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「秘密の質問」の「母親の旧姓は?」という項目に凝縮されているもの

1.「よそはよそ、うちはうち」の感覚がプラスの意味で社会に浸透してほしい

「よそはよそ、うちはうち」

小さいころ、親からこの言葉を言われた人は結構いるんじゃないかな、と思う。

「Aちゃんちは毎年家族旅行に行くんだって。いいなー」
「みんな毎月おこづかいもらってるのに、何でうちはないの?」

こういうおねだり系のことを親に言った時に、「よそはよそ、うちはうち」というひと言で一蹴されたことは、私も子供時代に何度か経験している。

子供心には面白くなかったけど、実際そのとおりなので何も言い返せないし、ほかの家族がどうであれ、我が家のスタンスは決して揺らがなかった。そう、揺らぎようがないのだ。

「よそはよそ、うちはうち」

「よそとうちの事情は違うんだから、うちの現状を受け入れなさい」の文脈でよく使われるこの言葉。

その感覚が、もっとプラスの意味でも社会に浸透すればいいのにな、と思う。順番を逆にして「うちはうち、よそはよそ」のほうがしっくりくるかもしれない。「うちとよその事情は違うんだから、よその家族をうちと比較してジャッジする必要はないんだよ」の文脈で、当たり前にある多様性を包括する言葉として、社会に浸透してほしい。

なぜかというと、やはり日本社会は「みんな同じであること」にとらわれすぎていると思うからだ。

2. 選択的夫婦別姓についてのあれこれ

たとえば、選択的夫婦別姓の導入自体になぜか反対する人がいる。私にとって当事者性の高い社会問題なので、このテーマを軸にしたい。

今の日本の制度では(日本人どうしでは)夫婦別姓を選べず、もう何十年も前から選択的夫婦別姓の導入を求める声が上がっている。

選択的夫婦別姓が導入されても、あくまでも『選択的』なので、これまでどおり夫婦同姓にしたい人は同姓を選べる。「夫婦別姓に反対」なのであれば同姓にすればいいだけなので、制度が導入されても「夫婦同姓にしたい人」が不利益を被ることはない。

それなのに、夫婦別姓にしたいと願う『よそ』の夫婦に対してまで、根拠の薄い「伝統」や今はなき「家制度」などを持ち出して極端な拒否反応を示す人たちが根強くいる。

そういう意見を見るたびに、家族の形そのものが「うちはうち、よそはよそ」のひと言で済むはずなのにな、と思うのだ。『よそ』の夫婦が別姓を選ぼうが、同姓を選んだ夫婦の何かが揺らぐわけではない。

今や世論では若い世代ほど選択的夫婦別姓の導入に関して容認派が反対派を上回っているのに、政権与党の自民党が消極姿勢を崩そうとしないことが本当にもどかしい。

名字を変えるのは女性側が96%と圧倒的に多いことからも、夫婦別姓を認めない日本の民法規定は差別的だと国連から再三の改善勧告を受けている。

事実として、夫婦同姓を強制している国は今や世界で日本だけだ。(それは政府答弁でもはっきりと述べられている。)かつて夫婦同姓が法律で義務づけられていた他の国々は、すでに法改正して国民に同姓と別姓の選択肢を与えているのだ。

3. 男女平等と法の下の平等の観点から。「秘密の質問」の定番項目「母親の旧姓は?」が示す社会。

女性側が96%改姓している、という現状を見てもなお「男性と女性、どちらの名字を選んでもいいのだから平等だ」と言う人もいるけれど、「男性の名字に合わせるのが基本だ」という暗黙の了解が根強く残る社会の在り方が変わらないままで、果たして本当に男女平等と言えるだろうか?

