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創作偏愛小説 鍵と金木犀

 これは少し前に書き殴った小説です。
 相手を大事にする以外の愛情とかを書いてみたくて書きました。
 金木犀がやっと咲きましたね。

 では、本編どうぞ。


 僕と愛ちゃんがいつも大学帰りに駅前に飲みに出かけた後、それぞれの家に帰るときに歩く、さわやか通り。
 そこは、夜になると嫌に明るいオレンジ色の街灯が灯る。道の両側には背の高いマンションがずぅっと何棟も建っていて、街灯の放つまばゆい光が通りの中にぐっと閉じ込められる。見上げると真黒な星も見えないような夜空が建物の間から覗いているのに、通りはオレンジ色に包まれている様が、「まるで異国の夜市みたい!」なんていって愛ちゃんは喜んでいた。
 愛ちゃんがさわやか通りを歩きながら嬉しそうにこう話してくれてから、僕はこの通りを前よりも楽しく、味わいながら踏みしめることができるようになった。愛ちゃんがこんな風にこの通りを見ていると知るまでは、敷き詰められた石が古くなっていて歩きにくいなぁ、とか、夜なのに眩しくて鬱陶しい道だ、とか、そんなことしか思えなかったのに。
 今夜のさわやか通り(23:45)は車通りも少なく、僕と愛ちゃんの他に歩いている人も見当たらない。飲み屋が立ち並ぶ駅前から離れてしまっているので、酔っ払いもそれを回収するために手配されるタクシーもいない。
 隣を歩く愛ちゃんの微かな鼻歌が秋風に乗り、唯一僕の耳を刺激する。お気に入りのマンゴーサワーを4杯飲んで、ピンク色の染まった上機嫌な愛ちゃんは何も話していないこの瞬間も嬉しそうに笑っている。
 愛ちゃんの鼻歌は聞いたことのあるような、ないような、多分、最近の曲じゃない。思い出せないな、この前も愛ちゃんが歌ってたやつなのに。もどかしさに耐えかねて、僕は愛ちゃんのすべすべとした横顔を覗き込んだ。
 「愛ちゃん、それ、なんて曲だっけ?」すると愛ちゃんは勢いよくこちらをグルンと向き、
「もーこの前も教えたじゃん!ビートルズのAll my lovingだよ!私の最近のお気に入り!」
 ロ調は怒っているようだが、笑顔のまま、自分の好きなものを嬉しそうに語る。ポニーテールが揺れて、嗅ぎなれた彼女のシャンプーの香りがした時、ごめんごめん、何て言いながら、僕はあと一回くらい、この曲のことを聞いてもいいかもな、なんて思った。
「京平も聞いてみなよ!最近の曲ももちろんいいけど、昔の曲はやっぱり長く聞き継がれてきてるだけあって、最近とは違う中毒性とか、メッセージ性とか、色々あって面白いよ!」
 そう言いながら、愛ちゃんは僕の右腕にしがみ付いて来た。より近くなった彼女から少し、アルコールの匂いがして、僕はさっき飲んだお酒がまた回った。
「ね、京平、あの人」「ん?」
 愛ちゃんの視線は激しく前方に注がれている。腕を締め付ける力は心なしかいつもより強く、声のトーンも落ちた。
 彼女に見惚れる目を無理やり引き剥がし、僕も前を見る。
 見ると、20メートルほど先のこのあたり一番の高級マンションの前で、これまた高そうなグレーのロングコートを身に着けた女性が大声で何かをまくした
てているのだ。一人であの声量で話しているのか?しかもわざわざマンションの外で。
話している内容は、
 「なんなのよその態度!大体、喜一さんがそんなだから...!」
と、どうやら男性を攻め立てているようだ。
 あまり凝視しないようにしつつも、ちらりとその形相を見てみると目と眉をものすごい角度につり上げ、頬も怒りで紅潮している。怒り心頭、という様子だ。大声をあげているせいか、息も上がっている。
 早歩きで、なるべく彼女の神経に触れるようなことをしない様に、そそくさと彼女の前を通りすぎる間も、愛ちゃんは僕の陰に隠れながら、例の女性に興味津々といった様子で大きな瞳を彼女に向けていた。僕は愛ちゃんのあからさまな好奇の眼差しが女性に感づかれない様に、体を少しだけ斜めにして、彼女が女性から見えないように壁になろうと悪戦苦闘した。
 女性の前をなんとか通過し、十メートルほど離れるまで、僕らはなぜか無言になってしまっていた。
