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考え続けること

ここ最近、今後の仕事のことや結婚や、将来子どもが欲しいのか/欲しくないのかということについて、しばらく考え続けていた。自分がどうしたいかを見極めたいのに、なかなか考えがまとまらなくて、「どうしようかなぁ…」と思案するばかり。答えなんて出せないんじゃないかと思うくらい、考えは進展せず、モヤモヤが続いていた。

それが不意に、自分の中でするっと決着がついた。その意識の変化があまりになめらかで、あまりに自然すぎて、目の前にかかっていたはずの霧がいつの間に晴れたのかと、辺りを二度見したくなった。
どんな答えが出たのかではなく、答えが出た様について、何となく書き残しておこうと思う。

私の場合、とにかく考え続けるしかない。今回も、久しぶりに悩みを抱え、どうしたいのか自分に問い続けた。ずっと分からなくて、どうしようもなくモヤモヤして、同じところで思考が堂々巡りするばかりに思えたけれど、ちゃんと自分の中では小さな変化が起こっていた。

言うなれば、考え続けるうちにモヤモヤが色んな要素と相まって発酵し始め、それを何度も繰り返していい頃合いになったところで、問いへの答えが確かな感情となって形成された…という感じだ。
ぼんやりしているときに「あ、答えが出た」とふと確信できる瞬間が訪れたのだ。

自分の中に前向きな心地よい思考が流れてきて、自然と納得できた。悩んでいたときの自分は別の次元へと移動してしまい、気づいたら私はもう別の場所に立っていた。考え続けてきた反対意見は色あせ、もう私に対して力を持たなかった。「これでいいんだ」と真っすぐに思えた。

そうして自分が納得できる瞬間が訪れたら、あんなに悩んでいた自分があきれそうなほど、すっぱりと決意が固まり、前へ進もうという力がじわじわとみなぎってくる。
悩んでいるときは本当に五里霧中だけど、振り返ってみると、この「考え続けて答えが形になるのを待つ」は私の典型的なパターンなのだ。これを他人が外から見たら、「悩んでいたのに一人でいきなり決断した」ように見えるかもしれないな…。自分でも、何がどうなってその決断に至ったのかをうまく言葉にすることはできない。そこはもうとにかく考え続けた結果、としか言えないのだ。

年齢や経験を重ねても、自分を捉えることは簡単じゃない。自分とはいえ、自分は自分に対する「全能の神」みたいな存在なんかじゃなくて、共に生きる同志のような存在だ。自分とよく対話して、自分がどうしたいのかしっかり考えてあげて、その上で自分を動かしていく。

そんなふうに考えると、「自分」が2人いるような気がしてきて何だか不思議なのだけど…。突き詰めて考えていくと、そもそもこれを考えている「私」という存在は何なのか、という問いにまで発展してしまいそうだ。でもそれはあまりに壮大な問いなので、今日はこの辺でやめておこう。学問としての哲学に詳しい人なら、答えを知っているのかな…。でも、それを自分で考え続けてみるのも楽しいかもしれない。

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