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恋ひ初めの街③【第2話】『七夕』(文月)



第一章・七夕祭り

七月七日
見知らぬ男女が初めて出逢う日
恋の予感……

 七夕祭りの一週間は心が躍る。
 七月七日のクライマックスには、町内の十六歳から二十五歳までの男女を対象に自薦、他薦を問わず当年の彦星と織姫の候補者を募り、選出された二人をそれぞれの輿こしに乗せ、輿を囲んだ稚児ちご行列ともども天の川に見立てた神社の参道を、年に一度の再会の場所と設定された本殿まで練り歩き、そこで初めて二人を引き合わせるという趣向が三十年来の慣わしになっており、中にはこれがきっかけでめでたく結ばれた彦星と織姫もいる。結果的に若い男女の出逢いの場を町ぐるみで提供しているという予期せぬ展開に、実行委員らは殊の外ご満悦だともっぱらの評判だ。
 何ともロマンティックな成り行きに、自分もいつか輿に揺られてめぐり逢いの場所へ、などと妄想に取り憑かれ、仄かな夢と憧れを抱いている。見知らぬ男女が恋の予感をはらみつつ初めて出逢う場面ほど心揺さ振られる光景はない。生来の祭り好きの血が騒ぐ瞬間なのだ。祭り好き、というより、人同士がひしめき合う場所が好きなのかもしれない。
 祭りを通して伝統復古と失われかけた昔ながらの人情を取り戻すべく模索する町の姿は、巨大な捕食者に丸飲みされたものの、尚も胃袋の中でしぶとく息衝く小生物に思えてくる。喘ぎながらもささやかな抵抗で確かな存在感を示しつつ、大都市の片隅にこの町はひっそりと根を下ろしているのだ。私はそんな町に育った。


 夕方帰宅して自室のドアを開け、鞄を放り投げると、制服のまま一目散に神社へと向かった。祭りのクライマックスだけは見逃したくはない。
 普段の買い物客に祭りの喧噪までもがなだれ込んだ、人いきれでむせ返りそうな商店街を抜けると神社の鳥居をくぐった。参道の両脇に連なる出店を散策しながら、今年もひとり本殿を目指す。
 立ち止まっては一軒ずつ店先をうかがうようにトボトボと歩を進める。対向者をうまくかわしながら歩いていると、後方からの人波に押された拍子に前方へと躓いてしまった。危うく地べたに手を突くところを誰かが私の体ごと受け止めてくれた。
「大丈夫?」
「すみません。大丈夫です。ありがとうございました」
 すっぽりとかいなに抱かれたまま上目遣いに礼を言う。微笑む少年の顔がこちらを見下ろしていた。視線が重なった途端、頬が火照り、私は思わずうつむいた。
「その制服……一中いっちゅうだね? 従姉と同じだ」
「──何年生……ですか?」
 彼の庇護の元を離れた私は、照れ笑いを見せながら聞き返した。
「もう、とっくに卒業して、今は高校三年生……公立普通科の……新築の校舎を自慢してたよ」
「あの“ケンリツ”ですか?」
「通称“ケンリツ”で通ってるの?」
「はい。優秀なんですね?」
「そう……なの?」
 彼は首を捻りながら聞き返す。
 私は微笑んでペコッと首を折って頷いた。
「君、もしかして……一年生?」
「はい、一年です」
 変声期特有の、少年らしさを声帯の奥へと沈めようとする掠れ声を、こちらも精一杯背伸びして少々気取った声のトーンで受け止める。
「そうなの! 同学年か……」
「どこの中学なの?」
 長身の彼を見上げながら我が声は弾んだ。
「県外なんだ。小四しょうよんの妹にせがまれちゃって、今日、その従姉の家に遊びに来たんだ。さっきまで一緒だったんだけど、従姉の彼氏が現れて……僕が身を引いたってわけ。しょうがないよね」
 彼は愉快そうに笑いながら頭をかいた。
「あら、フラれちゃった……ってわけね? フフフ」
 私も冗談めかして笑う。
「そういうこと……でも、さすがに都会だね。この人たちどこから湧き出たの? 妹ともはぐれちゃったし、人波に押し返されて目指す方向になかなか進めやしないよ」
 彼は辺りを見回しながら感心したように言うと、ひとつため息をついた。
「妹さんをさがしてるのね?」
「いや、駅のホームで落ち合うことにしてるんで、それは問題ないんだ」
「そう。どこへ行くつもりなの?」
「ま、決めてはいないんだけどさ。たださまよってるだけ……このワクワク感を味わいたくて。僕の田舎では無理だもの」
 急に顔をこちらに向ける。彼の横顔に固定していた視線を咄嗟に逸らした。
「私、この先の神社まで行くの。案内しようか?」
 指を差しながら、思わず口をいて放った大胆な申し出に自分自身驚いた。普段は気後れして自分からは滅多に異性とは口の聞けない性格なのだが、きっと祭りの雰囲気に飲まれたせいだろう。
「ぜひ」
 彼はこちらに微笑んで一八〇度方向転換して歩き出したので、私もあとに続いた。
 露店沿いを複雑な人の流れに苦慮しながらしばらく行って、人の波に乗り切るべく参道の中央へ彼を促すと、私たちは肩を並べて歩調を合わせる。
 彼の右側を歩きながら何気ない素振りで、時折その横顔をチラと覗く。短髪の日焼けした顔に滲んだ汗がはじけ散る。私の目線には、両の口角が持ち上がった形良い唇がしっかりと結ばれていた。奥歯を噛みしめる度に顎辺りの鋭角な骨格が、丸みを帯びた輪郭の中から見え隠れする。それは大人を予感させた。まなこは西日を一粒ずつ跳ね返し、こちらに視線を向ける度、私を射る。あまりのまぶしさに息が止まる。純白のポロシャツの袖からはち切れんばかりにはみ出た二の腕の筋肉が躍動して歩行のリズムを刻む。 
 進むに連れ、胸の奥底を柔らかな羽毛でくすぐられむず痒いような、それでいて何者かに鷲づかみに締めつけられる微かな痛みが、血潮を激しく波立たせる。それに呼応するように胸が高鳴るのはなぜだろう。体温が急激に上がり、顔が熱い。とろけそうなほど心地よい気だるい感覚が胸底から湧き、全身を襲った。今までに経験したことのない感情に私は戸惑った。
 ──異性と並んで歩くなんて……
 ──しかも、魅惑的な匂いを全身にかもし出す人と……
 ──わたし……この、わたしが、よ!
 感情のたかぶりは、魂を甘美な夢幻の世界へといざない、たちまちとりこにしてゆく。しかし夢物語は儚く残酷なものだ。必ず目覚めが訪れる。
 ──誰かに見られたらどうしよう!
 陶酔とうすいしきった胸をてついた魔手ましゅで引きちぎられ我に返った。突如現実の世界へ引き戻された瞬間、私は周りをキョロキョロと見回した。きっとクラスメイトの子たちも祭り見物に来ているに違いない。明日、登校して教室に入った途端、冷やかされるかもしれない。学校じゅうの噂になるかもしれない。一瞬、不安が脳裏にぎる。
 ──でも、そういうことって……
 確かに恥ずかしくもある。が、大した懸念じゃない。誰もが憧れることで、向こう側の連中だって、内心、うらやましいに決まってる。私がオドオドする必要は全くない。胸を張って、大人の女を気取って何食わぬ顔で「どうってことないわ」なんて揶揄やゆする連中を突っぱねてみせようか。
 ──折角のロマンスの予感をそんな懸念でけがすなんてもったいないことよ!
 ──今のこの刹那せつなを大いに楽しめばいいことじゃない!
 ──こんな大したことのない不安で、ひとときの逢瀬おうせに自ら終止符を打つなんて……
 ──人生のほんの一瞬なのよ! 
 ──もう二度と訪れないかもしれないじゃないの!
 ──私って、ほんとに、ほんとにダメな子なんだわ……
 自分に失望すると同時に底知れぬ怒りが込み上げてきた。この臆病な性格が心底うらめしい。
 変わりたい。何とか生まれ変わって、たったひとり歩まなければ、未来は永遠に来ない気がする。
 ──勇気を出さなきゃ!
 心を鼓舞こぶして、昨日までの自分との格闘を決意したものの、おびえで身は震える。食いしばった歯が小さくきしんだ。
「ねえ、何部?」
「エッ!」
 いきなりの問いかけに喉が素っ頓狂とんきょうな悲鳴を返した。慌てて取りつくろうように微笑ほほえんで冷静を装いつつ「バスケ部」と小さく返答してまともな少女へと己を修正する。
「ホント! ぼくもバスケ部」
「そうなの!」
 彼との共通項を見い出せた喜びが喉元から湧き上がる。
「やっぱりね。さっきの、人波をかいくぐるときの身のこなし見てたら、なんとなくね。ぼくの目って確かだったよ」
「あら、そんなことでわかるものかしら? わたしなんて、ぜんぜん気づかなかったもの」
 このとき、何か運命めいたものを感じずにはいられなかった。彼との接点は今後の幸福な展開を予期するものかもしれない。私の胸は一層華やいだ。
 ──それってやっぱりご都合主義なのかしら? 


