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【そうじゃなきゃ、枯れてしまう】

先日、レイトショーを観た。深夜の映画館には、私ともう一組の観客だけしかいなかった。ポップコーンの甘い香りが漂ってきて、あぁ、映画館だなぁという気分になった。
家に着いたのは深夜0時過ぎ。シャワーを浴びて、珍しくきちんと髪も乾かした。一休みしてから仕事の原稿を書きはじめ、気がついたら朝だった。白々と明けた空をちゃんと眺めたくて、大きな窓のシャッターを開けた。一面に広がった青空を見ていたら、地震がきて少し揺れた。ガタガタと小刻みに震える花瓶のなかで、水面がゆらゆらと波立っていた。

地震がおさまってから、ケトルでお湯を沸かした。ハーブティーを淹れて、ふうと息で冷ます。ふわりと立ち上る湯気から香るカモミールの匂いが、鼻先を掠めた。そこでようやく、力が抜けた。固まっていた首をぐるりと回すと、錆びついたブリキのロボットみたいにぎこちない動きになって、少し笑えた。

映画にしろ本にしろ、全身に力を入れて見入ってしまう癖がある。世界感に浸れるからこそ味わえる感動も大きいが、それ故の苦しみ、喪失もある。”つくりもの”だとわかってはいる。わかってはいるのだが、同時に考えてしまう。創作は大抵、現実と地続きだ。描かれた世界を生きてきた人が実際にいて、それはつまり、私が観た世界は紛れもなく現実だったということで。でも、どんなにその過酷さに打ちのめされても、私は映画を観ることも本を読むこともやめられない。

闇と光は対極にあると、以前はそう思っていた。でもこれらは共存しているのだと、どちらか片側だけが在るなんてことはあり得ないのだと、あるとき気がついた。闇のなかに光があり、光のなかに闇がある。私はその両方を目にして己のなかに取り込み、味わい、攪拌したのちに表に出す。出さないときもある。だがそれには、あくまでも「見える場所に」という枕言葉がつく。見えない場所で、見せない意志を持ってして、私はいつだって何かを書いている。表に出すことで、むしろ刻み込まれる。そうやって自身の血肉となった作品が、今までどれだけあっただろう。

ハッピーエンドがきらいなわけでも、明るい作品を好まないわけでもない。むしろハッピーエンドであってくれといつも願っている。ただ、何もかも「めでたしめでたし」で終わる物語なんて存在しない。宇多田ヒカルの歌詞にもあるように、「誰かの願いが叶う頃、誰かが泣いている」のだ。

映画のエンドロールで、今は亡き俳優さんの名前をじっと見つめた。
「遺作」
その言葉が作品に掲げられるには、あまりに早すぎた。私は、その俳優さんがすきだった。その人の演技が、すきだった。それなのに、思うように泣けないまま時だけが流れた。

一年遅れで流した涙の理由を、うまく説明できない。ただただ溢れるそれを、拭いもしなかった。作品のなかでたしかに生きていたその姿は、威風堂々、あまりに鮮烈だった。それはこの作品が遺作だからではなく、彼の底知れぬ演技力、たゆまぬ鍛錬の賜物であろうと感じた。彼の死と作品そのものを、無理に結びつけたくはなかった。

創作の分野だけは、AIに乗っ取られてほしくない。人々がどういうものを好み、どういうものが売れるのか、時代背景にあわせて傾向を割り出すのはさして難しくないはずだ。しかしそうやって人工的につくり出されたものを、「創作」とは呼びたくない。創作には、人の想いが在ってほしい。誰が何を願い、何を伝えたかったのか。核がない作品を量産するのではなく、人間が人間を想い丁寧につくったものを、私は味わいたいのだ。

色んなものが開発されて、色んなものが便利になって、私たちはテクノロジーの力なしではもう生きていけない。それでも、機械化してはいけないものがこの世界にはある。

人の心。それだけは、複雑怪奇な色を持つそれだけは、どうか今のまま、生のまま、不格好なままでいさせてほしい。そうじゃなきゃ、枯れてしまう。少なくとも、私はきっと。

映画館を出て駐車場に向かう館内には、全く人気がなかった。がらんとした建物のなかで、必要な箇所だけに煌々と灯るライト。まだ肌寒いこの時期は、そこに群がる羽虫の数がとても少ない。わんわんと飛び回るそれらを鬱陶しいと感じるくせに、色濃い生命の力が漲る夏が、この夜はやけに待ち遠しかった。


『BadCats Weekly』にて、映画エッセイを書きました。

私たちは、何のために歴史を学んできたのだろう。

作品を通して感じた、私なりの想い。
読んでいただけたら嬉しいです。



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