 ふと、愛ちゃんは後ろを少し振り向きながら、
「あの人、なんであんなに大きなスーツケース持ったまま喧嘩電話してたんだろうね?」とつぶやいた。
 え、スーツケース?僕もそっと後ろを振り向くと、確かに女性は腰の高さほどある、大ぶりな灰色のスーツケースを携えたまま、通話を続けていた。あのサイズは、海外旅行、もしくは長期の出張といったところか?とにかく、かなりの大荷物だ。
 全く気が付かなかった。彼女の不愉快な大声に気を取られつつ、彼女から愛しい愛ちゃんを守ろうと必死に背を向けていた僕の視界にその巨大なスーッケースは入っていなかった。
「本当だ....。 すっごい大荷物だなぁ」
 僕は驚きを隠せないまま、少し間抜けな声を出した。
「お金持ちの敏腕女社長とかかな?仕事で揉めているっていうよりは、プライベートな喧曄って感じだったね。あんなにお金持ちっぽくても悩むことってあんまり私たちと変わらなかったりするのかな」
 愛ちゃんはまるで謎を見つけた探偵のようにいたずらっぽく楽しそうに笑う。自分の興味のあることに思いを馳せているときの愛ちゃんは、とびきり魅力的だ。目がキラキラ輝き、いつもよりもさらに饒舌になり、色んなことを考え、話してくれる。
「浮気されたとかかな?女の人ってやっぱり、浮気されたらあのぐらい、それこそ外でも大声出しちゃうくらい、怒るものなんじゃない?」
 愛ちゃんに触発されて、僕もいつもより想像力を働かせ、先ほどの女性のことを考えてみた。頭の中には、浮気された女性がヒステリックに泣き叫び、男性に怒りをむき出しにする漫画やドラマで何度も見たような修羅場のシーンが思い浮かんでいる。
 と、同時に、『浮気』という言葉を愛ちゃんと僕の間に登場させたことについても考えていた。
彼女と付き合って一年中。僕の猛アタックの末、愛ちゃんは僕の愛ちゃんになり、僕も愛ちゃんの僕になった。以来、僕らの間には穏やかで幸せな時間だけが流れた。
 喧嘩もせず、平凡でも不満はなかった。例えばこんな風に、何気ない帰り道にたくさん話す。少しお酒を飲んで上気した彼女の横顔や、軽い足音が可愛いな、なんて考えて、それを繰り返して。
 僕の目には本当に愛ちゃんしか映らなくて、そんな僕らの間で浮気なんて言葉が話題に上ることは一度もなかった。彼女を信じていたし、それはたぶん彼女も同じだったと思う。
 特に意識していたわけではなかったが、その言葉をふと口に出した途端、犯してもない罪にへの悪感のようなものを感じ、腹の中がふわふわと落ち着かなくなった。
 そしてなぜか、彼女の反応が気になり、少しワクワクしながら彼女を見た。
 しかし愛ちゃんはきょとんとしてみせ、その後いたずらっぽく笑い、
「もしかしたら、あの女の人が浮気して、怒られてたのかもよ?」
なんて言うのだ。
 予想外の返答に僕は思わず顔が強張る。僕にはあれが“浮気をした”側の怒り様とは到底思えなかったし、全く思いつかなかった。彼女と繋いでいる手に
じっとりと嫌な汗がにじむのが分かった。咄嗟に出た返しは「えっ」だけで、それ以上はどんなに頭を回転させてもどう答えるべきか分からなかった。
 何を言っても、僕の動揺が今以上に彼女に伝わってしまう気がした。
 愛ちゃんが話を続けているが、どこか通か遠くにいるようだ。何を言っているのかわからない。耳の中でざわざわと音がする。不愉快な波のような音が彼女の声を遠ざけ、僕に届けない。僕が彼女と世界で一番近くにいるのに、まるで洞窟の中と外のようだ。
「でも、あんなに喧嘩するような問題抱えたまま、まぁ知らないうちに進行してたかもだけど、遠出してたってことだよね、あの女の人。すごいね」
愛ちゃんはおかしそうに笑った。
 そこでやっとばれない様に僕は呼吸を整えることで、ある程度の平静を取り戻した。だが、まだ彼女の目は見れない。
「ど、どうしてすごいんだよ?」
なんとか彼女との平穏な会話を取り戻そうと食らいつく。だが、依然として心臓は嫌なスピード感を保ったままだ。
「だって私はレポートとか喧嘩とかから逃げて遠出とか、もやもやしてできないもん。きちっと解決してからじゃないと!楽しめないでしょ!」