 彼との短い旅路の末路が見えてきた。二人の足は参道を過ぎ、境内へと進んだ。
 境内の入り口付近にはテーブルが設けられてあり、短冊の束とペンが用意されている。社殿を取り囲むようにずらりと立てかけられた笹が、飾られた短冊ともども風に揺さ振られる光景は壮観だ。
 俄かに人波が押し寄せつつある。クライマックスの時刻が迫っているせいだ。
「わたし、毎年、短冊を飾るの、願いを書いて。あなたも……どう?」
 幾分遠慮がちに問いかけてみた。
「うん。神様の前を素通りはできないよね……でも、何を願うかなあ? 君は決めてるの?」
「いいえ……まだ……」
「何にしようかなあ……」
 彼は腕組みしてちょっとだけ考えたあと、「そうだ!」と小さくつぶやいてペンをとり、即座に滑らせた。
 一方、私は考えあぐねた。いつも願うのは、未だ見ぬ恋の成就。いくら何でも初対面の彼の前では流石に憚られる。当り障りのない文言を模索することにした。
 彼の仕種を瞳に焼きつけながらしばし悩み続けていると、もう彼はペンを置いた。
「何を願ったの?」
 敢えて尋ねるまでもなく既に短冊は私の目線にかざされていた。
『いつかまた 織姫様に会えますように  彦星より』
 私の顔は熱くなる。どう返答すべきか、行動すべきか見当もつかなくなり、ドギマギしてうつむき加減で手で鼻をこすったり、唇を噛んだりするばかりだった。
 最初、彼は平然としていたが、私のそんなただならぬ様相から悟ったのか、同様に照れ臭さを漂わせ始める。仕舞いには頭をかきながら唇を緩めた。
「いやあ、深い意味は……七夕に因んだ……だけ……」
 彼も少ししどろもどろに返してくる。
「──そうね、せっかくの七夕ですものね……」
 私も意を決して、ペンを握った。
『いつかまた 彦星様に会えますように  織姫より』
 二人は短冊を目線にかざしながら笑い合った。
 私は彼をある一角へ案内した。ここは社殿の横で、他所よりもひっそりとして、飾られた短冊も幾分少なめに見える。ゆえに純真な(?)切なる乙女心を聞き入れてもらえそうで、毎年ここの笹に願いを込めている。私のお気に入りの笹なのだ。
 早速、彼は短冊を笹の一番高い所に飾った。と、私が自分の背丈に合わせ、目線に結ぼうとしたところをそっと奪い取って、自分の短冊の横にしっかりと結わえてくれた。彼のそんな大人びた行動に、またもや顔が火照ほてり出したので、わざと明後日あさってのほうを向いてしのいだ。
 しばらくその場にとどまって、お互いの学校生活についてしゃべった。儀式を終えてしまった二人には最早こんな話題しか思いつかない。異性との時間を埋める効果的な対処法なんて知りはしないし、授業でも教わってない。
 ──もっと実社会で役立つ実践的なスキルを教えてよ!
 ──それが真の教育ってものじゃないの!
 ここで教育に関する頓珍漢とんちんかんな恨み節をぶちまけても詮無き事、経験がものを言うなんて百も承知。だけど、どこの世界に恋にまつわる経験豊富な一三歳がいるのだ。恋に恋するだけが精一杯のお年頃ではないか。自分で言うのも何だけど、私みたいに幼気いたいけな女の子にそれを求めても無理な話。
 ──何ができるの?
 ──これで人生が決まるかもしれないというのに!
 ──誰か、お願い! 
 ──今すぐ恋の手ほどきしてちょうだい!
 でも、辺りには恋の指南役など見当たりそうにないので、こんな他愛もない話に終始するしかなかった。一秒たりとも時間を持て余すなんて絶対に避けねばならないのだ。
 彼との心の距離を詰めるべく必死に話題選びに専念していたら、彼が急にソワソワし始めた。「ちょっとごめん」と詫びて、傍にいた中年の男性に時間を聞く。妹との待ち合わせの時刻が二十分後に迫っていたのだ。どうやら祭りのクライマックスまで一緒に見届けるのは難しいようだ。残念極まりないが、私は、「行きましょう」と言って彼を促すと、仕方なく二人してその場を離れた。話の続きは駅へと移動の道すがらということになった。


 参道を逆に進む。行きはヨイヨイ、帰りは波に逆らって思うように体が前に進めない。
 と、クラスメイトの赤縁眼鏡の女子と鉢合わせた。彼女はニヒルな笑みを唇にたたえ、私と彼を交互に見やる。彼と視線が合うや、咄嗟に眼鏡を外し、折りたたんで右手に包み込むと軽く会釈したので、彼も同じく微笑みながら首を折った。ゴムまりのように弾みながら行動する小柄な私とは正反対で、長身で長めの手足をゆったりと動かす仕種が何とも優雅だ。優等生ゆえに教師からの覚えめでたく、素顔は幾分勝気だけれどなかなかの美形との評判で、男子たちの人気もまずまずといったところだ。私は少し不得手なタイプなのだけれど。平たく言ってしまえば、『いけ好かねえ』ヤツだ。彼女は擦れ違いざま私を鋭い目つきで一瞥して去って行った。
「同級生?」
「ええ、彼女、素敵でしょ? スタイルも抜群だし、美人だし……羨ましいなあ、“あの人”に比べると、私なんてほんと、チビで平凡ね……」
 思わず本音が出た。彼が彼女に心を奪われはしまいか、と不安が胸を切り裂く。
「そんなこと……」
「慰めてくれなくてもいいのよ。事実だもの」
 私は彼をさえぎって自嘲するように顔を歪めた。
「僕は、好きだよ。君みたいなタイプ」
 一瞬、全身の神経にピリピリと稲妻が走った。顔面が引きつり、うつむいたまま神経は動作を拒絶する。
 恐々と彼に視線を向けた。彼は唯々微笑みかけるだけで、自分が放った言葉の重大さを理解していないようだ。
「ゴメン……気にさわるようなこと言ったかな?」
 強張った顔面のまま凝視し続けたものだから、私が立腹したのだと彼は勘違いしたようだ。
「ち、違うの! へへへ……」
 強引に顔の筋肉を緩めにかかる。ヒクヒクと頬が波打つ。
「参道の真ん中を開けてくださーい!」
 いきなりの叫び声の方向を皆が一斉に向いたために、人の流れがとどこおり出し、遂には静止してしまった。すると、前方から段々と道の両端へといだ波は切り裂かれ始めた。丁度、船が波を起こしながら進むように、七夕の行列は参道中央を本殿へとかじを切る。
 私の体は波に飲み込まれ、身動きすら叶わぬまま、参道の端へと追いやられてしまった。咄嗟に彼の姿をさがした。が、あろうことか、彼は反対側の端へと遠ざかって行く。見失うまい、と必死に目を彼に固定し続ける。


 稚児行列が実行委員に見守られながら現れた。
 彼は流れの反対側で出口の方角を指差しながら視線を送ってきた。指示された方向へと意識だけは先走ったが、思うようにはなかなか進まぬ足を引きずりながら対岸の彼に視線を送り続ける。
 ほどなくして数十人の男たちに担がれた輿の朱色が人目を引く。すると人の動きがまた止まる。輿が揺れる度に、下ろした御簾みす隙間すきまから織姫の白い頬が覗く。織姫の輿が過ぎて間もなく、彦星の輿も続いた。
 二つの輿が過ぎ去ったあと、対岸に彼の姿は見えなくなっていた。私は必死にさがした。目星をつけ、今いるであろう当りに視線を向ける。だが、いくら目を凝らしても彼の面影は認められない。さっきまで、ほんの数分前まですぐ傍で息遣いきづかいを聞いていたのに。
 行列が過ぎ去り、人の流れが再び元に戻ると、解放された私の体は即座に反応して、駅を目指した。駅へ行けば、必ず彼に再会できると踏んだのだ。彼の影を求めながら駅へと心ははやる。
 やっとの思いで参道の人波をかいくぐり、鳥居を抜けた。
 左右に県道が走り、横断歩道の先には商店街が数百メートルまっすぐのびる。一旦その場に留まって、彼の影を察知しようと、レーダーを張り巡らす。全神経を目に集中させながら潜望鏡せんぼうきょうよろしく、三六〇度グルリと体ごと旋回して見渡してみる。だが、彼の痕跡は認められなかった。既に駅へ向かったに違いない。
 信号が青に変わると私は突進した。最後に彼の姿を認めて、己の感覚では相当の時間が経過したように思われる。商店街の入り口付近に店舗を構えるうどん屋を覗いた。店内の時計を確認すると、幸いにも待ち合わせ時刻まで十数分程度の余裕がある。走れば、じゅうぶん間に合うはずだ。すかさず足は地べたを強く蹴った。
 小柄な体躯にものを言わせ、うまく人込みをかわしながら、商店街を全力疾走で難なく抜け出した。バスケできたえた能力がこんな風に役立つとは思ってもみなかった。すばしっこさは人並み以上なのかもしれない、と意外な我が能力に舌を巻く。
 商店街を抜けてすぐ、また横断歩道がのびる。一層足を速める。しかし、渡ろうとした直前、赤信号に変わったため、左に舵を切る。この通りは交通量はさほどないので、途中、道路を斜めに突っ切って、次の角を右に曲がった。と、有閑ゆうかんマダムの三列横隊に歩道をさえぎられ、一旦足を止められた。仕方なく両手を膝につき、息を整えることにした。
 私鉄の駅舎が正面に見える。ゴールは目の前だ。目測で百メートル強といったところだ。上体を起こして一度深呼吸をして、マダムたちの横を擦り抜けたら、猛然とダッシュした。私は遅筋ちきんより速筋そっきんが勝った短距離走者だ。ものの十数秒で決着はつくだろう。駅舎はグングン近づく。
 トップスピードで駅前広場を通過して、駅の階段を駆け上った。コンコースで隈なく見渡す。彼の姿はどこにもない。迷わず券売機で自宅最寄り駅への切符を購入した。自動改札機に切符を差し入れ、もたついた動作に苛立ちながら、切符が流れてくるまでの長い時間を短い呼吸間隔で待つ。二度ほど荒い呼吸を繰り返しただけで押し出されてきた切符をむしり取り、取り合えず近いほうの階段を駆け上がった。
 高架線のホームの端から端までを渡り歩く。もちろん反対側のホームにも注意を払いながら、目を凝らして彼の姿を求めたが、どちらにも気配すらない。
 急行列車がホームへ進入する音が響く。減速してドアが開くと同時に乗客の塊が押し出され、ホームはイモ洗い状態で、その場に留まり続けている私は激しい人の流れに洗われた。
 列車が発車して人間の塊がホームから消え去ると、寂しい空気が、たったひとり立ち尽くす私の全身にまとわりついた。対岸を私の目は右から左、左から右へと彼の面影を求めてさまよう。列車の迫り来る轟音が耳に届いて間髪入れずに反対側の線路を特急列車は速度を緩めず、烈風を置き去りにして走り去った。
 ホームの時計を確認すると、とうに待ち合わせの時刻は過ぎていた。既に彼はこの空間には存在しないのだ。後悔と絶望の海原で胸は凍りつき、シクシクとうずき出す。
 それでも諦めきれぬ私のまなこは懐かしい面影をさがし続けた。次第に熱い思いがてついた胸をかし、瞳を濡らし始める。
 どれくらいの時間が経っただろうか、反対側のホームに普通列車が侵入し始めた。その光景を呆然と眺めながら、先頭車両が私の目の前を横切る寸前、潤んだ瞳がとらえたのだ。像はゆがんでいたが、まさしく我が愛しの彦星様だ。
 私の体は即座に反応した。階段を落ちるように下り、階段を四つ足動物のように上った。反対側のホームを列車の進行方向へ走った。
 彼の姿は、既に先頭車両のドアに飲み込まれた。発車のベルが耳をつんざき、ドアが閉まる。列車は静かに動き出した。
 彼が乗り込んだドアの前まで来ると、列車の速度に合わせて走る。彼はドアの前に立っていた。すぐに私に気づいて一瞬驚いた目をしたが、満面の笑みで私に視線を送りながら、手を振ってくれた。
 列車に彼とのきずなを引きかれ、最早私の足は追いつけない。次第に彼の姿は視界からせて行く。完全に見えなくなると、膝に両手をついて荒い息遣いが正常に戻るまでその場で彼の幻を見つめ続けた。


第二章・恋の懸け橋

初恋を取り持つ、かけがえのない友。
友情は、石礫いしつぶてのように転がっていた!

