短編小説 ある柔軟剤を探す男
ある香りに取り憑かれた男の話。
「あ、柔軟剤切れてるんだった!」
溜めに溜めた洗濯物をオンボロ洗濯機にぶち込み、洗剤も入れ、とどめをさすだけ。というところで、葵は動揺と落胆の滲んだ声を上げた。
そんな彼女の揺れるポニーテールを眺めていた俺は、咥えていた煙草を指に挟み、「あ、まじか」と同調した。
いつもこの家では、必要なものは切れるまで補充されない。ハンドソープ、ティッシュ、シャンプーなんて、出なくなったところからが本番だと思っている。
とはいえ、せっかくの週末に遊び行きてくれた彼女が洗濯をしてくれているのだ。ここは柔軟剤を買いにいつものドラックストアまで行くとするか。
「あ、俺買いに行ってくるよ。ついでに買いたいもんあるし」
煙草を最後に一吸いして、灰皿に押し付ける。さっきシャワー浴びたから寝癖は付いてないし、そのタイミングで着替えたからあとは携帯持って出るだけだな。
「え、じゃああたしも行くよ。一人で待ってるん寂しいし、ついでにネイル買いたいし」
葵はそう言ってメイクポーチからリップを取り出し、さっと塗った。派手な顔立ちの葵は唇に色を乗せるだけで化粧が完成する。
「あー。いいよ待っときなよ、アイス買ってきてあげるし」
「いいの!一緒に行きたいの」
葵を腕に絡めたまま、俺は渋々歩き始めた。
「じゃあ、ネイル選んでおいでよ」
店に足を踏み入れるとまばゆい真っ白な蛍光灯に照らされ、カラフルなポップや洗剤、シャンプーに囲まれる。このドラックストアはインバウンドを狙った外国人向けの大型店で、大量の商品と多数ある出入り口のせいで一度逸れると中々落ち合えない。それを見越した提案をする。
「えー、いいよ。一緒に柔軟剤選ぶ」
葵は俺を引きづるように歩みを進めていく。背の高い棚が所狭しと並び、まるでちょっとした森を歩いているような気がする。棚と棚の間の通路をのぞくと、お婆さんが熱心に殺虫剤を選んでいた。
覗き込むまで人がいるかわからないので、急に子供が飛び出してきたりなんかした時には声が出そうになる。アジア系の外国人の小学生が二人、追いかけっこをしている。棚に隠れたり、楽しそうに声をあげたり。
気をつけろよ。一旦見えなくなったらあっという間に逸れるぞ。
「あ、柔軟剤あったよ恭平」
葵が指差す。様々な装飾を施されたボトルと詰め替えパックが陳列された、華やかな柔軟剤コーナーだ。花柄があしらわれたボトル、シンプルな英字デザインの物、ジェルボール状のものもある。
「え、このボトル可愛い!ねこれにしようよ」
葵は目の前のピンクと黒を基調とした、少し妖艶な花柄デザインのボトルを手に取った。
「葵、それ香り嗅いだことないだろ。ものすごい甘くなっちゃうんだよ。甘すぎるのはパス」
俺はしゃがみ込み、立ち並ぶボトルを隅から隅まで物色する体勢に入る。
柔軟剤はなんと言っても香りが大事。服がふかふかになるとか、皺がつきにくくなるとか、そんなことは俺にはどうでもいい。
「えー、じゃあ今使ってるやつの詰め替えにしようよーこれ」
案を却下され少し唇を尖らせた葵は詰め替えパックを持ってきた。今使っている、ローズピーチの香りのものだ。白とピンクのバラがプリントされている。
「いや、それじゃダメだった。それも甘すぎた。違う」
「違うって、柔軟剤に正解とかあるわけ?なんか恭平、柔軟剤だけこだわり強いよね。探してる柔軟剤でもあるわけ?」
呆れたような葵の口調。既に飽きの色が滲んだいる。
だから一人で行くって言ったんだよ。この言葉とため息を押し殺し、目の前の白いバニラの香りと書かれたボトルを手にとる。
