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ほどよく無関心で、人と関わっていたい。

「あんたなんか嫌い。」
「もう絶交だよ。」

まだ幼かった頃、そうやってトドメの一言を相手にぶっ刺して、あるいはぶっ刺されて、友だち関係が終了したことが何度かあった。今思えばその頃がなんだかほほえましくて、少しうらやましい。

大人になった今の世の中、世界では「多様性」という言葉が飛び交っている。
そして、普段関わっている誰かとの関係を終了させてしまうそのトドメの一言も「多様化」が進んでいると私は思う。
ふと悪気なく発した一言が、相手にとっては、とんでもなく傷つけられるトドメの一言になってしまっていて、気づいたら距離を置かれていることなんて結構あたりまえの世の中になってきたと思う。
つまりは「嫌い。」「絶交だ。」なんてシンプルな言葉で関係の終わりが明確にわかるのであれば、その方があと腐れなくていいのかもしれない。

もし、私との関係を誰かが切りたいと思うのであれば、以下の言葉を私に伝えてくれれば、私との関係を安易に終了させることができると思う。

「いつ、結婚するの?」
「一人って、自由に生きれていいね。」

どんなに笑顔で、ポップに伝えられたとしても、その言葉を告げられた瞬間、私はその人との関係に終止符を打つだろう。閉店がらがら、シャッターをぴしゃりと閉める。

これは私のケースであって、100人いれば、100人違った、トドメの一言がある。でもどれがその人にとってのトドメの一言になるかなんて、そう簡単にわからないし、結構、難しい問いだなと思う。テストみたいに、きちんとした答え合わせの答案があればいいのだけれど、「どれがいけなかったの?」とその答えを知ることなく、その人との関係が終わってしまうことが多々だと思うので、そうなると、答えのない問いに向かい続けなければならないから、とても大変なことだとよく思う。

だからといって、人と接するときに、相手の顔色を逐一うかがいながら、「この言葉は伝えてもいいかな、いや、辞めた方がいいかもしれない。」とかいちいち一言一言考えて接しようとするなら、いい関係が築けるどころか、会話はあまり成り立たないだろうし、そもそも、こちらの心がもたない。

難しい。

そんな難しい、そして答えのない問いと人は向き合って生きていかなければならない。
けど、もしかすると、これはその問いに答えを出すことに役立つ方程式なのかもしれないと思った、とあるエピソードを見つけたので、今日はそのことについて綴ってみようと思う。

私が大学生の頃だった。いつかのサークル活動の帰りにみんなで、回転寿司を食べに行ったときの話である。
ある後輩の男の子が、複数人いる中で一人、ただ回転寿司に行くにしては異様な高すぎるモチベーションを持っていた。

「ぼく、お寿司食べることって、半年とか1年に1回あるかないかなので、今日はたくさん食べます!!」

そう宣言していた。なんでそんなに食べる機会がないんだろう。別に彼はお金に困っているわけではなさそうし。そう気になって聞いてみると

「ぼく、お寿司大好きなんですけど、お寿司食べるといつもお腹壊しちゃうので、だからそんなに頻度高く食べられないんです。」

と言った。かわいそうに。好きなものを食べてお腹をくだしてしまうなんてなんて不幸なんだろう。

「そうなんだ。じゃあ今日はパーティーだね。」

そういって、彼の絶好のお寿司チャンスを一緒に味わうことにした。
目の前で彼は、とんでもないスピードで、お寿司をたいらげていった。
エビ、イカ、アジ、マグロ、、、、、。たくさん食べてまたもう1周。
気づいたら、彼と私の間をたくさんのお皿がふさいでいた。
おそらく、40~50皿くらいあったと思う。とんでもない会計になっていた。