 今年も七月七日を迎えた。
 七夕の笹を見上げ、ひとり物思いに耽っていると、背後から耳元目がけてハスキーボイスで『七夕』の合唱が直撃して、私は思わず首を竦めた。右耳を人差し指でほじくりながら顔をしかめ声の方を向くと、細目で訝しげな表情をしたシロフクロウの顔面が間近に迫ってくる。首を後方へ引きながら「バーカ」と一喝して撃退を試みる。
 ヤツは、私の背丈に合わせ身を屈めたままゴリラのようにあとずさってため息交じりに姿勢を正すと、長身に物を言わせ、こちらを見下ろした。
「おぬし、何を願いんしゃったとな?」
 私が今しがた飾った短冊をさがしながら、博多弁もどきでヤツは問いかける。
「ちょっと、やめなさいってば。プライバシーの侵害よ」
「ワシとオメエの仲じゃろが、固いことぬかすな」
 取りつく島無し。
「ヤメテってば! 怒るよ! ホント、『いけ好かねえ』ヤツ」
 私は必死に彼女の腕をつかんで、その場から強引に引き離そうとした。が、彼女は細腕に似合わず、意外と力があり、片腕一本で私の体を自分の方に引き寄せた。
「あった! これだな? フムフム……ホーホー……なーるほど……織姫より。シャレとんしゃるやなかね、己の想いを詩にしたためるなんざ……さすが、文学少女の成れの果てたいねえ」
「ちょっと、声、デカいって! 恥ずかしいでしょう、モー!」
「ナンノ、ナンノ。恥ずかしがらんでもよかとよ。何も取って食おうなんて、これっぽっちも思うとるわけやなかけん。しかし、あんたクサ、やっぱ、あのときの彦星様に未練タラタラやったとやネエ……」
 まじまじと私の顔を覗き込む。
「あんたには関係ないでしょうに!」
 私の顔は火達磨ひだるまのように燃え盛る。
「なんば言いよっとね! あのとき、意気消沈した健気けなげな“乙女”、もとい、“織姫”を慰めてやったとはどこの誰ね? あたしやろうもん! そげな冷たか言い草、グラグラこいたー(通訳:頭にきましたわ)!」

 ──そう……
 あの忘れもしない、十三歳の七月七日。私の初恋が舞い降りてきた日。だが、それもほんの一瞬で消えてしまった。丁度、流れ星が天の川を横切るみたいに。
 あれから、もう六年が過ぎ、私は今年、一九歳になった。女子大の一年生である。
 今日、彼女に誘われて、久しぶりにこの地におもむいたのだ。


 彦星様と引き裂かれたあと、帰途に就こうと上りのホームに移り、ベンチでぼんやりする私に声をかけてきたのは、あの『いけ好かねえ』ヤツだった。
 悲しみに暮れる私に「どうしたの?」と聞いたあと、黙って横に座り続けた。そうして、共に電車に乗り、下車してからも、結局ひと言も口をきかずに別れたのだった。
 ひとり家路を辿る足取りが殊の外重たい。
 後ろ髪を引かれる思いで歩を進めたが、想いは引き裂かれた場所にさまよい続け、自ずと足は止まる。引き返して、もう一度の地点で待ってさえいれば、突然彼が現れ、再会できはしまいか、との妄想に取り憑かれて一歩も進めない。
 胸に巨大な空気の塊でも詰まったように、私の内部から圧迫してくる。喉にまで達した違和感を鎮めようと、一度ゴクリと唾液を飲み込み、胸底深くに落とした。だが、依然かき毟りたくなる疼きに耐えきれず、喉元を掌で押さえつつうめき声を上げる。すると、幾筋ものしずくまなこからこぼれ落ちた。両手で顔を覆い、おさまるまでの時間をその場に縛りつけられたままやり過ごした。
 ようやく涙は枯れはしたものの、悔恨は、双眸そうぼうを暗い地の底へと引きずり込んで光射す方向へは導いてはくれぬ。
 私はしゃくり上げながら項垂うなだれ、置き去りのままの魂をの地から強引に引き連れて家路を辿たどるしかなかった。
 自宅の前まで来たとき、辺りはすっかり夕闇に覆われ、玄関先の灯りが馬鹿で哀れな少女を迎えてくれた。
 玄関のドアの取っ手を握ると、自然とため息が漏れる。
 扉を開け、中に入ったならば、今日のうるわしくも悲しい恋物語は終焉を迎え、味気ない日常が永遠に繰り返されるのか。この扉が夢と現実を分かつ境界なのだ。一旦越えてしまえば、かけがえのない今日は幻と化し、いづれ消失してしまうのだ。そして、想い出はこの先の人生に重くのしかかり、この胸をしきりにむしばんでゆくのかもしれない。
 私は取っ手を握り締めたまま、ためらい続けた。もう一度心躍った瞬間を胸に刻みつけようと思った。目を閉じ、今日の物語を自ら語り始めた。決して忘れぬように彼の面影をまぶたに焼きつけながら。
 そうして長い時間が経過して、誰かが肩に触れた。
 ハッとして、振り返る。
 いっとき顔を見合わせた。そのうちにやっとその人物を認識できた。あの『いけ好かねえ』ヤツだった。
「どうして?」
 私には理解できない。なぜ彼女がノコノコついて来たのか。
 彼女は無言のままこちらを見下ろすばかりだ。そして、クールな目つきで私の肩を一度ポンと己が右手で軽く叩くと、きびすを返して去って行った。
 私は呆気あっけに取られながら、尊い想い出をけがされてしまったようで次第に怒りが込み上げてきた。
 憤慨しつつ扉を開けた私は、一歩を踏み込んだ。中に入ると、後ろ手に扉を閉める。もう完全に今日という夢との決別を果たした。
 あの日、帰宅してからの記憶はない。
 夕食の風景、家族との団らんの一部始終、一切が脳裏から欠落している。
 ただ、悲しみの記憶だけが鮮明に、胸の奥部おうぶに居座り続けていた。
 彼とのひとときに胸を躍らせ、ときめきに揺れた乙女心のやり場を無惨にも見失い、別離の場面が蘇ったとき、シクシクと体のずいうずき出す。喜びと悲しみと怒りの感情が複雑に絡み合い、眠られぬ夜をやり過ごしたのだった。


 翌日登校して腫れぼったい瞼で席に着くと、傍を通った殆どのクラスメイトから声をかけられ、その都度、「大丈夫よ」と返した。
 あの『いけ好かねえ』ヤツはといえば、こちらを遠巻きに、まるで汚れ者でも見る眼差しが、私の心の傷を一層深くえぐり、ご丁寧にも神経を逆撫でしてくれるのだった。
 ──あんなヤツの前に醜態しゅうたいをさらす羽目になるなんて!
 怒りに任せ、罵声の一つでも浴びせかけてやりたい衝動に駆られつつも、寸でのところで心の抑制は効いた。
 『人の不幸は蜜の味』
 今まさに彼女の心境そのものであろう。明々白々だ。
 私は彼女の冷酷な視線から逃れるべく必死にソッポを向きながら平静を装った。
 そうこうしているうちに、彼女との距離が日毎縮まって行くような気がした。気のせいか、と自嘲したが、確実に彼女は接近してくる。どんな魂胆があるかわかり兼ねるが、一週間が過ぎた頃、半径二メートルの範囲にピタリと張りついてこちらの様子をあからさまにうかがっている。鋭い冷血な蛇の視線がこの身に突き刺さり悪寒が走る。
 腹に据えかねた私は、あと少しでも近づこうものなら苦言を呈してやるつもりで身構えながらその瞬間を待ち侘びた。

   *

 その日は月曜日で空は朝からどんよりと雲の威勢に押され、私の気分も重苦しい黒雲にでも全身を巻かれたように明るい場所へは這い出ることは叶わなかった。
 登校して席に着くや否や、わざわざ近寄り、横からこの顔を覗き込んだ。恐らく、人の不幸を面白半分に揶揄からかいのネタにする魂胆なんだ、と疑わなかった。だから平静を装ってポーカーフェイスを決め込んでいた。
 案の定、彼女は無遠慮にも、根掘り葉掘り問いただしてきた。心の傷跡を土足で踏みにじられ、不愉快極まりなかったものの、あまりのしつこさに嫌気がさし、無愛想な態度で事の成り行きを聞かせてやった。
 すると、彼女は深刻な面持ちで、「私に任せて!」と胸を叩いたのだ。
 私はキツネに摘ままれたていで目をしばたたかせながら彼女を見ると、口角を持ち上げ、ニヒルとも皮肉とも挑発ともつかぬ笑みを漏らして私の元を立ち去った。その不気味な表情に私の肌は泡立ってしまう。二の腕を両でさすりつつ彼女の後姿を見送った。


 その週末の早朝、自宅の呼び鈴が鳴った。
 朝食を済ませたばかりの私が玄関のドアを開けると、キリンの首がぬうっとドアの隙間から割り込んで、「支度して。出かけるよ」といきなりけしかけた。
 呆気にとられ目をパチクリしていると、「早くして!」と号令が下ったものだから、体は反射的に従って二人して外出したのだった。
「どこへ行くの?」
「彦星をさがしに」
 咄嗟に足止めを食らった。『いけ好かねえ』背中をしばらく見送る。と、彼女は振り向き様引き返して私の手を取った。私は手を引かれ、強引に連れ去られた。
 お手々つないで横目で彼女をうかがいつつ歩調を合わせていると、突然険しい眼光が放たれた。
「従姉をさがしてみる!」
 有無も言わせぬ迫力で凄む。
 その日、数少ない手がかりを元に私たちは彦星の従姉の家をさがしたのだ。
 同じ中学の同窓生。現在、県立普通科高校(通称:ケンリツ)三年生。この二点以外手がかりはない。
 目的の家を捜索中、彼女は、私の知らぬ間に、「任務を遂行していた」と明かした。
「──任務……?」
 怪訝な顔を向け、殆ど無意識に問いかけた途端、いきなり物凄い険相で詰め寄って来たので思わずのけ反った。
 顔面スレスレで一瞬冷淡な目つきを突き刺して舌打ちすると、視線を逸らしながら呆れ気味に首をゆっくり横に振る。最早こちらからは何も聞けなくなった。が、聞くまでもなく、彼女は自ら事の成り行きを語り始めた。

