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【モノローグエッセイ】クロード・フロローとエンリコ・プッチ

☆二人は聖職者で悪役
聖職者を悪役として描くことの効果と意義についての考察。

※この記事は、一部本編のネタバレを含みます。

つい先日、「ジョジョの奇妙な冒険第6部ストーン・オーシャン」のアニメを観終わった。


ジョジョ。
原作者荒木飛呂彦による、第1部の主人公ジョナサン・ジョースターと、敵対するディオ・ブランドーとの因縁から始まる物語で、その戦いはジョナサンの代だけでは決着せず、その子孫たちも巻き込んで100年以上続いていく。

この第6部では、刑務所を舞台に、第三部の主人公空条承太郎の娘・空条徐倫が主人公となり、ディオの意志を継ぐエンリコ・プッチ神父と闘う。

私は高校時代にジョジョと出逢い、即ハマり、今に至る。

まず、アニメの感想を申し上げると

最高だった。

原作漫画を既に読んでいて内容や結末は知っていた。しかし、最終話を見終わった時、私は感動の涙を流していた。原作漫画で6部を読み終わった後は、虚無になっていたんだけど、なんかアニメで改めて観たら、希望があってすごくよかったんだよね…ああ最高だった。ラブ。

と、黄金体験(ゴールド・エクスペリエンス)をしたのだけど、
アニメを観ていて、私の中で「やっぱり」というか、「改めて」というか気にかかった部分があった。

やっぱりこの二人って共通するものがあるよな」と。

それが、今回のエッセイタイトルの2人である。

クロード・フロローエンリコ・プッチという登場人物がいる。

左クロード・フロロー/右エンリコ・プッチ


まず、さっきまでジョジョの話をしていたので、エンリコ・プッチから。

エンリコ・プッチ

ジョジョの奇妙な冒険第6部ストーンオーシャンの登場人物。G.D.st刑務所で教戒師を務める神父で、第六部のラスボス(最も強い悪役)。1972年6月5日生まれ。39歳。聖職者らしく普段の物腰は穏やか。何故か動揺すると素数を数える癖がある。 

クロード・フロロー

ヴィクトル・ユーゴー作『ノートルダム・ド・パリ』と、それを原作としたディズニー映画『ノートルダムの鐘』に登場するヴィランズ(悪役)
役職はそれぞれ異なり、原作ではパリのノートルダム大聖堂の助祭長で、アニメ映画では判事としてパリの治安維持を務めている。 主人公カジモドを養育し、ヒロインのエスメラルダへの愛情と神への忠誠の狭間で葛藤する姿が描かれている。 


この異なる作品の二人の登場人物には共通点がある。

二人とも聖職者で、悪役である。

ディズニーもジョジョも好きである私にとって、この二人のこの共通点はとても興味をそそるものだった。

聖職者を悪役として描くことの意義とは何だろう。
神に仕え、正しき教えを説く者としてのイメージが強く、いわゆる善人であるべきことが求められる聖職者が悪役として描かれるギャップ。

ヴィクトル・ユーゴーと荒木飛呂彦は、偶然にも同じような意図をこの二人の登場人物に位置づけたのだろうか?

いや、荒木飛呂彦先生はルネサンスの時代から生きているので、もしかするとユーゴーと交流があったのかもしれない。(違う)


偶然なのか、フロローも、プッチも、劇中で同じような表現で表されている。

フロロー
「弱いのもお前だ!邪悪なのもおまえだ!!」(カジモドがフロローに言う台詞)
プッチ
お前は 自分が『悪』だと気づいていない… もっともドス黒い『悪』だ」 (ウェザー・リポートがプッチに言う台詞)

