僕はイエローでホワイトで、ちょっとブルー」の著書の中で私が学んだもうひとつの事は、無知は直すことが出来るということ。
クリス・ロックも今回の件でひとつの無知を克服できていると良いなと思う。

④ 怒りや傷ついたことを正しく伝えるには?

最後に私が、この一件を受けて考えたのは、怒りや傷ついたことを第三者に正しく伝えるにはどうしたらいいのか、ということである。難しい。
例えば今回のクリス・ロックのレイシズム的ジョークに対して、やんわりと「それは人を傷つけるジョークですよ」と伝えて、事の重大さが果たして伝わるのかな…?と疑問に思った。嫌なことを嫌だ、怒ってるよ!とキツめに伝えることで、伝えた相手との関係性を気まずくしてしまわないか、気まずくなるくらいなら私がグッと我慢して流すべきかという思考の反芻を私は過去に何度かした覚えがある。怒りや嫌だっていうことを第三者に伝えることに対して気が引けてしまう。伝えなければ自分が苦しむことは分かっていながら、ヘラヘラ笑って過ごした経験が何個も思い浮かぶ。

今回のウィル・スミスの平手打ちという行動は、「怒り」を大きな影響力を持って伝える行動だったと思う。だからこそ、これだけ注目が集まり、クリス・ロックのレイシズム的ジョークを含む一連の出来事が議論の対象となった。しかし、「怒り」や「嫌だ」ということを正しく伝える手段として「平手打ち」という「暴力行為」はやはりあってはならないこと。
自分にとって嫌なことを第三者に正しく伝える手段を今後も考えていかなきゃだなと考える機会となった。

私が最近思いついた作戦は、
嫌な発言に対して真顔でフリーズする作戦。
ヘラヘラ笑ったりしない。電波がブツっと切れたみたいに何も言わない。ただただ、相手を真顔で凝視、作戦。

全然まだまだ出来ないんだけどね〜、ヘラヘラ笑って誤魔化す方が楽だから。


見るだけで、社会勉強になる今年のオスカー。
至る所にこれからのニューノーマル、ニュースタンダードとなる思想、アプローチがあったと思う。
(私は今回の司会女性3人のキレッキレトークめっちゃ良かったなあと思ってたんだけど、独身の男性ゲストを壇上にあげて、持ち物チェックをするジョークは、セクハラでは?と問題となっていたりもした。)

私も考え方をアップデートしていけたら良いなと思う。


追記

この記事を書くのに予想以上に時間をかけてしまったこともあり、記事を書いている最中にウィル・スミスへのアカデミー賞への10年の参加禁止の処分が下された。一方でクリス・ロックの方には「異常な状況下で冷静に対処した事に深く感謝する」という評価がされていた。


案の定、タイムライン上は批判の嵐。私も最初見た時は何故?!と思った。が、それと同時に、私が2019年に出演したミュージカル「GODSPELL」のジーザスの以下の台詞がふと思い浮かんだ。

悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。

これはマタイによる福音書5章38-42節にある言葉で

暴力的な行為・言動に対して、同じように暴力的な言行為・行動をもって報復することを禁じるという意味の教えだ。

アカデミー賞にキリスト教的教えがどれだけ影響してるかどうかなんてことは分からないが、世界に20億人信者がいると言われている宗教の教えにこうあるのだ。
この考えを元に今回の出来事を振り返ると、また違う視点での見解が私の中で生まれたし、この出来事を家族や友人などで議論することも考え方のアップデートになるのではないだろうか。


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