   *

 『いけ好かねえ』彼女は、三年前の、つまり現在の高校三年生が写った卒業アルバムをクラスメイトから入手すると、それを手がかりに聞き込みを開始していたのだ。入手経路は単純で、その年の卒業生に兄か姉を持つ生徒に当たればいいだけの話。まずクラスメイトにターゲットを絞り、片っ端から調べ上げるつもりでいたが、捜査開始直後、それに関してはすぐに判明したようだ。灯台下暗し。彼女の席から右斜め後ろに視線を滑らせると、まだあどけなさが抜け切らぬクラス一小柄で気弱でひょうきんな人気者。いつも女子にいじくられ可愛がられていたモンチッチ男子を、自らも手玉に取るだけで事足りた。「兄貴が“ケンリツ”の三年生だ」と呆気なく白状して後日アルバムを持参したのだった。因みにこの男子、現在身の丈190[㎝]の巨漢で柔道三段の猛者もさ。大学ではアメフト部で活躍している。モンチッチからゴリラへと人類史上類稀たぐいまれな進化を遂げた。
 まずは独力で任務を遂行していった。卒業生数百人のうち女子生徒のみ、写真と名前を照合しながら、目ぼしい人物を絞ってゆく。我がクラスを皮切りに、全学年全ての教室を回り、“ケンリツ”へ進学した卒業生を特定していった。
 学区内の県立普通科高校といえば最も伝統のある“ケンリツ”以外には思い当たらぬ。他の県立普通科校とは格段の差で、伝統も格式も知名度もずば抜けていて、一番の名門だ。二番手は私立の共学で、“ケンリツ”からあぶれた者の受け皿となっていた。が、ここも中々の名門なので優秀な生徒が毎年集まる。とにかくこの二校の生徒の大半は我が校出身者で占められていた。だから“ケンリツ”と言えば他校を差し置いて、当該県立普通科高校を指す代名詞との暗黙の了解が我が校では罷り通っていた。
 “ケンリツ”に絞っての捜索ゆえ、容易く見つかるのでは、との期待で事に当たったらしいのだが、我が中学からの“ケンリツ”への進学者は学区内随一で毎年七十名ほど。殊の外多い。それが難点だ、と漏らしながら、県内有数の進学校だから、勉強が得意そうな、分別臭さ漂う理屈っぽい優等生的な顔つきで判断したと言う。眼鏡は最大の判断ポイントだとも。彼女の独断と偏見で、それについては異論もないではない。いささか反論したいところだが、もちろんそういう立場ではないことぐらいわきまえていたので、口をつぐんで静観するに留めた。因みに、自分自身についてはどう思うか興味本位で問うてみると、「私はあんな優等生ぶった嫌味な顔はしてないわ」と自信たっぷりに突っぱねられた。誰も身のほどはわからぬものだ、とつくづく思う次第である。
 目ぼしい人物を数人だけ特定するには至ったものの、予想通り、全て在校生の姉であり、しかもこちらの条件に添う者はない。つまり、県外に中一男子と小4女子の従弟妹いとこはいなかった。
「あんたの姉以外の本校卒業生に、現在“ケンリツ”三年生の女子生徒をご存知ないかね?」
 捜査の手を広げようと試みたものの、個人情報を聞き出す作業は困難を極めた。皆、口をそろえて「知らぬ、存ぜぬ」との返答しかなかった、などと彼女は嘆いた。
 そこで彼女は、他力本願に救済を求めた。モンチッチを引き連れて“ケンリツ”へ自ら赴き、“兄貴”を呼び出させた。“兄貴”をも手玉に取る策に打って出たのだ。“兄貴”が校門に現れた途端、眼鏡を外し、上目遣いにて乙女の色香で迫りながら事情を説明すると、二つ返事で快諾し、情報を集めてもらう約束を取りつけた。数日後、モンチッチから極秘資料はまんまと彼女の手に渡る。
 己が美貌に自信を深めたような口振りで語っていた彼女だが、それには疑問が残る。恐らく、弟の変てこなガールフレンドの希望を仕方なく聞いてやっただけ、全て兄弟愛の為せる業に過ぎないのだと私は疑わない。だが、またもや言及は避けた。不機嫌のとばっちりは御免被りたいから。
 七十人ほどの中から三年女子生徒十一人分の『住所、氏名、電話番号』の情報がもたらされた。その内、明確に条件に符合しない者は三人。残り八人を調べ上げればいい。大収穫であろう。早速、片っ端から電話をかけ捲り、条件に符合する人物を特定していった。が、全滅。収穫なし。
 絶望を味わった彼女だが、全くもってめげない。すぐに気を取り直すと、次なる手を模索する。と、担任教師に聞くことを思いつく。教師からの受けが良い彼女だから、担任も無下に拒絶はしなかったようだ。しかして、我が校出身、現在“ケンリツ”三年女子生徒全員、計三十二名の名簿を難なく入手できたのだ。何とも奇跡的だ。「初めからこの手で事を起こすべきであった」と述懐しながら、遠回りしたことに彼女は悔しさを滲ませ、こちらに向くと顔をしかめる。
 名簿を参照しながら十一人を除外した残り二十一人に連絡を取り、名を一人ずつ赤ペンでつぶしてゆく。この作業に、彼女は存外「ワクワクした」と漏らした。いささか興奮気味に語る横顔をそっと覗くと、頬が薄ら紅潮している。彼女の孤独で異様な作業風景を想像するにつけ、私は心の中で「変なヤツ」と呆れつつその精神状態をいぶかったが、表情には決して出さない。私の学習能力はすこぶる高いのだった。
 これで人物特定は百パーセント叶うものと確信したものの、その段階でもまたもや成果はかんばしくはなく、結局連絡の取れなかった七人を残して今日を迎えたのだ。要するに、これからこの七人の自宅訪問との運びとなったわけだ。

   *

 広範囲を徒歩での巡礼なれど、予め地図にて所在地を突き止めておいてくれたので迷うこともないし、すんなり事は解決するに相違ないとお互い高を括っていた。
 最初の四軒は難なくクリアした。条件にそぐわず、サッサと退散。
 残り三軒、彼女は私を引き連れて、エッサッサ、エッサッサと家々を渡り歩いて励んだ。一軒一軒玄関先で家人に問うてみる。「お休みのところ、申し訳ありません」「お忙しいところ、恐縮です」彼女が、馬鹿丁寧にこうべを垂れ、私もつられて彼女にならう。好印象を与えたところを私は肘で小突かれ、すかさず要件を捲し立てる。
「隣県に、中学一年生の男の子と小学四年生の女の子の御兄妹の御親戚はいらっしゃいませんか?」
 予め彼女が用意しておいてくれた定型文を暗唱したに過ぎない。道すがら、スラスラ言えるまで彼女の指導を受けた賜物たまもので、無意識に口を衝いて出た。彼女は、何から何まで抜け目ないのだった。私は彼女の行動力に呆気にとられながら従っただけだ。
 結果は……全滅。彼女の折角の行為も徒労に終わる。
 仕方なく帰途に就くことにして、駅へ向かう。最早一駅たりとも歩きたくはない、との利害の一致を見た。拒否権を発動するに至る。
 重い足を引きずりながら、彼女は渋い顔をした。
「三十二名全滅とは釈然とせん!」
 強い口調で激しく首を横に振る。
「うん……」
 相槌を打つ。
「何か見落としはないか!?」 
「い……いいえ……」
 鋭い目つきで迫る彼女の尋問にたじろいだ。と、彼女は視線を逸らすと、腕を組んでうつむき加減で首を捻りながら黙り込んだ。お互い無言のまま歩を進める。
 私たちは、ヘトヘトに疲れ切った体を電車に引きずり込むと、座席にて事切れ、任務完了。
「全滅とは……まったく……わけ……わかんねえ……?」
 彼女を見ると、また腕組みして考えあぐねた様子で何やらブツクサ独りちていた。
「よくやるわねえ……」
 感心して思わず口を衝いて出た言葉が彼女の逆鱗げきりんに触れる羽目になる。
「信じられん。名前も住所も何にも明かさず別れるとは……普通、自己紹介ぐらいし合うだろうが。トンマ過ぎる!」
 一喝された。
「な、なにもそこまで……何で、あんたが私の恋路に関わり合うのよ」
 恐る恐る顔色をうかがいつつ言い放つ。と、彼女は急に体ごとこちらに向き直り、眉を引きつらせてにらむ。
「悲しむ姿をさらした悲劇のヒロイン気取りのヤツを見捨てられるか? そんな薄情な人間がどこの世界にいる? それが、親友というもんだろうが!」
 かくして、私は『いけ好かねえ』ヤツの親友に仕立て上げられたのである。


 それ以来、彼女は何かと私の些末さまつな事柄にかかずりあっては世話を焼きたがる。鬱陶うっとうしいときもあるが、習慣とは恐ろしいもので、私にとって彼女の存在が次第に日常を席捲せっけんして、彼女が病欠しようものなら、何となくその日が憂鬱ゆううつに過ぎてしまうようになった。
 彼女の友人作りの作法は一種独特なものがある。常軌を逸している、と言っても過言ではない。
 これぞと思った人物にターゲットを絞り、隙を突いて強引に懐柔かいじゅうを試みる。挙句、ヒルのように吸いつき、決して離さない。己の腹の内をも惜しげもなくさらけ出し、結局相手もその純な誠実さにほだされ、逃れられぬ羽目に陥ってしまう。この私もまんまと彼女の術中じゅっちゅうまったというわけだ。
 深くつき合うほど、彼女の人となりのとりこになるのはせんなきことだった。
 その外面とは裏腹に、すこぶる情に厚い。他者と己との分け隔てはなく、同化した振る舞いで痛みすら分かち合い、共に傷つき、泣き、いやそうとしてくれる。それに、つき合った者しか知りようがないが、ひょうきん極まりない。いつもユーモアたっぷりに笑わせてくれる。否、これは天性のもので故意ではない。己ではそんなつもりは毛頭ないのだが、人に向ける真剣さが滑稽こっけいに映ってしまうのだ。
 彼女の存在は一服の清涼剤、要するに一緒にいるとホッとする。全くもって不可思議な『いけ好かねえ』親友だ。
 彼女は陸上部に所属し、短距離とハイジャンプを得意種目としていた。しなやかな腕を優雅に振り、日本人離れした長い美脚で地面を蹴り上げ、よく熟れた果実を上下に揺らしながら疾走する姿は壮観そのもので、大空を駆け巡るペガサスでも目の当たりにしたかのように、息を呑むほどの迫力があった。ひとたび彼女がグラウンドに現れれば、全校生徒はもとより、校長教頭管理職以下全教職員の目はその勇姿に釘づけとなり、誰しもを虜にしてゆく。中学三年間、彼女は己の意志とは関係なく皆を魅了し続けたグラウンドの蝶であった。恐らく女教師などは羨望の眼差しで眺めたに相違あるまいて。
 ひと言だけ声高につけ加えておく。彼女の打ち立てた記録は平凡そのもの、大したことはない。
 ──たぶん、れ過ぎた果実のせいよね?
 原因を分析してみると、余りにも重すぎて重力にあらがえなかったと結論づけた。私見だが。まあ、勉強もスポーツもそつなくこなすところが憎らしくもある。
 二年生になってクラスは別れたものの、お互い相手の部活終了時刻を待って、一緒に下校するとの暗黙の了解が成立していた。どちらかが病欠したときも、もう一方が必ず見舞って無事を確認なぞと儀式めいた行為も慣わしと化し、ゆえに