各種サービスのパスワード再設定用の「秘密の質問」に、当然のように「母親の旧姓は?」と出てくることの意味を考えたことがある人はどれくらいいるだろうか。(「父親の旧姓は?」なんて質問は見たことがない。)

夫婦となる2人が女性側の名字に合わせようとすると、その背景に「特別な事情」を求められてしまうのはなぜだろうか。

何より、夫婦となる日本人2人のどちらか片方だけが必ず(望んでいなくても)名字を変えなければ法的に夫婦と認められないというのは、完全に制度の欠陥だと思う。お互いに名字を変えずに結婚したいと望むカップルは今の日本では法的に夫婦となれず、だから仕方なく事実婚を選ぶという夫婦も多い。『名字をどちらにするか問題』が解決できずに別れてしまうパターンさえあると聞く。

私自身、恋人と『名字をどちらにするか問題』が解決できないまま、もうずっと婚姻届を出せずにいる。私も彼も、それぞれ理由は違うけど、どちらも名字を変えたくない。お互いに変えたくない気持ちが分かるからこそ、相手に無理やり折れてもらって自分の名字に変えてほしい、とも思えないのだ。

一緒にいて幸せだから、今後もずっと一緒にいるために結婚したいと思うのであって、結婚するために相手から無理やり名字を奪ったり自分の名字を泣く泣く手放したりと『望まない損失』を強いられるようでは、その幸せが欠けてしまう。名前を変えなくて済む権利が一方だけに認められて、もう一方には認められない。それらの矛盾にどうしても納得がいかないのだ。

現状の制度で日本人どうしが結婚するにはどちらかの姓に統一しなければならず(日本人と外国人が結婚する場合には別姓にできる)、片方だけがそれまで数十年間の人生を共に生きてきた名前を捨てなければいけない。それって、果たして何のためなんだろう?改姓を望む人はいい。だけど改姓を望まない人は?

夫婦が離婚する場合には旧姓に戻すか婚姻中の姓を使い続けるか選べるのに、離婚時に選べる/配慮されていることが婚姻時に選べない/配慮されていないのもおかしな話だ。

2人のうち片方だけが、生まれ育った名字を強制的に捨てさせられる。その時点で、憲法で保障されているはずの『法の下の平等』が侵害されていると思うのだけれど、特に名字にこだわらない人や、積極的に名字を変えたい願望がある人や、夫婦は同姓であってしかるべきだと信じきっている人にとっては、こんな主張は『おおげさ』に聞こえてしまうのだろうか。

4. 愛情も幸せも、他人の尺度で測るものではないということ

ツイッターを見ていると、女性が結婚に際して名字を変えることに抵抗感を示すつぶやきをして、そのツイートが少しでもバズったりすると、どこからか現れた無関係な人が「そこまで相手を愛していないなら結婚しなければいい」などと言いだしたりするので本当にびっくりしてしまう。

名字を変える行為と愛情の度合いを結びつけて考えてしまう人は、それが世間一般の価値観などではないことに気付いてほしいなと思う。好きな人の名字に改姓することで幸せを感じる人も確かにいるだろう。だけど当然そうでない人もいるのだ。

同姓にすることで安心感や満足感を得られる人がいることは(個人的にはその感覚に共感はできないけれど)分かるし、そういう感覚を持つ人を否定するつもりはまったくない。何を幸せと感じるかは人によって本当に違うからだ。

だから同じように、同姓にする(自分の名字を捨てる)ことで仕事上の不都合が生じたりアイデンティティーの損失に耐えがたい苦痛を感じる人がいることも、たとえ共感はできなくても否定しないでほしいなと思うのだ。

5.「家制度」が廃止されていることに気付いていない人たちがいる理由

また、「相手の家に入るのだから女性が名字を変えるのが当然だ」と時代錯誤な主張をぶつけている人もたまに見かける。こちらはちょっと闇が深い。

男尊女卑で差別的な「家制度」はとっくの昔(1947年)に廃止されている。にもかかわらず、いまだに家制度が続いている感覚のままの人がいたり、名字を変えただけで「嫁に行く」「婿に入る」などという誤った表現が世間で幅を利かせていたりするのはなぜなのか。

それは、家制度の名残である夫婦同姓を強制し続けていることが大きく関係していると思う。

ツイッター上で、そういう人たちと忍耐強く対話を試みようとしている人たちも見かける。私自身、家制度が今も続いていると思っている人に対して「もう廃止されていますよ」と直接告げたくなるけれど、ぐっとこらえている。きりがないからだ。

ネット上で1人1人を相手に制度の説明をし続けるより、選択的夫婦別姓の導入(強制的夫婦同姓の廃止)について政府が議論を進めて法律を改正し、メディアが正しく報じてくれれば、社会の認識は一気に変わっていくはずだ。

