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時間を守らない彼女は。

改めて、人は毎日を時間に縛られて生きていると思う。

起きる時間。
電車に乗る時間。
仕事に行く時間。
仕事から帰る時間。
家事をする時間。
寝る時間。
友人と過ごす時間。
家族と過ごす時間。

私はよく余裕がなくなると、その時間の呪縛の監獄に閉じ込められた気分になることがある。
幼いころから、時間はしっかり守るようにと言われて育った。
それと心配性の性格も重なってか、例えば、待ち合わせの約束をしていたとして、私は基本的に10分前行動ではなく、30分~1時間前行動をすることがベースになっている。
就活のときが一番過度だった。はじめていく面接の場所をとにかく一度確かめてからでないと、落ち着かない。1時間前には、その面接が行われるビルを確認するために、現地について、そこからは近くのカフェや公園を探して
30分くらいかけて、自分の心を整える時間を必要としていた。
今だってそう。仕事に出社するのにも、普通に通勤したら車10分で行けるところを、40分はかかるかもしれない想定で家を出る。そうしないと心が落ち着かないからだ。

そんな生き方をしていたら、シンプルに人生の時間が足りなくなるときがある。
そして、焦ったり、しんどくなったり、苦しくなる。
「時間」「時間」「時間」それに追いかけられて、捕まえられて、動けなくなるときがある。

そんなときに思い出す、彼女の話を今日は綴りたい。

彼女は私の高校の同級生だった。学生時代、ちょっとどこか不思議なところが多々あった彼女は、私は知らなかったけれど、他の同級生の間で、「宇宙人」と呼ばれていたらしい。

その宇宙人な彼女と大人になってから、偶然、同じ職場で働くことになった。彼女を宇宙人たらしめる要素は、実に数えきれないほどたくさんあったけれど、1つが「時間」の概念だったことは間違いない。

時間に縛り付けられている私と違って、彼女は魔法のように時間を自由に操っているように見えた。

彼女はとにかく、自分のやりたいこと、楽しいことに時間を使っていた。
一緒にしていた仕事も、いつのまにか義務になって、仕事に行く時間に縛られていた私の横で、やりたい仕事はとことん楽しんで、行きたくないときは休んで、毎月のシフトもしっかりと有休を計画的に彼女は入れていた。

仲の良かった彼女とプライベートでもよく遊んだ。
「明日ここにいこう。」
「今度ここにおいしいランチがあるから食べにいこう。」

そうやって誘ってくるのはいつも彼女の方で、それはいつも突然のことだった。
彼女はそうやって予定の約束をしたわりに、その時間通りに待ち合わせ場所に現れたことがまるでない。
いつも遅刻してくるのだけれど、私は性分上約束を破ることは意に反するので、彼女がくるまでの時間を有効に使うために、文庫本を持ち歩くようにいつのまにかなっていた。

私は今まで、友人が約束に遅刻するときの理由として、たとえば
「ごめん、寝過ごしちゃった。」
「ごめん、乗ろうと思ってた電車間違えちゃった。」
といった類のパターンはよく経験したことがあった。
これらのパターンの場合、あくまで、約束の時間を守ろうとしていたのだけれど、寝坊したとか、電車ミスったとか、自分の意思に反して、遅刻してしまったという前提が成り立つ。
なので、そうわかった時点でその友人は、私に一本、「ごめん、〇分くらい遅れる。」という連絡が入る。そして合流したとき、罪の意識を全面に出して、心から謝罪してくれる。

けれど、彼女の遅刻理由にはその前提があまり見受けられなかった。
彼女の遅刻理由は、多種多様だったけれど、とりわけ印象に残っているのは下記の2パターンだ。

「ごめん、運転してたら道に咲いてた花が綺麗で見惚れちゃって、家に飾ろうと思ってお花摘んでた。」

彼女から遅れるという連絡は一本もなかった。
待ち合わせの時間を20分くらいすぎて、痺れを切らした私が電話すると、普通にお花を摘んでいる真っ最中だった。

そしてしばらく経って、助手席に綺麗な花たちを乗せた車が現れる。

「ねぇ、見て!すごく綺麗じゃない?」

彼女に遅刻をして待たせてしまったという罪の意識はない。
そうやっていつのまにか、その日は一緒に海に行く旅に出るはずの予定が、家に飾ったら綺麗な花を摘みにいく旅の予定にすり替わっていた。

「ごめん、すっごくお腹すいちゃって、家でご飯作って今食べてた。」

そのときは、夕方、一緒に温泉に行く約束をしていた。私はてっきり、温泉に行ってから一緒に夕食を食べてから帰るつもりだったので、もちろん私だってお腹はすいていたけれど、とりあえず約束の時間に私は彼女を待っていた。
けれど、もうすぐ約束の時間から1時間が過ぎようとしているのに、彼女は一向に現れる気配がなかったので電話すると、もぐもぐしながら作ったご飯を食べている最中だった。


「あともう少しで食べ終わるから待ってて。」

そうやって電話を切ったときに、私のお腹が鳴った。ご飯食べてくるなら一本くらい連絡してくれてもいいのに。と少し怒りが込み上げたけど、そう、彼女はまず、ご飯が食べたかったのだ。食欲に負けた私との約束がなんだか滑稽に見えて笑えてきたのをよく覚えている。

「やっぱり、ご飯食べて温泉って最高だね!」

そうやって彼女は幸せそうに笑っていた。
その横でまた、私のお腹が「ぐー」と鳴った。

この2つの遅刻理由に、私は人生で出会ったことがなかった。

大学生の頃、イスラムの文化について学ぶ授業を取っていたときに、「インシャアッラー」という言葉を教えてくれた教授がいた。

その言葉の意味を日本語に訳すと
「神のご加護があれば。神が望むなら。」

という意味になるらしい。
挨拶がわりに使われるそうなのだが、要は人と約束などをしたときに
「明日の待ち合わせ、神のご加護があればまた会えるよ。」
みたいなニュアンスで、明日また会えるかどうかは不確かで、不確実で、神のみぞ知る。みたいな意味になるらしい。


彼女は生粋の日本人で、私と同郷で育った同級生で、彼女の口からその言葉を聞いたことはなかったけれど、私から見たら、すごくその言葉が彼女に似合っている気がした。

「明日海に行くかどうかは、私のみぞ知る。もしかすると途中で綺麗な花たちに出会うかもしれないけれど。」

「今日温泉に行くかどうかは私のみぞ知る。温泉も行くけど、その前に食欲を満たすことも重要だと思う。」

彼女の場合は、その主語は「神」じゃなくて「私」で、とにかく「自分」という軸をもとに生きていたけれど。

これだけ約束を破られていながら、彼女に対して怒る気すら通り越してしまうのは、きっとどこかで私が彼女に憧れを抱いていたからだと思う。

彼女はいつも自由に生きているように見えた。
時間に縛られている私と違って
自分で今日やりたいことを決めて、それによって時間があとからついてきて、明日明後日どうなるかわからないけど、今、この瞬間の時間を生きる。

みたいな彼女の時間の魔法をまざまざと見せつけられた瞬間が、今も私は忘れられない。
そして、自分の毎日の差し迫っている時間が息苦しく感じたときに、私はいつも彼女を思い出す。

私も彼女のように、時間を自由に操ることができたなら、また違った世界が見えるのだろうか。

時間を守らない彼女は、自由で、今この瞬間を生きていた。
















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