 愛ちゃんは笑った。屈託のない、いつもの顔で。僕の目を見て。僕の大好きな笑窪をその顔に作って。その時、僕の口から言葉が漏れそうになった。だが、彼女は
「あ、あそこの街灯、他のより明るいよ!」
といつも通りの調子ではしゃぎ、どんどん進んでいく。文字通り誰よりも傍にいるのに、僕よりもずっと先の所で、楽しそうに。僕は、まだ自分があのスーツケースの女性のところにいるような気がした。だめだ、僕は焦ってむりやり足を進める。
「待って愛ちゃん!」
「あ、京平!あの神社の中の木、金木犀だよ!うわーいい匂い!」
愛ちゃんが嬉しそうな声をあげて僕の手を放し、通りを右に曲がってマンションの影に消えた。そこはさわやか通りの真ん中で、神社がひっそり、マンションに挟まれて申し訳なさそうに建っている場所だった。隠れるように小さなぼろぼろの鳥居があるのだが、その向こうには街灯の光が届いておらず、社は全く姿が見えない。うっそうとした木々が白い石畳の参道沿いに生えているのがかろうじて見えるだけだ。誰かが参拝しているところも見たことがない、不気味で誰も近寄らないような場所だ。僕は急に軽くなった右腕と彼女の素早さに驚きつつ
「愛ちゃん、暗いのに走ったら危ないよ!」
と追いかけた。
 神社に対する日頃抱いていた恐怖心を押し殺し、僕も神社に走る。
 鳥居をくぐると、意外ときれいな石畳がしっかりと敷かれた参道がまっすぐ20メートルほど続いており、灯篭がその両側に等間隔に置かれ、微かな光を宿している。境内は周りを木にぐるりと囲われ、閉塞感は少しあるものの、マンションの白々しいコンクリートの壁が見えなくなっており、まるで山奥の神社にいるような不思議な眺めだった。社も手入れの行き届いた立派な建物で、木造だが傷みや汚れのほとんどない、大きな瓦屋根がとても荘厳な印象を与える。
 心なしか通りのそれよりも冷たく、澄んでいるように感じるその空気に、愛ちゃんが先ほど言っていた金木犀の香りが混じっている。かなり匂いが強い。よく見ると、社の右隣にぴったりと寄り添うように、大木の金木屋が満開の花を咲かせており、その下に愛ちゃんが立っている。こちらに背を向け、木を見上げている。深緑の金木犀の葉が、微かな月明かりを反射して艶々と光っている。
「すげぇ、こんなサイズの金木犀、初めて見た…… この神社も、通りからは見えないだけで、こんなに立派だったんだ」
 鳥居のそばの石碑には、『秋華寺』と駆られていた。どうやら名所らしい。
 愛ちゃんは胸いっぱいに香りを吸い込み、「ね!すごい発見!めちゃいい匂い!」と再び僕の右腕にくっついてきた。走って息の上がったお互いの体は少し胸の上下動に合わせ、揺れ動く。
 愛ちゃんの髪から金木犀がシャンプーの混ざった甘い香りがする。
 愛ちゃんといると、本当に僕の人生が色づいていく気がする。何の味も匂いも
ない水に、、鮮やかな絵の具がもやもや、ゆっくり、でも確実に色を与えるように。
 彼女のアンテナはいつもぴんと張っていて、たくさんのものをキャッチしている。僕のはきっと、いつも力なく腰を下ろして、その辺に転がっているありふれた、見たことあるようなものを捨い上げているだけだ。
 この腕に帰ってきた温もりと心地よい重みを味わい、小さな彼女の手を繋ぐ。さきほどよりも温かく、鼓動が速くなっている。
 「そういえばさ」
愛ちゃんがつないだ手を嬉しそうに眺めながら
 「金木犀の花言葉って『謙虚』なんだって」
と僕の肩に頭をのせてきた。
「こんなに強い香りなのに、謙虚なんだ?」
そっと彼女の頭を撫でる。猫の毛みたいにやわらかくて細い、さらさらの茶髪。いつもつんとポニーテールに結われ、彼女がはしゃいだり嬉しかったりすると掃
れて、本当に尻尾のようだ。
 「強い香りなのに、お花は爪とかよりも小さいじゃない?だから謙虚なんだって」
顔を上げ、僕の目を配き込む。得意げに、楽しそうに話す彼女の瞳は、鏡で見る僕の目よりも少し茶色がかっていて、星を入れたみたいな小さい光が見えた。なんでも、僕だって吸い込んでしまいそうな目。見入ってしまう。僕の手の中には到底収まらない彼女がそこにいる気がした。確かに映っているのはこの美しい瞬間と、彼女を目に抱く僕のはずなのに、その目の中に『僕』は見えない。