6.『家族の形』は国が押しつけるのではなく、各個人が選べる社会であってほしい

名字を変えたくない理由は人によってさまざまで、政府が進めようとしている「旧姓使用の拡大」では決して根本的な解決にはならない。「結婚後に旧姓を使い続ける女性が増えていることを受け」てそんな対応をするのであれば、最初から夫婦別姓を選択できるようにしてくれればいいのに、という思いがいっそう強まる。

よその夫婦の名字が違っても、他の家庭には何の影響もないはずだ。「夫婦で名字が異なると子供がかわいそう/学校でいじめられるのでは?」などと邪推する声もあるみたいだけど(夫婦が必ず子供を産む/産める前提で話しているところも、個人的には疑問に思ってしまうけれど)、それはそう感じてしまう人の偏見でしかないだろう。

いろんな家族の形があることを、偏見を交えずにフラットにとらえればいいだけだ。

それは同性婚(当然日本でも法的に認められるべきだと思う)でも同じことが言えるし、望んで事実婚を選ぶカップルも、事情があってシングルマザー/シングルファザーとなった家庭も、さらに言えば独身世帯だって、あの人は…なんて偏見をもって見られるべきではないのだ。

つまり、すべては個人の生き方の話に帰結する。価値観や事情は十人十色だ。幸せの形は1つじゃないし、何を幸せと感じるかは人によって違うから、もっと「うちはうち、よそはよそ」の感覚がいい意味で広まって、どんな家族の形であっても、または家庭を持たない選択をした人でも、それぞれが気持ちよく暮らせる社会になればいいなと願っている。

(もちろん、他者の人権を踏みにじるような歪んだ家族の形(しつけをかたった虐待や児童婚など)は人道的観点から許されないことは言うまでもないけれど、念のためひと言付け加えておく。)

そのために必要な法改正を、生きやすい人が少しでも増えるような環境整備を、国(政府)はもっと真剣に柔軟にしていってほしい。「日本の家族のあり方」なんて画一的な概念を、全国民に押しつけたりしないでほしい。

「家族のあり方」なんて、家族によって違っていい。「うちはうち、よそはよそ」だ。

7. 行動を起こしてきた人たちへの感謝。私はどう動く?

そして、選択的夫婦別姓の導入がこれ以上先延ばしにされてしまうなら、願うだけでなく私自身ももっと行動していかなくてはいけないな、と思い始めている。

今は選挙で選択的夫婦別姓を推進してくれる人や政党に投票することや、夫婦別姓訴訟の行方を見守ることぐらいしか行動できていない。

昔から今に至るまで、全国で夫婦別姓訴訟を起こしてくれている人たちには本当に頭が下がる思いだ。

国会を動かすためのこんな活動があることも最近知った。

かつて、世界中の女性たちが女性参政権運動を起こして闘ってくれたおかげで、女性である私は今、権利を求めて闘わずしてすんなりと選挙権を行使できている。そのことの途方もないありがたさも、改めて身にしみて考える。

今「女性は政治に参加できない」と言われたら、ありえないと思うだろう。だけどかつて女性の政治参加は認められていなかった。ありえない時代があったのだ。もしかしたら若い人などはそんな時代があったことさえ知らない人もいるかもしれない。

それと同じように、「夫婦別姓が認められない時代があったなんて信じられないね」という未来が早く日本に訪れてほしいと思う。「秘密の質問」から「母親の旧姓は?」という項目がなくなる日が1日でも早く来てほしい。

一部の人は、もう日本でも夫婦別姓が認められていると勘違いしていたりする。実際、複数人から「(名字を変えたくないなら)夫婦別姓にすればいいじゃん」と言われたことがあり、まだ日本ではできないんだよと言うと驚かれた。このように、自分たちが夫婦別姓にすることに興味はなくても、同姓ありきでは考えていない人もいる。時代は確実に流れているのだ。

別姓が認められないならもう一生婚姻届なんて出さなくてもいいかな、と投げやりな気持ちになりそうにもなるけれど、これは自分の問題だけではない、と先人たちに思いを馳せる。自分のためだけではなくて、将来別姓で結婚を望む若い人たちのためにも、今、自分ができることをもっと調べて、考えて、行動していきたい。

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