1年365日×(かけるの)3年
-(引くことの)[“1年生時”7月7日以前の日祭日+(足すことの)盆暮れ正月長期休暇に日祭日]

顔を突き合わさなかった日は一日たりともない。そして、三年生でめでたくもクラスメイトに返り咲く。


 三年に進級して、また七夕祭りの季節が巡ってきた。
 前年は彼女とのスケジュールが合わず、これまで通り、ひとりしてクライマックスまで見届け、すごすごと帰宅した。
 彦星様との再会が叶うのでは、との仄かな期待も結局夢に終わる。
 この年の七月七日は、『いけ好かねえ』親友との固い約束にて、共に本殿を目指した。
 互いに願いを込めた短冊を吊るし終え、彦星と織姫の輿の到着を待つ。
 輿が到着し、中から彦星が降りると、拍手と歓声が沸き上がった。次いであとの輿から織姫が羽衣をたなびかせながら舞うように登壇して彦星の傍まで来て寄り添うと、尚一層のため息交じりの拍手喝采の大嵐が巻き起こった。
 二人は壇上からつどった人々に満面の笑みで応える。
 私は二人の姿に自分と彼を重ねつつ眺めた。胸が締めつけられ思わず涙ぐんでしまった。
 胸に空虚のみを残して、祭りの華やかな余韻は一気に散逸する。祭りのあとには寂寥せきりょうが募り、置き去りにされた気分にとらわれてしまう。
 儀式を見届けた私たちは、駅へ向かった。
 肩を並べて歩いていると、突然彼女が私の行く手に立ち塞がった。私は目を引んむいてそびえ立つその顔を見上げる。
「な、なに?」
 彼女は黙って見下ろすだけ。参道の真ん中で二人はじっと見つめ合った。
 私が声をかけようとした矢先、彼女は突如首を傾げ、唸り出す。いささか驚いた私は一歩右足を引いた。
「何で全滅なんだ! 釈然とせん! 全然せん!」
 いきなりの怒声が参道に響き渡る。
「な、なんなのよ? ビックリするするでしょ!」
「歯車が噛み合わねえ!」
 彼女の目が急に吊り上がった。「なあ、織姫。あのとき、本当に“ケンリツ”だと彦星は言ったのか? 間違いないのか?」
「う、うん……間違いない……と思う」
「だが! しかし! でも! “ケンリツ”にそんな女生徒は存在しなかった。どういうこった?」
「私に……聞かれても……」
 私は視線を落としながら首を少しだけ捻った。
「釈然とせん! モヤモヤする! 気持ち悪い!」
 彼女は胸をかき毟る。「もいっぺん検証してみようや?」
「ど、どうやって? また、名簿の人たちを辿るの?」
 彼女は腕を組んで、またもや「ウンウン」唸り出した。しばらくしてこちらをまじまじと見ながら問いかける。
「あのとき、彦星が何と言ったか、覚えてるか?」
「ええ、たぶん……いいえ、全部頭に入ってる」
「そうか、そんなら話してみな。何かつかめるかもしれん。何か見落としてる気がする。順序立てて、あのとき、彦星と交わした会話を再現してみな」
 彼女は柔和な笑みを頬にたたえ見つめる。しかし、不気味にギラつく眼差しに背筋が一瞬凍りついた。
 これでは仕方あるまい。蛇ににらまれた蛙状態では逆らうことはままならぬ。最早観念して言いなりになるしか策はなさそうだ。
 私は胸に手をあてがいながら、かけがえのない想い出を、彼の面影を、脳裏からそっと抜き出した。彼の声を聞きながら交わした会話を細部まで再現して見せた。

   ***

   ……
「その制服……一中だね? 従姉と同じだ」
「──何年生……ですか?」
「もう、とっくに卒業して、今は高校三年生……公立普通科の……新築の校舎を自慢してたよ」
「あの“ケンリツ”ですか?」
「通称“ケンリツ”で通ってるの?」
「はい。優秀なんですね?」
「そう……なの?」
   ……

   ***

「まあ、こんな感じだったわ」
「んー。なーんか、引っかかるんだなあ。この辺がモヤモヤして……」
 彼女は己の胸をさする。と、肩から斜めにかけたポシェットから手帳とシャープペンを取り出して、「文章に起こしてみる」と言って、今一度の再現を促してきたので従った。
 彼女はメモを見ながら、しばし考えに耽る。突如、眼を見開き、口もあんぐりと開いてこちらを向くと、瞬きを繰り返した。
「な、なに?」
 恐る恐る聞く。
 と、メモを私に見せ、シャープペンである個所を指し示す。
「『……公立普通科の……新築の校舎を自慢してたよ』。この箇所が……どうって言うのよ?」
「彦星は“ケンリツ”とは言ってなーい!」
「──そうだけど……?」
「『あの“ケンリツ”ですか?』。オメエの問いかけに、『通称“ケンリツ”で通ってるの?』と、彦星は問い返した」
「ええ、何か問題ある?」
「オメエ気づかねえのかい? そもそも彦星は公立としか認識してなかった。オメエがご丁寧に『あの“ケンリツ”ですか?』なぞと質問したせいで、彦星も“ケンリツ”と思い込んでしまったんだわさ!」
「えっ! でも、公立の普通科って言ったら……」
「それは、うちの中学だけの常識だろ? 他校の生徒には通用しねえじゃん! ましてや彦星ってえのは県外の人間だぜ……」
「それは……そう……ねえ……?」
「次! オメエの『はい。優秀なんですね?』に対して、彦星は『そう……なの?』と疑問を投げかけてきた。どういうことかわかるか?」
「──どういう……こと?」
「彦星の従姉は、そんじょそこいらの普通の、平凡な、ありふれた、一般的な女子高生ってことだろうが。“ケンリツ”のヤツらなんてほとんどが超エリートづらで『いけ好かねえ』優秀さをこれ見よがしにひけらかしてるぜ」
 彼女は自分のことは棚に上げ、“ケンリツ”の生徒を貶める、偏見に満ち満ちた発言をする。
「じゃあ、“ケンリツ”ってのは……私の思い込みだった……っていうの?」
「そういうこと。それしか考えられねえじゃん、三十二人全滅ということは。まず間違いない!」
「私の……せい?」
「うん」
 彼女は大きく頷く。
「せっかくのあなたの行為を徒労に終わらせたのも、私の早とちりのせいってわけね……ゴメン」
 私は項垂れる。
「落ち込むのはまだ早いぜい」
 彼女は私にメモを見せ指で示した。
「『新築の校舎を自慢してたよ』、これが……?」
「全ての謎を解くカギだ! あの当時、新築されたばかりの校舎がある公立普通科高校ってことだろう? それをさがせばいいだけ、簡単に見つかるはずさ。だから元気出しなって!」
 彼女は自信タップリに胸を張る。
 その態度に私も勇気づけられた。胸に光明が差し始めた。
「ありがとう」
 私はニッコリ彼女に微笑んだ。彼女も大きく頷きながら目を輝かせたまま微笑みを返してくれた。
「よっしゃ! 今度調べてみよう!」
 語気を強めて言うと、ようやく私の肩に長い腕を回しながら彼女は歩き出した。私も彼女の肩に腕を回す。肩を組み、大股で彼女の歩調に合わせ軽快に参道を闊歩かっぽした。


 翌日の放課後、「今日はヤボ用があるから帰るね」と私の後方の席から声をかけると、さっさと彼女は席を離れた。
「体調でも悪いの?」
 その背に向かって問うと、振り向きもせず右手を振って教室から消えた。
 彼女にしては珍しく部活まで休んでのヤボ用とは何か、頭を巡らせても思い当たらない。今日一日、別段変わった様子もなく、体調も優れぬ風でもなかった。
 私はすぐさま追いかける。四階から一階まで一気に階段を駆け下りた。
 丁度、下駄箱前で靴を履き替えたばかりの彼女の左腕を私の右手がつかまえると、上目遣いに目で問いかける。それだけで事足りる。最早言葉など不要。以心伝心、ツーと言えばカーの仲なのだから。
 彼女をとらえた私の右手を彼女の歯が噛んだ。
 その突飛な行為に思わず手を引っ込め、ひるんであとずさる。
「ビックリした!」
「じゃあな」
 彼女はニヒルに笑ってきびすを返すと、私の前から小走りで去って行った。