「でも、確かに謙虚じゃないかもね。あんなに小さい花なのに、香りだけはこんなに強いんだから。逆にめちゃくちゃ目立ちたがり屋なのかもね」
 愛ちゃんがちらりと目を頭上の金木犀に向ける。ああ、また、愛ちゃん。君は、僕を置いて行ってしまう。愛ちゃん。
 ごめんね。僕はそのまま話を続けようとする愛ちゃんを力いっぱい、両腕で抱きしめた。驚いた愛ちゃんの言葉が、顔に押し付けられた僕の胸にぶつかって消えた。
「京平?」
 突然抱きしめられたことに対する困惑と、嬉しさの滲んだ声に、僕の胸は愛おしさで覆われそうになる。
「愛ちゃん」
 僕はそっと腕を緩め、彼女と向き合う。愛ちゃんは、何が起こるのかしら、とじっと僕を見つめてくる。
 金木犀がそんな僕らを静かに見下ろしている。静寂が夜の空気に紛れて僕らを包む。
「愛ちゃん、別れよう」
 できるだけ優しい、でも平坦な声色で、僕は言った。
 愛ちゃんの瞳が迷子になったようにふらふらと泳ぎだす。口はぽかんと空き、え、え?と先ほどの僕のような狼狽っぷりを滲じませた声が漏れている。僕はやっと伝えた言葉が彼女に及ぼした影響に目を背けたくなる気持ちを必死でこらえ、なんとか立っていた。手が震え、肌寒い夜だというのに、また汗が止まらない。
「え、きょ、京平、私、なにかした?私のこと、嫌いになっちゃったの?」
 無邪気に夜を楽しんでいた彼女はどこかに消えた。目の前の信用しきっていた恋人からの言葉を飲み込み切れず、答えも出せず、身動きが取れなくなっている。両手はむやみに顔とポニーテールを触り、落ち着きなく動き続けている。
 「ううん。愛ちゃんを嫌いだなんで、思ったことないよ。だって、僕が選んだ人だもん」
 僕は今日、いや、今までずっと考えていたセリフをなぞる。彼女を思って、最後の言葉だと思って穏やかに紡ぐ。
「じゃ、じゃあ、なんで、私、やだよ!別れるなんて!」
あの目から大粒の涙が溢れだした。鼻をすすり、握ったこぶしが小さく震えている。
 僕は再び、彼女を自分の腕の中に入れてしまいたくなる。
「愛ちゃん。僕には愛ちゃんみたいにたくさんのものが見えないし、考えられないんだ。それが僕は辛いんだよ。こんな僕じゃきっと愛ちゃん、物足りなくなるんだよ」
 同じものを見ても聞いても。なんでも吸い込んでたくさん考えてみせる愛ちゃん。同じものばかり見てきいて、好きでいる僕。愛ちゃんの見せてくれる、愛ちゃんの世界はきっと他の誰にも見つけられないものなんだ。
この世できっと一番
「そんなことない!私、京平の優しくて、私のバカ話にも付き合ってくれて、楽しそうにしてくれるところ、大好きなんだよ?」
雲から顔を出した月の明かりで涙をキラキラさせ、僕の両手をとる彼女は、やっぱりきれいだ。泣いて真っ赤になってしまった愛ちゃんの頬に触れる。
「ううん。愛ちゃんは、僕みたいなやつは愛ちゃんには似合わないんだよ」
 真っ直ぐ目を合わせる。涙で湿り、体温が上がって火照った類の感触。いつも笑ったり、考え込んだり、クルクル変わる愛ちゃんの瞳が、泣いて腫れてきている。鼻をすする音。怯えたような悲しいような、本当に子犬のような表情。
「やだ、意味わかんないよ、京平......」
 そんな彼女に僕は最後の言葉を言った。
「ごめんね。でも、きっと、愛ちゃんの世界には誰もいられないのかもね」
 僕は彼女の反応も見ず、言い置くと足早に神社を出て、通りに戻り、帰路をたどり始めた。背中に聞こえる彼女の
「待って、待って!京平!」
という言葉にも振り向かず、歩きだした。
 下宿しているぼろマンションのエントランスを小走りで駆け抜け、階段を上り、自分のねぐらにしている208のドアノブに手をかける。逸る気持ちを抑えきれず、鍵束をやかましく鳴らしながら扉を開け、勢いよく閉める。
 靴だらけの玄関で、僕は声をあげて泣いた。ほとんど吠えていた。
 普段なら薄い壁を気にして足音一つにも気を使って、愛ちゃん以外の人を家に呼ぶことも少ないぐらいだったのだが、今は何も考えなかった。
 頭を支配する感情に任せ、思い切り声をだす。涙が汚く類を流れる。顔を手で拭うと手の甲に涙と鼻水がへばりつく。
 案の定、隣室の大学生から壁を叩かれたが、顔も知らない隣人の迷惑なんてどうでもよかった。