「おいしかったです!お腹壊す前に帰ります!」

そういって、幸せそうな顔をしながら、満足気に彼は颯爽と先に帰っていった。

そのあと、その場に一緒にいた別の友だちと歩いて家に一緒に帰っていたとき、その彼女がふとこんなことを言った。

「今日さ、あの子たくさんお寿司食べてたけどさ、たぶん、お寿司でお腹壊してるんじゃなくて、食べ過ぎてお腹壊してるんじゃないかな。だって、お寿司食べるときって彼にとってレアだから、毎回あんなに大量に食べているわけでしょ。そりゃあ、お腹壊すよ。まぁ、本人はそれで満足そうだから言わないけどね。」

最近このエピソードを思い出して思った。
この彼女の、彼に対するこの「ほどよい無関心」こそが、人とうまく付き合っていくための方程式なのだと。

きっともし、あの当時、彼がお寿司を食べているときに
「お寿司でお腹壊すんじゃなくて、そんなに食べるからお腹壊すんじゃないの?」
そう彼女が伝えていたならきっと、彼はぴしゃりとシャッターを下ろしただろう。

彼にとって、半年か1年に一度、大好きなお寿司を食べることは、至福の時間であり、誰にも邪魔されたくない幸せそのものである。
そうやって彼が大切にしている価値観に彼女はしっかりと気づいていた。
だからこそ、本人には直接言わなかった。

それに、私に話してきたときも、「もし、彼がそのことを知ったら、おいしいお寿司をもっと定期的に食べられるようになるかもしれない。」みたいな過度な干渉のトーンではなく、「まぁ、彼は彼の価値観だし、幸せそうだしいっか。」みたいなあたかも他人事のようなトーンで話していた。

今だからこそ思う。
彼女のこの距離感は、とてもちょうどいい。と。
ちょうどよすぎるくらい、ちょうどいい。

彼女は、彼に関心があるように見えて、ほどよく無関心だった。

この「ほどよい」が大切だと思う。
まったくの「無関心」ではないから。

まったくの「無関心」だったらきっと、こんなに楽しみにお寿司を食べる彼を観察して、もしかしたらそれが食べ過ぎからくるものなんじゃないかと思いつくことなんてできなかったと思うし、それを思いついたとして、それを彼に伝えるブレーキを踏むことができなかったと私は思う。

それに、逆に「それ食べ過ぎなんじゃない。もう少し量を減らしてみたら、お腹壊さないんじゃない?」と相手に対して、悪気ないおせっかいを焼いてしまっていたとしたら、それは今度は過干渉になってしまって、相手を傷つけてしまっていただろうなとも思う。

こうやって彼女の「ほどよい無関心」について思考を巡らしていると、私は、どちらかというと、無関心になりすぎているというより、関心をもって、相手を思いやるばかりにそれが過度なおせっかい、過度な干渉になってしまって、距離を置かれるパターンが多いなと気づいた。

たとえば、仕事場のとある後輩に、明らかに距離を置かれたときのことだ。
少し非効率な方法で、後輩が仕事をしていたので

「ねえ、このやり方に変えてみたら、もっとスピードあがるんじゃない?」

そう伝えて、ものすごく嫌な顔をされたのをよく覚えている。
私に悪気はなかった。せっかくなら、その後輩がもっとよい仕事ができるようにと思っての、思いやりだと思って助言した。
けれど、後輩にとっては、その自分のやり方に誇りをもって仕事をしており、私からの言葉はただの圧力でしかなかったらしい。

それによくよく考えれば、私と同じやり方をしてくれていた方が自分自身も仕事がやりやすかったので、ものすごく安易にこの言葉を後輩にかけてしまっていた。もしかするとそれに後輩も気づいたのかもしれない。

相手のことを気遣って、考えているようで、自分のことしか考えていなかったのだと思う。

相手のことを考えた上で、自分とは違うとある意味、無関心でいること。
他人事のように、自分とは切り離して、しっかりと相手を観察して理解しようとすること。

この「ほどよい無関心」を追求していくことが、「多様性」社会を生き抜いていく術なのかもしれないと思った。
















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