[書評]多様性は気持ちのいい言葉?「信仰」(村田沙耶香)
「気持ちよさの罪」は村田沙耶香が「個性」や「多様性」について語ったエッセイです。
あるときから著者は「クレージーさやか」と呼ばれるようになります。その呼ばれ方は作家仲間がラジオで付けてくれた愛あるあだ名でした。しかし、いつの間にかそのあだ名だけが独り歩きをし、テレビ出演をする際には「クレージーさやかであること」が求められるようになってしまったのです。
深夜番組の打ち合わせでは、
と言われる始末。
「クレージーさやか」はあだ名です。それが「個性」だと認識されることに、著者はどこかで抵抗を覚え始めるのでした。
SEKAI NO OWARIの「Habit」という歌にこんな歌詞があります。
私たちは物事を何かにカテゴライズする癖があります。
例えば著者の「クレージーさやか」というあだ名。そのあだ名で「この人は何かクレージーなことをする人なんだ」と分類し、それを期待してテレビを見ます。
しかし、私たち人間は複雑な思考や行動をする生き物です。たとえ「クレージーさやか」というあだ名で、どこかしらにクレージーな部分があったとしてもそれはその人の一部にしかすぎません。
著者は自分が「クレージーさやか」であることを「いいこと」だと思い、メディアにその分類で出演することを許諾してしまったことを後悔することになるのです。
「多様性」の一貫として「クレージーさやか」のあだ名をメディアやネットで広めることは、読者を傷つけることになってしまうことに著者は気づいていませんでした。
そんな手紙を受け取ったとき、初めて著者はいかに「多様性」という言葉が、その心地よさにかこつけて読者を苦しめていることを知ったのでした。
「多様性」というものが広がることはすばらしいことかもしれません。
セクシャルマイノリティの人や、障害を持つ人、様々なハンデを持つ人がなんのしがらみもなく生活できる社会ができるというのは望ましいことです。
しかし、言葉だけが独り歩きをし、深く意味を考えずに使うことは危険だとこのエッセイは教えてくれます。
はるう
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