 翌朝、登校して教室を見渡しても、まだ彼女の姿はなく、一時間目の始業のチャイムが鳴っても現れないので、やはり体調を崩したものと心配していたら前の入り口から国語科の担任教師と共に入って来て、私の席の横を抜けるとき、一瞬だけニヤリとしてまた元の『いけ好かねえ』表情で席に着く。
 私が振り返って目が合うと、今度は顔をしかめた。いな、あれはウインクしたつもりだ。彼女のいつもと変わらぬ態度に一応は胸を撫で下ろす。どうやら病気ではなさそうだ。
 一時間目の国語の授業が終わるや、彼女は前列の男子を無言のまま目で威嚇いかくして、の地を占領した。そしてこちらに微笑みかける。
「今度の日曜日、空けておきな。つき合ってもらうぜい」
 楽しげにそれだけ告げると立ち上がり、小躍りしながら自分の席へと戻って行った。
 全くもって彼女の行動パターンは読み辛い。だが、その態度から推察すると、彼女の身の上に慶事けいじでも舞い降りたに違いあるまい。時折、私は巻き込まれるのだ。いつしか彼女の無邪気な喜びように飲み込まれてしまうと、こちらの心をもほぐされて穏やかな気分になるし、一挙両得な面も否めない。ゆえに、彼女が愉快ならこれ以上の詮索には及ばぬだろう。親交を持った当初こそ、その言動には振り回されたものの今となってはもう慣れっこで、彼女の喜怒哀楽が私の感情をも左右する仲になった。
 忌み嫌っていたそんじょそこいらの汚らしい石ころに過ぎないのに、拾ってはこすり合い、ぶつかり合ううちに、次第に角が取れ、丸みを帯びて滑らかな肌触りに気づく。そうしてかけがえのない宝石へと磨き上げられてゆく。友情なんてどこに転がっているかわからぬものだ。それを察知できるだけの深いふところを心に宿すべく精進を積み重ねなければなるまい、との結論に至った。これが成長というものなんだ。と、近頃では自分に感心するようになった次第だ。


 昨晩の豪雨が嘘のように今朝は晴れ渡った。
 日曜だというのに、私は早起きして身支度を整えると、彼女との待ち合わせ場所へ急いだ。
 十五分ほど歩いて、横断歩道を渡り、左に折れると、右手にスーパーの緑色の建物がある。駐車場を突っ切り、建物沿いを左に行く。ふと、ガラス越しにイートインコーナーに座って紙コップを口に吸いつけながら外をうかがう彼女の姿があった。私を認めると、すかさず手招きをする。
 玄関の自動ドアをくぐり、ペットボトルのアイスコーヒーを購入して彼女の元へ行き、正面に腰かけた。
 喉を潤したあと、目を覗き、視線が合うと同時に瞬きで挨拶を交わす。相手も同じく瞬きの回数を増やしてきた。
 しばらくして紙コップの中身を干上がらせた彼女は立ち上がった。
「そんじゃ、行こうか?」
「どこへ?」
 彼女を追いかけながら聞いた。
「ついて来ればわかる」
 彼女の顔はこの上なく綻んだ。
「とても楽しそうね?」
 彼女は黙って思い出し笑いに耽る一方で自分だけの世界に閉じ籠り、私が何を言っても最早聞く耳を持たず、返答もあやふやにしかしなくなった。
 結局、私たちはひと言も口をきかず、あるアパートの前で立ち止まった。
 彼女は玄関前で深呼吸してからすかさず呼び鈴を押した。こちらを向いて両手で口を覆い、声を上げて笑い出す。何とも気色の悪い、妖怪みたいな風貌だ、とつくづく感心する。
 ──何がそんなに嬉しいのさ?


10

 彼女は憮然ぶぜんとして大股で歩く。そのあとを小走りでついて行く私は大変だ。
 ──まるで、シェパードを追いかけるダックスフント……いや、ハムスターか?

   *

 部活を休んでまでのヤボ用の内容が判明した。“任務遂行”のためだった。
 その日、彦星の従姉が通っていた高校を既に特定し終えた彼女は、確認のため、自ら直接赴いて最後の詰めにかかったのだ。
 学区内の公立普通科高校は“ケンリツ”を除いて六校あった。県立四校に市立二校。その中から当時新築されたばかりの校舎を持つ高校を見つければいい。それについては、校内の聞き込みにて難なく解決した。彼女自身の組織力の賜物である。張り巡らされた人的ネットワークを辿ると、あらゆる方面から情報はもたらされた。各学年の全クラス委員に陸上部員に教職員組合。だが、一早く情報を提供してきたのは、モンチッチ君。脅しをかけておいたのが功を奏したようだ。モンチッチ君はどういうわけか常に彼女の言いなりだ。その献身ぶりは尋常ではない。その理由は私とて納得済みだが、彼女には知る由もない。男心を気づかぬ『いけ好かねえ』鈍感さは困ったものだ。
 てなわけで、県立四校は全て除外され、市立二校に絞られた。条件にピタリと符合したのは、新設校のみであった。
 ここまでがモンチッチ君のお手柄である。私としては、ご褒美に彼女との縁を取り持ってやりたいが、『いけ好かねえ』鈍感なヤツに、それとなく仄めかしてやるだけに留めておくしかあるまい。あとは彼女の気持ち次第というわけだ。
 そして、その年の新入生、つまり、新設校第一期生の中で本校出身の生徒は三人しかいない。そのうち女生徒は一人だけだった。しかも、その女生徒の三年当時の担任が私たちの現担任その人だったのだ。担任との他愛ない世間話でそれとなく真実へ辿り着いた、と彼女は幾分興奮気味に震えながら打ち明けてくれた。早速個人情報の聞き出しにかかりたかったが、そのときは担任のほうに時間がなく、さっさと退室したので止む無く引き下がり、またの機会をうかがいつつ職員室をあとにすると即決し、放課後を待って“任務”を遂行したのだった。
 翌早朝、登校すると人っ子一人いない校内で職員室の前に張りつく。夜討ち朝駆けで担任を訪問した。記者魂よろしく『いけ好かねえ』友情にて担任を待ち、姿を認めるや否や職員室に入ると、すかさず女生徒の個人情報をせがんだ。
「こんな朝早くから……どういう目的なの?」
 少しだけ厚化粧の瞼が激しく瞬きを繰り返す。
「大親友のためなんです。離れ離れになって、所在もわからなくなった者同士を再会させてやりたいんです!」
 彼女は真顔で大きな目を限界まで見開き、威嚇するように視線を突き刺してあらゆる悲しい物語の場面を想像して感情をたかぶらせ、それでもダメだったもんで、担任が視線を外した隙に何度も欠伸を試みてようやく目に薄ら涙を滲ませることに成功した。大袈裟に瞼を拭う仕種に、担任もほだされたようで、さりげなく目頭を押さえたところを見逃しはしなかった。「よっしゃ、落とした!」と内心ほくそ笑むと、まんまと従姉の個人情報を入手し得たのだ。そして、共に一時間目の国語の授業に赴いたというわけだ。

   *

 ──そして、日曜日の今日……
 従姉は既に転居して、所在不明で任務完了。
 私を驚かせ、喜ばせるつもりが、あえなくカウンターパンチを食らって、すごすごとその場から退散する羽目に陥ったのである。
「はじめっから!」
 シェパードが急に立ち止まって牙をむいて吠えた。
「な、なあに……?」
 チョコマカと短い足を苦心して飛び跳ねるようにつき従うだけの小動物は、存在をかき消すように縮こまり、何とか食われまいとやり過ごすしか策はない。
「勘違いなんかしなかったら、あのときにさがし当てていたのは間違いない! 今頃は彦星との再会も果たして、メデタシメデタシだったはずだ!」
 彼女から指摘されるまでもなく、己の早合点を呆れる一方だったが、改めて言明されると、後悔やら悲しいやら、様々な感情の波が押し寄せ、この小さな胸を奥深くまでえぐり出した。
「そうねえ……」
 私は項垂れる。
「悔しい、実に悔しい、悔しくて悔しくて……」
 彼女は両の拳をギュッと握り締め、歯を食いしばる。
 二人はしばらく道の真ん中で一方は激昂して、もう片方はしょげ返って、お互い心のやり場を求めながら向かい合った。
「ゴメン……」
 思わず口元から漏れ出る。恋の懸け橋に徹してくれた彼女の友情を無にした自分が腹立たしかった。
「今日こそは、さがし出せると信じてたのに。彦星が見つかって……再会させてやれると信じていたのに……」
 彼女は突然泣き出した。
 『いけ好かねえ』泣きっつらを見ていたら、胸の奥が切なくて私も涙があふれ、止まらなくなった。
 彼女の長い腕が私の上半身を優しく包み込んだ。私も彼女の体に両腕を回し、二人はしばらく抱擁ほうようしたまま泣きじゃくった。


第三章・もう一度だけ、めぐり逢えたなら……

今度こそ、思いの丈を……

 石礫いしつぶてを互いに無二の宝石へと磨き上げながら、同じ私立女子高へ進み、寮生活が始まった。しかも三年間同室で寝食を共にし、更に親密度が増すと共に、『いけ好かねえ』彼女の新たな側面をも垣間見ることとなる。お互い、悩みを打ち明け合うことはもちろん、何かと支え合い、助け合い、喜びも悲しみも幾年月、苦難も分かち合い、三年間を無事全うして、付属の女子大へとエスカレーター式に進学した。