二人とも邪悪って言われがち。

これらの台詞から見てとれる、二人にもう一つ共通しているのは、「自分の行いを正しい行動」だと思っていること。

フロローは、自分の心を乱すエスメラルダを自分のものにしようとするが、拒否され、エスメラルダを「悪」として処刑しようとする。

プッチは天国(ディオとプッチが望む理想の世界)にたどり着くために、時間を無限大に加速させ続け、宇宙を「一巡」させた。(←超難しいよね!気になる方は本編を見てね!)
そのための犠牲なら、意味のある犠牲なのでいくら人が死んでも構わないという考えである。

(またこの二人、どちらも兄で、弟妹を正しく導こうとして失敗している。)

↑言うなれば、どちらもエゴの押し付けなのである。それを「正しい行動」「天国」「幸福」という言葉で彼らは表している。

私はそんなフロローとプッチを見る度に、行き過ぎた正義感と信心深さって、悪になるんだなと感じてた。二人が信じる「正義」によって、誰かを殺している。そして、二人とも「自分が正しい」と思っているからこそ余計救いようがない。これが最もドス黒い悪というものか。

そして、この二人を見て私がもう一つ思うのは、フロローやプッチのような「悪」が、私達の日常生活に一番近い「悪」なんじゃないかな、ということ。

一見正しいように見えるけれど、違和感を覚えることを過去に経験したことがある。簡単に説明すると、「命令に黙って従え」というニュアンスの話をされた後に「もっと素直になりなよ〜」と半笑いで言われたのである。そういう言動と共にセットでついてくるのがだいたい「愛」とか「幸せ」とか「あなたのことを思って」だとか、まるでこちらが間違っていて、それを正してあげているのだと言わんばかりの言動だった。全く異なる人々から、全く同じシチュエーションで、全く同じ言動が面白いくらい必ず出る。私はこういう類の人々と遭遇すると必ず善悪の判断が鈍って、混乱して相手のペースにのまれ、いつの間にか権力構造が敷かれてしまっていた。そもそも、普通の会話だったらそんなことは起きないというのに。

「正しく見えるものは果たして本当に正しいのか」「度が過ぎた正義を他人に押し付けていないか」「その正しさはエゴになっていないか」

このようなことを、聖職者というザ・正しさの象徴のようなポジションの登場人物を「悪役」に置くことで問題提起しているのではないかなぁ、というのが私が考える「聖職者を悪役として描くことの意義」である。

よくある言葉を使えば、「『誰』が言っているか、ではなくて、『何』を言っているのか」が大事だよなぁと最近常々思う。

いくら気の知れた仲の人でも「お前の家族みんな馬鹿だよな」とか言ってきたら絶交案件である。許すまじである。

「この人が言うから説得力がある!」と言う場合もあるとは思うが、今回のテーマに即して言うのであれば、フロローやプッチのような聖職者が悪役の場合は、それは逆効果を生んでしまうよなぁと感じる。大御所や専門家が言ってることなら正しいはずだー!ってなるのと同じみたいな。

そういうことに気づく機会を、この二人は私達に与えてくれるのではないのだろうか。

最後に
ジョジョの話になるが、
原作者の荒木飛呂彦先生は、過去のインタビューで

僕が『ジョジョ』を王道だと呼ぶのは、主人公、悪役であってもキャラクターの志は前向きだからです。そこに悩む人物は描かない。人生に悩むのは普通のことなので、退屈になってしまう。前向きな志同士がぶつかり合うことで、化学変化やサスペンスが生まれると思って描いています。

と語っている。
主人公、悪役関係なく、彼らは前向きな志を持って生きているのだという。

その前向きな志がどこに向かっているのか、

私も注意深く確認しながら生きていきたいなと思う。

ジョジョは、鑑賞する側もかなりのエネルギーがいるからそれなりの覚悟をしてオススメしてるんだけど、ひとつだけ確実に言えるのは、ジョジョ読むと人生楽しくなるし、人間として成長できる。本当に人間讃歌。(強い思想←)

ぜひアニメも6部まであることだし、この機会に皆様もジョジョを楽しんでみては?



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