「わかったよ。これにするからネイル、選びに行こう」
笑って葵に謝り、自分から彼女の手を取る。葵は満更でもない表情で握り返してきた。
ああ、また甘すぎるやつ、買ってしまったな。かごの中でごとごと揺れるボトルを一瞥する。
葵はすっかりコスメコーナーに夢中だった。
華やかな色取りどりのネイルを嬉しそうに眺めて、プラスチックの爪に塗られたサンプルに指を当てがい、試着している。
そんな無邪気な彼女の姿を眺めながら、俺は必死になってあの香りを思い出そうとしていた。
前の前の彼女、紫穂はいつも、だらしない俺のために、洗濯をしてくれていた。こんなに溜めちゃダメでしょ、なんて笑いながら。山盛りの服を洗濯機に流し込み、音楽をかけながらベランダに一緒に干した。お陰で、日差しは嫌いだが天気のいい日が好きになった。紫穂と干したての布団で寝転んでなんでもない話をしたり、ゲームをしたり、眠ったりして。
あの頃はずっと、紫穂が柔軟剤を選んできてくれていた。そして、あの頃の俺と紫穂からは、甘いけれどすっきりとしたいい香りがしていた。抱き合った時、お互いの体温と香りに包まれて、世界のどこよりも安心した。 葵と違って香水をつけるタイプではなかったから、シャンプーと柔軟剤の香りと、太陽の香りが紫穂の香りだった。
俺はそこに煙草の匂いが混じってる、と紫穂に言われていた。紫穂は煙草が嫌いで俺にはいつもベランダで吸わせていた。でもそんな俺を、窓の向こうからなんとなく嬉しそうに眺めていた。
紫穂とは互いの就職をきっかけに生まれたすれ違いで別れてしまった。なんてことはない、その辺に転がってる石ころぐらいありふれた終わり方だった。
一緒にいる時の方が寂しい、なんて言われて振られてしまった。
もっとこうすれば、ああすればと思うことはたくさんこの二年間で考えた。その間に葵を入れて二人の恋人もできた。
あの時、ちゃんと一緒に買い物とか行けばよかったな、とここ最近は思う。
そうすれば、俺はこんなにもあの香りを探し続けなくてもすぐにまた見つけられたかもしれない。
葵は緑と青のネイル瓶を手のひらにのせ、レジに向かった。俺も続く。
葵からはいつも甘い、桜のような香りがする。俺が半年前に送った香水をいつも身にまとっているからだ。手首とうなじからは特に強く香る。
葵のことは大切だ。わがままだし、振り回されることもあるが俺にはない無邪気さと明るさに救われたことが何度もある。だからこそ俺は葵と付き合っている。何も不満がないといえば嘘になるが、不満のない恋人なんて正直そうそういないと思うし、俺と葵の関係は良好だと思う。
だが、街中で誰かとすれ違い、あの香りがした時。ドラッグストアの棚の間の通路を覗いた時。
そこに、彼女が、あの頃の日々がいるような気がしてしまう。
人間は、誰かを忘れて行く時、声を一番最初に忘れ、最後まで匂いを覚えているという。確かに、あんなに話して笑い合った声はもう、あまり頭の中に響いてこない。喧嘩もたくさんしたはずなのに、楽しかったことばかり思い出してしまう。そんなに甘くないし、あの頃の紫穂はもういなくて、なんならもうあの香りが彼女からはしていないかもしれないことも知っている。
それに、俺だって紫穂と一緒にいた頃の俺ではないのだから。たくさん新しいものを手に入れて、いらなくなったものも捨てて。ずいぶんあの頃よりも遠くにきた気がする。
でも、どうしても。あの頃を思い出し、この胸に抱きしめたくなってしまう。
俺は、最後まで俺の中に残っているあの香りを、探し続けている。
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