   *

 二人にとって現在の最大の関心事、同時に悩みの種は男である。
 ──さもありなん。
 女の園でオンナの酸いも甘いも知り尽くしたが、オトコには縁遠く、たぶん、免疫すら備わってはいまい。それは、彼女の男との接し方を見ていれば納得できる。
 七夕の笹を見上げる彼女に視線を向ける。
 長い脚にピタリと張りついた黒いスキニージーンズと黒地に真っ赤なバラ一輪が“スターキング”をたたえるように鮮やかに咲き誇るプリント柄のTシャツで体の線を、本人は無自覚なれどこれ見よがしに強調し、背筋をピンと伸ばし、完熟した果実をツンと突き出してモデル体型を見せつけながら、柳のしなやかさで優雅に歩く姿は、まさしく黒い女豹めひょうだ。時折、長い黒髪をかき上げる仕種も男を挑発するに足る妖艶さを放つのだけれど、男勝りの、竹を割って切り刻み過ぎてしまった性格が災いするのか、却って近寄り難さが漂ってしまうらしい。つまり、そこが男に縁遠い所以ゆえんなのだろう。
 これほどの美貌の持ち主なれど合コンで声をかけられても未だ進展に至ったためしはない。男どもが彼女に魅力を感じぬわけはない。痩身そうしんの肢体に腰当りの蜜蜂のくびれ、陸上競技で鍛え上げたる形良いヒップ、おまけに胸元の二つの“スターキング”は老若男女を問わずウットリさせる。申し分のないプロポーションをこれ見よがしに見せつけられても、誰一人異議を唱える者などいるはずもない。無表情かつ決して口を開かなければ、の条件つきで。何も為さぬなら、そこに静かに咲いてさえいれば、蜜の在りかを求めて蜂が群がるように自ずと男は吸い寄せられる。
 彼女の唯一最大のコンプレックスが180[㎝]近い高身長であること。ほとんどの男を山頂から見下ろす。
 他人ひとには174.9[㎝]との自己申告の身長は、実は177.9[㎝]なのだが、四捨五入して大雑把に180[㎝]と私がつい口走るのを制していつも茶々を入れてくる。血相を変えながら、否定するのだ。それで私が「178[㎝]じゃん」と故意に冷やかしてやると激しく首を振って、「あくまでも177[㎝]台だ」と『.9』にこだわりたがる。3[㎝]以上サバを読むのはどうかと思うが、彼女なりの苦悩は理解してやらねばなるまい。
 ──ま、大目にみてやろう。
 何とかそれを補うべく、身を縮こまらせながら「私ってスンゴク可愛いんだから」アピールが半端じゃない。表情を柔和につくろおうとして却って眉が引きつり、目元がシャープに形作られきつくなる。声音こわねを変え、声帯から猫撫で声を借りてきても低音のハスキーボイスが災いし、一種異様なビブラートがかかり、薄気味悪い震え声になる。まるで、男性が女性の声音を装おっているような錯覚すらする。一層相手を興覚めさせてしまうのだ。しかも、真剣に相手と向き合おうとすればするほど、にらみを利かした目が怖い。はたから見れば、鬼の形相そのものである。これではいつまで経っても彼氏の一人もできはしまい。
 『為せば成る為さねばならぬ何事も』は、彼女には当てはまらない。私は懸念して『為せば去る為さねばきたる男ども』と彼女にいつも助言してやるのだが、全く聞く耳を持たない。彼女ときたら、「いやいや、今に虜にしてみせる」の一点張りで、吊り上がった眉を更に吊り上げ、自信たっぷりにニタニタと笑みを漏らすのみ。
 そんな彼女の隣を、ショートカットでボーイッシュな155[㎝]の小粒な体躯の私が添う。
 体の線をあまり強調したくない私は、白いTシャツの上に水色の薄手の半袖ブラウスを羽織り、風が吹く度、はだけた胸元から幼気いたいけな“アルプス乙女”が恥じらいながら覗く。下はブルーのルーズフィットジーンズに白いスニーカーといういでたちで、彼女の隣をゴムまりの弾力で飛び跳ねながら、常に彼女に手玉に取られ恰好の餌食となる。
 かく言う私も似たり寄ったりの不器用者ときている。しかも、未だにの初恋の彦星様を慕いつつ、亡霊に取り憑かれたまま魂は救いを求めてさまよっている始末だ。いつの日か叶うことを夢見て。ゆえに、今後は突発的な事態に備えて、二人して女磨きに専心すべし、との結論に達した。だが、男抜きで女を磨くのは至難の業なのだ。男あっての女。また逆も然り、なのだと悟るに至る。

   *

 歩んで来た道程に思いを馳せながら、風に揺れる短冊をしみじみと見つめる。
 中学の二年間は、毎年七月七日を待って想い出の場所へ赴き、彼の吐息に見立てた笹を揺らす微風を頬に浴びながら妄想を膨らませ、短冊を一枚一枚確認しては目に焼きついた筆跡を辿って彼の痕跡をさがすのだった。だがついぞ見つけることは叶わなかった。
 高校の三年間は七夕祭りには一度も訪れなかった。部活や学校行事が丁度祭りの期間と重なってしまったのだ。中学三年の時以来だから、かれこれ四年ぶりということになる。
「ハラへった。メシ食いに行こう?」
 感傷に浸りきって佇む私の暴走的妄想をかき乱して、“スターキング”の栽培者が腹をさすりながら顔を覗いてきた。
「色気なんて微塵みじんもないのね」
「本能にはかなわん。今は食い気」
 私の目線の少し下辺りに実った“スターキング”に目は釘づけにされた。思わずため息が漏れ、己が“アルプス乙女”が激しく嫉妬しっとする。 
「かじってやりたいわ!」
「まあまあ、おぬしの“アルプス乙女”とて、かわゆい、かわゆい。味わい深いではないのかえ?」
「どういう意味よ?」
「好みは人それぞれよ。てのひらにスッポリとおさまりのいいのが好きな殿方だってこの世にはさがせばいるわいね」
「何よそれ、馬鹿にして!」
「こういうことだわよん……ウッシッシッ!」
 彼女はニタニタ笑いながら私の背後に回ると、いきなり両の掌で私の健気な“アルプス乙女”を事もあろうか鷲づかみに揉み解す。
「キャー! ヤメテー!」
 悲鳴と共に彼女の掌から“アルプス乙女”は転げ落ちた。私は思わず胸を両で防御する。やはり彼女より小さな己が掌でもスッポリおさまってしまう。泣きたくなるほど切ない。
「ん~、感度良好だな。自信ば持ちんしゃい!」
 私は憮然として舌打ちしながらソッポを向くと、そのまま歩き出す。と、目の前に小学生の男の子が二人、行く手を塞ぐ。こちらを見て笑っている。
「何か……用?」
 私が問いかけると二人は一層声高に笑い、いきなり指を差した。
「お姉ちゃん、かわいそうに」
「何のことよ?」
「“アルプス乙女”のおねえちゃ~ん!」
 二人は顔を見合わせると同時に言い放った。
「ナ、ナニィ! この悪ガキどもが!」
 悪ガキどもは尚も声高にはやし立てる。私はこぶしを振り上げながら威嚇する。と、彼女が両者の間に割り込んだ途端、悪ガキどもの歓声と共に拍手喝采の嵐が巻き起こった。彼女は悪ガキどもの前に仁王立ちで“スターキング”を突き出した。
「どうだ!」
「スッゲー! お見それしやしたー! ハハー!」
 悪ガキどもは深くこうべを垂れひれ伏すと、愉快そうに去って行った。
「“アルプス乙女”、“アルプス乙女”……ヤーイヤーイ!」
 遠くからシュプレヒコールを上げる。
「テメエ、コノヤロー! セクハラで訴えたろかーっ!」
 小学生にまで馬鹿にされるとは腹立たしいやら情けないやら、私は怒りの矛先を“スターキング”に向けた。激しくにらむ。
「まあまあ、そういうお年頃よ。許してやんな、アルプスのかわゆい乙女さんよ、へへへ……」
「あんたまで……バカにして!」
「バカになぞしてませんって。ただ……」
「ただ……何よ?」
「事実は変えられん、というこっちゃ! ワッハッハッ!」
 彼女はあろうことか、私の乙女のプライドをツンツンと突っついた。
「ほっとけや!」
 咄嗟に両で幼気な乙女をかばいながら、私は憤慨してサッサと歩を進める。
 彼女は勝ち誇った顔で、あとからついて来た。


 参道を抜け、大鳥居をくぐってしばらく行くと横断歩道に差しかかった。赤信号で足を止められ、前の若いカップルに目が行った。私服だが、たぶん 高校生だ。まだまだ初々しい二人だ。私たちは思わず顔を見合わせ笑みを交換した。微笑ましい二人に私の妄想が膨らむ。
 ──自分もいつか素敵な人と……
 私は彦星様の面影を浮かべながらじっと二人の背を見つめた。
 ──きっと彼は素敵な男性に成長しているに違いない……
 ──もう一度だけ、めぐり逢えたなら……
 ──今度こそ、思いの丈を……
 私の妄想は激しく胸を揺さ振り続けた。無論、“アルプス乙女”の奥深くだが。
 信号が変わった。
 私たちは同時に一歩を踏み出すとゆっくりと前進した。
 横断歩道の真ん中で男性と擦れ違った。擦れ違い様、一瞬その男性がこちらに顔を向けた気がして、ほとんど反射的に男性の顔を見上げた。と、男性は視線を逸らし、そのまま遠ざかって行った。振り返ってその後姿をチラと見る。
 渡り切った所で立ち止まり、もう一度振り返って目で背を追いかける。鳥居をくぐった男性はすぐに人込みに紛れ、もう見つけることはできない。
 先を行っていた彼女は引き返して私の顔を覗く。
「何でもないの……」
 何か大切なものを忘れたかのように胸辺りがざわめいたが、それを断ち切るようにクルリと回り、足を運ぶ。


 私たちは商店街入り口のうどん屋に入った。丁度昼時とあって込み合う店内でどうにか二人分の席を確保してかけうどんを注文した。
「こげな暑か日に、熱かうどんとは、あんた、なかなかのつうたいねえ」
 彼女は手扇で己の顔を扇ぎながら、博多弁を炸裂させた。
「ねえ、ちょっとお伺いいたしますが……?」
「なんね?」
「この半月、あんたのヘンテコな博多弁、耳について離れんのよ……」
「それで?」
「あんた、博多出身だっけ?」
「うんにゃ」
 彼女は大きく首を横に振る。
「それじゃ、ご両親のどちらかが……?」
「うんにゃ」
「親戚いたっけ?」
「うんにゃ」
「だったら、何で博多弁なのよ?」
「聞きたい?」
「聞きたい」
「聞く?」
「聞く」
 彼女は突如顔をクシャクシャにして両手で覆った。指の隙間から不気味な笑い声が漏れる。
「な、何なのよ、気色悪い……」
「あのね……」
 覆っていた両手で今度はテーブルに頬杖を突くと、顔を紅潮させたニヤケ妖怪が出没した。何とおどろおどろしい風貌なのだ。
 ──百年の恋も冷めるというもんだ……
 彼女は語り出した。

   *

 梅雨真っただ中の六月某日の午後、大学近くのファーストフード店に入って椅子に腰かけ、チーズバーガーをひと口かじったとき、不意に男が声をかけた。
「ここ、いとう?」
「はい」
 何気なく答えて見上げたら、自分より明らかに長身の男性が微笑みかけ、正面に座った。同年代で大学生風の彫の深い顔つきと今の言葉遣いから直感的に九州男児だ、と彼女は決めつけた。
 彼女の胸は高鳴る。頬張った挽肉とパンとチーズの混じり合った塊が喉元をゴクリと落ち、むせ返りそうになる。慌ててコーヒーで胃袋へと導いて事なきを得る。
 彼も腰を下ろすや否や、チーズバーガーにかぶりつく。その野性味あふれる豪快な姿に見とれてしまった。両手でバーガーを握っていたことすら忘れ、体は硬直して最早動けない。
「君も、これ好き?」
 彼女を見てまた微笑むと、自分のバーガーを目線にかざしながら問う。
「好いとう……」
「君の博多弁、可愛いかねえ」
 彼の口から漏れたのは、まさしく博多弁と思い込んだ彼女は、『好きか?』と聞かれ、本来なら『はい』と答えれば済むはずなのに、どういうわけか、それでは不適切な返答に思えて、『好き』という言葉を入れて返すべきと咄嗟に判断した。可愛さを強調するため、身を縮こまらせたせいで、いつもは野太いハスキーボイスも脆弱ぜいじゃくとなり、口先だけに声はこもり、『好きです』が脳ミソから口元に伝わる間に、

