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ガチで危機感持った方がいい

現在、私はいま来年の交換留学を目指し1年間の休学中である。それゆえ周りの人に「いまなにやってるの?」と聞かれることが多く、建前として「英語ちょろっと勉強してる」と答える事が多い。けれど正直なことをいうと毎日、本をペラペラと読み、映画を観て、部室に行き誰かと話をして、せいぜい週3ぐらいでバイトをしているぐらいだ。それなのに不思議と時間を浪費している罪悪感に苛まれることはなく、むしろ薄らと充実感さえ感じてしまうことがある。ここ数日間、その充実感の正体のについてあれこれ考えていると「映画館で映画を観るという行為」に収斂されると思えてきた。

映画館で映画を観ることの意義の1つとしてその没入体験が挙げられるだろう。館内では本編の障害となるあらゆる雑音、光がシャットアウトされ観客の視線は全てスクリーンに集中する。そこでは自分の身体の感覚がなくなるほどに映画に映し出される世界観に没入できる。これは映画館という空間以外(例えばホームシアターなど)では中々、実現が難しい。また没入とは空間的な没入だけでなくストーリーへの没入、いわば自己同一化も行われる。この自己同一化は上映中だけでなくその後の余韻にまで及ぶ。上映が終わり映画館を出てまた喧騒の街並みへと帰ってゆく時、街のネオンが、人々の会話が、しっとりと身体にしみ込んでくる夜風が、全部自分のために存在しているかのような錯覚に陥る。特にこの感覚はいい映画を観た時に強く、中々他に変えがたい充実感が得られるのだ。

ここまでは割と健全な意義であるが、問題はもう一つの意義だ。それは映画館という空間では誰もが等しく「観客」というアイデンティティーが付与される事にあると考えられる。たとえば池袋で映画を観ていた時、隣の席のオジサンは明らかに酒臭かった上に、上映中日本酒らしきものを水筒に入れて飲んでいた。新宿では上映後オジサンAがオジサンBに対して「咳がウルセェンだよ!」と怒鳴っていた。館内では医者も弁護士も教員もニートも日本人も外国人もイチャコラしているカップルも1人寂しく来た大学生も上記の暴漢、酔狂人(原義)ですらも映画館内では等しく観客として規定されてしまう。それは私自身に対しても例外ではない。側から見ればロクでもない生活を送っているプー太郎である私ですら、ひとたび映画館に足を踏み入れれば何者かになれるのである。それは映画そのものの面白さ、つまらなさには関係しない。だからたとえクソ映画を見ようが薄らと充実感を感じてしまうのだ。ましてや、素晴らしい映画なんか見た暁には、その映画を見る前後の時間、いや数日間を無為に浪費していようが「全部この映画を観るためにあったのである」と肯定されてしまう。さらには難解(と呼ばれている)映画を観た時は、「おれはこの映画を観たんだ」という感覚が先行し、その理解度に関係なく充実感が沁み渡ってしまう。(ここで恐ろしいのがわかった気になっていたが実は全く理解できていなかった場合ですらもそれに気づかずに満足してしまうことだ)
厳しいって。私自身ただ一方的に作品を享受しているだけの人間に過ぎないのに、それに自覚的であって尚も得られてしまう。
この駄文をつらつらと書き綴っている時間ですらも次の素晴らしき映画に出会うまでの有意的時間であると心のどこかで思っている。


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