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この世に生まれてきたことが「奇跡」だが本質は違うと思う

最近、人生初めてお通夜、お葬式、火葬場までの一連を体験しました。

初めてだった体験だったため、私も色々な気持ちになりました。
経験をもとに複雑な気持ちになったので紹介したいと思います。

生まれるのは「奇跡」だが、果たして

私は小学生の頃の道徳で、「命」の大切さを学びました。
その時は「この世に生まれてくることが奇跡」を言われました。
多くの皆さんも一度は聞いたことがあるでしょう。

確率で言えば、奇跡でしょう。生きるということに尊く感じる方も
少なくはありません。
奇跡ですが、今の自分は幸せですか?

私は「奇跡」≠「幸せ」とは考えません。
一緒に考える必要はありません。
そして、どれだけ生まれることが「奇跡」だからと言われても
今の自分が幸せ、幸福感を感じていないのであれば、
それは「不幸」の認識するでしょう。

私が言いたいのは、「奇跡」であれ、自分の人生を築いていけるのは
自分だけだということです。
つまり、命を持たない人が不幸なのではありません。

整理すると、この世に生まれてきていること=「奇跡」ですが、
逆に生まれてきていないこと≠「不幸」ではないということです。

そして、私は生まれてくるということが
唯一の神の定めだと思います。
これには逆らうことはできません。「死」を自分が望んでいても、
生まれているから「死」が待っているのです。

自分に与えられた「生きる」ことを放棄することはできず、
ただ自分は「死」に向かって生活していることが
私たちの生きるです。

ですから、人間は少しでも「幸福」を求めて、
変化していきます。

私も生きることに矛盾を感じている時期は考えていました。
なぜ人間は「死」に向かっているのに、
生きているのか?

奇跡をもらったからには、人生を全うして生きる権利が
私たちにはあるということ。

そんなことを葬式中に感じていました。

「自分」という存在を認められることが人生なのか?

皆さんはどう思いますか?
人生は人に認められることが目的なのでしょうか?

私は、これが人生の意味だと思います。
人は誰しも、自分を求めてくれている人がいます。
そのため、今を生きているのです。

自分の人生をどれだけ生きていても、哺乳類、人類であるかぎり、
子孫繁栄、共同体で地球に生息しています。

そのため、「認められる」ことが人生の肝だと考えます。
お互いの心を通わせるという面では、ある意味共感してくる人は
いるのではないでしょうか?

人は人を認めて生きていると感じます。
恋愛だって相手を認めたり、仕事関係でも信用は
認めるに近いニアンスだと思います。

つまり、人は知らぬ間に、人を認めたり、認められたりの
繰り返しをして生きていると思います。
だからこそ、自分に大切な存在ができたり、
信頼関係が成り立っているのだと思います。

生きる上で大切にしたいこと

私は「死」に向かっている自分に毎日、大切にしていることを
言い聞かせています。
生きる上で私が大切にしていることは2つです。

1つ目は「感じる」ことを大切にすると決めています。

その時の状況をハークできていても、自分の感情、感じたことまでは
あまり覚えていないことが多いです。
だから私は通学路や風呂の中で自問自答をして、
今日は何を感じたのか?
ですから、私はあまり悪い印象の一日はありません。
理由は、出来事を考えてしまうと、良い、悪いで今日の一日が
決まってしまいます。
逆に感情を思い出すと、悪い時間もありましたが、全てではありません。
友達と会話した時に、笑った時間、考え事をした時間などが
必ずあります。
この思考に変えることで、悩み事も、簡単に考えられたり、
メタ認知が楽になりました。

2つ目は「感動」を毎日することです。

皆さんは「感動」する機会をたくさん設けていますか?
少しでもいいので「感動」「ときめき」をする時間を
設けてみてください。
私は壮大な音楽を聞いたり、
感動する合唱曲を聞いたりと、少しでも心から感じる感覚を味わって
おくと、人生が楽しく感じます。

感動することで、その時の状況の記憶が鮮明だったり、
楽しい時間が長く感じたりします。

皆さんも与えられた人生をどのようにして
過ごすのか?
そして奇跡=幸せに変えられますか?