僕は
今、最愛の人を失ったのだ。

この手から放したのだ。きっと、愛ちゃんは意味がわからなかっただろう。嫌いになったわけでもない、先ほどまであんなに自分に寄り添って自分を慈しんでいた恋人が、急に自分から離れるなんて。僕が同じことをされてもきっと、困惑するにきまってる。靴も履き替えず、光の入らない薄暗いたたきにしゃがみ込み、天井を見上げて涙を流し続ける。

愛。愛。愛。

 僕の愛は本物だ。本当だ。偽りなく、君の与え、見せてくれる世界が、僕は本当に大切で大好きだった。ずっと僕のものでいてほしかった。
 でも、こんな僕じゃ、君の世界の見物客でしかいられない僕じゃ、君の中にずっといられるわけがなかったんだ。
 愛、君みたいにただの通りを夜市にできないことも。流行の曲だけじゃなく、昔の洋楽を楽しめないことも。あんなに大きなスーツケースに気が付けないことも。
 愛には、きっと足りてなかった。僕は知っているんだ。
 この前、僕らの二個上の吾妻先輩が、留学から帰ってきた。一年間ヨーロッパを巡っていた吾妻先輩の話は、サークルの誰もが夢中になった。海の向こう野国での摩訶不思議な暮らし、知らない食べ物、日本では公開されてすらいない映画。吾妻先輩はそんなものでできている。彼は世界の中心タイプだ。愛と同じ。
 愛の口から彼の名前が出る回数が増え、共通の友人から二人が仲良く話している、なんて聞かされるたびに、本当に娘だった。
 先輩はいともたやすく、愛の世界の登場人物になって見せる。ずっと観客でしかいられない僕はどうしようもない敗北感に苛まれた。
 勝ち目はなかった。愛のことだ。面白そうなものに飛びつくにきまっていた。 来週、二人でタイ料理を食べに行く、というメッセージを彼女の携帯で見てしまったとき、僕は自分の血液が冷たくなり、耳がどんどん遠くなっていくような感覚に襲われた。
 頭が重くなり、どんどん気分が悪くなって吐きそうになった。

 僕が嫌いなパクチーを、吾妻先輩は大好きだと言っていた。

 そのタイミングで、僕が一年記念日に彼女に送ったネックレスが切れた、と愛に言われた。お店で1時間悩んで買った錠前のモチーフが鎖から外れ、彼女の業に転がっているのを見たとき、ああ、もう本当にダメだ、と思った。
 あれは、なりたくなかったモノだったけれど、僕そのものだったんだ。君を閉じ込めておく存在に、君の世界を閉じてしまう存在に僕はなりたくなんかなかった。でも、君の世界を広げてあげられるような力は、先輩のようになる力は、僕になかった。
 愛。君の世界も、瞳も、香りも、手も、類も、誰にも渡さない。先輩にも、僕自身なんかにも。君の中は、美しく、豊かすぎて誰も留まっていられないんだ。 
 それは、それだけは、一緒だ。僕も、吾妻先輩も。
一緒なはずだ。
だからもう、僕が閉じる。誰も入れさせない。
それでいいんだよ。それが僕と君の最適な答えなんだ。
 僕はもう止まった涙をぬぐい、口元に歪んだ笑みを浮かべ、ドアのカギをガチャリと閉めた。

 

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