 『好き』+『です』
=『好き』+『どす』
=『好きぃ』+『どう』
=『好ぃ』+『どう』
=『好いとう』

といった具合に、「京都弁から博多弁へといつしか変換されてしまったようだ」なぞと、彼女は自らの学説を堂々と唱えた。
 京都とて、彼女には縁もゆかりもない地であるのに、何で“京ことば”が出てくるのよ、と『?』だらけの映像が私の脳内の領域を殆ど占領した。彼女の独創的な思考回路に感心しながら「へえ」と喉元から口先へと漏れ出たが、ただの反射に過ぎない。
 思いがけなく、『可愛い』なぞと称賛されて有頂天となった彼女は、「この人の色に染まろう」なんて健気な前時代的な乙女心から必死に博多弁のお勉強にいそしんだというわけだ。いつか願いが叶うその日のために。

   *

「へえ、そんなことが……。で、その人、どこの学生?」
「わからん」
「名前は?」
「さあ……」
「向かい合って、食事したのよね?」
「うん」
「自己紹介……?」
「してない」
「あんた、バッカじゃない!」
「何で?」
「あんた、いつも私のこと、トンマってけなすくせに、私と同類じゃん! いんや、それ以下、最低! あんた、十三歳の少女か? まるで子供じゃないの! 呆れて物も言えない!」
 このときとばかりに、普段の鬱憤うっぷんを晴らしてやった。
「まあまあ、トキメキ過ぎちゃってさ、なーんも言えんじゃったのよ。この切ない乙女心、わかってちょ」
「わかるか! このトンマ!」
 声を荒げてののしってやる。「それで……その人のことさがしたの?」
「まだ……でも、何度か見かけた。こないだ、擦れ違ったとき、手振ってくれたんで、こっちも振り返した」
「それだけ?」
「それだけ」
「何やってんのさ! ちゃんとつかまえとかなきゃ、すぐに誰かに持ってかれるよ!」
「えっ! どうしよう……」
 彼女の顔に動揺の色が差した。
「よっしゃ、今度、私もつき合ってあげる。見届けてあげるわよ、あんたの恋路を」
 私の好奇心がうずき出した。
「ええーっ! ちょっと恥ずかしい。フラれたらどうしよう。見られたくない」
「へえ、いざとなったら、とんだ臆病風が吹くのね。いつもは自信たっぷりに私の世話焼いてくれてるくせに」
「まあまあ、あれは私の趣味みたいなものだから……」
「趣味……だと?」
「そう。あんたは私を飽きさせないから」
「チェッ! 何て失礼な! やっぱ、あんたって『いけ好かねえ』ヤツだわ」
「おめの言葉、痛み入りたてまつりまする。あんがとさん」
「あーあ、あんたにも、とうとうロマンスの兆候が訪れたんだね?」
「うん」
「まあ、チョットだけ安心したけど……その恋、叶うといいね」
「うん。ウッシッシッ……恥ずかしかー!」
 彼女はまた両手で顔を覆った。耳まで真っ赤だ。
 心からこの恋の成就を祈るばかりだ。
「ところで……モンチッチ君はどうすんの?」
「何で?」
「あんた、いまだに気づいてないの?」
「何を気づくんだ?」
「モンチッチ君の恋心」
「あいつ、恋してんのか! やっと、あいつも誰かに恋する年頃になったか。子供だとばかり思っていたが、大人になったもんだぜまったくよお。応援してやろうじゃねえか、な?」
「彼の六年越しの純情も報われないのか……ご愁傷様」
 私は心の中でそっと両手を合わせてとむらってやった。
 二人の前に丼が置かれると、彼女はワリバシを割ってすすり始める。無邪気な幸福そうな面持ちである。


 丼に顔を突っ込み、ものの数分で啜り上げ、ダシを飲み干した私たちは店をあとにして駅へと向かう。夕方のクライマックスまでにまた落ち合うことにして、お互い一旦自宅に戻ることにした。
 駅への道すがら、異様に胸がざわめいてしようがない。さっき擦れ違った男性の影がチラついてどうしても脳裏から離れてくれない。
「どげんかしたとな?」
 敏感な彼女のセンサーが作動した。
「──さっき、擦れ違った人……」
「男か?」
「うん、白いポロシャツ……ブルージーンズの……」
「それが……?」
「──いいえ、まさか、ありえないわよね……」
 ボソッと口走り、自嘲した。
「何なんだ? じれってえ。ハッキリ言ってみんしゃい!」
 私は彼女の方を向いて「ん~ん~」と唸り出す。しばらくにらめっこして己の疑問をぶちまける。
「違うよね? ただ、あのときのいでたちと同じってだけ……だもの」
「あのとき……って? あのときか?」
「ええ」
「どのときの……あのときなんだ?」
 彼女は素っ頓狂な問いかけをたまにする。
「だから、中一の七月七日の……」
「ああ、名前も素性も知らぬ男に恋焦がれたトンマな女の子が泣いた、あのときか!」
「また、バカにする!」
「は~ん、なーるほど。あのときの彦星様かも、ってか? 男に飢えた妄想処女の願望というわけか……フムフム」
「ヴァージンなのはお互い様でしょうに! 彼氏に寄り添って夜景でも眺める……な~んてロマンティックな経験もないくせに、バーカ!」
 彼女の二の腕に軽くパンチを食らわしながらののしる。
「知らぬは織姫ばかりなり……ウッシッシッ」
 彼女は得意げに言い放った。
「あんた、まさか……いつ!?」
 いやいや、そんなはずはない。コイツの所業は全てお見通しだ。男と二人っきりで会うなんてあり得ない。そんな状況に陥った途端、「どうしよう、助けて」と泣きついてくるのが落ちだ。彼女の性格を骨の髄まで知り尽くした私が言うのだから間違いあろうはずはない。親友に仕立て上げられ早六年、そのうち三年間、伊達や酔狂で同じ屋根の下で苦楽を共にしたわけではないのだ。
 ──ハッタリ言いやがって!
 私はしつこく視線を突き刺して「フンッ!」と鼻先であしらってやる。と、観念したらしく、天を仰いで大きく息を吸い込み、豪快に「あー!」と雄叫びを上げる。こちらに向き直り、ヘラヘラ笑いかけてくる。
「あのときの彦星様……とな?」
「へへへ……ちょっぴり……じゃないかって。違うよね」
 私は肩をすくめる。
 ──そんなことあり得ない。
 ──会いたいと思う気持ちが、期待を生んだだけだ。
 自分に言い聞かせながら、思いを断ち切るように大股で歩を進めた。
 彼女の口から言葉が途切れた。だんまりを決め込んで私の横を渋い表情でついて来る。
 急に首根っこをつかまれた。私の体は巨大な力に抗えず180度方向転換を余儀なくされた。
「直感をバカにするもんじゃなかよ!」
 しげしげと彼女の顔を見上げると、物凄い形相の鬼が現れた。私をにらむ血走ったお目々が背筋に悪寒を走らせる。
「な、なに!」
「引き返すぞ!」
「どこに?」
の地へ!」
 依然首根っこを押さえられ、私の体は否応なく彼女の意のままに操られた。
「いいよ。そこまでしなくても……」
「バッカヤロー! オメエにとって、今日が一世一代の晴れ舞台かもしれんのじゃ! 今を逃したら、オメエには一生訪れねえかもしれんだろうが!」
 有無も言わさぬ迫力で私は引きずられた。
「わ、わかったわよ……は、離して! 痛いってば!」
 ようやく魔手は外され、私は首をさすりながら素直に従った。


 相変わらずむせ返りそうな人込みをかいくぐるように足を運んだ。途中、注意深くあの男性の気配を探りながら進んだが、結局見つけることは叶わなかった。そうしてようやく目的地に辿り着いた。
 二人して短冊を結わえつけた笹の前に佇む。
 彼女は肩から斜めにかけたポシェットに右手をしのばせると、眼鏡を取り出してかけた。ギリシャ彫刻を彷彿ほうふつとさせるほりの深い横顔を覗くと、高い鼻梁びりょうにのった赤いボストンタイプのフレームがよく似合っている。知的でやわらかい表情を演出する。
「カワイイよ」
 不意に出た言葉に、彼女は笑みをこぼし、両手で口を覆って照れながら頬を赤らめる。容姿のみならず内面からほとばしる人間性に、私は目を奪われ、心から美しいと思った。
 考えることは同じだった。早速短冊を一枚ずつ確認していった。
 可笑おかしなことに、彼女の切実な恋の願望が綴られた短冊は高みからこちらを見下ろしつつ舞っていた。が、私の短冊だけがどうしても見つからない。風に飛ばされ、どこかに飛んで行ったなんてあり得ない。しっかりと結びつけたから。
 もう一度、全ての短冊を確かめてみる。と、風が吹いて笹を揺らした。目線の短冊がヒラヒラとひるがえる。ぼんやりと視線を固定して眺めていると、何となく心かれて手に取った。
 つづられた文字をまなこが辿る。
 全身が膠着こうちゃくして息が止まった。しばらくしたら体が急に震え出す。短冊を見つめた目の焦点が合わず、意識が遠退きそうな感覚に襲われた。


第四章・天の川流るる果てに

織姫と彦星の前に立ちはだかる
天の川の流れ……

「返歌よ!」
 彼女が悲鳴のように叫んだ。
 私は、想いを詩に託し、短冊にしたためたていたのだ。これは、まさしくそれに対する“返歌”であった。
 誰かが私の頬を軽くはたいた。我に返った私は、彼女のほうを向いた。と、彼女は突然、嗚咽した。そして、私を抱きしめる。
「さあ、急いで!」
 彼女は短冊を笹から外すと、私の手に握らせてくれた。
 私はまだ震えが止まらない。彼女は顔をクシャクシャにしながら、そんな私の尻を思いっ切り引っぱたいてくれた。
「うん、行くよ!」
 全てを悟った私は大きく深呼吸をした。
 もう一度彼女の友情のむちが私の臀部を叱咤激励した。その反射で私の動物的神経は目覚める。
「行けー!」
 温かな号令に押し出され、私の足は大地を蹴っ飛ばした。


 人波をかき分けて太腿が高々と上がり、脚は激しく回転して次第に加速していった。だが、その場に永遠に縛りつけられた錯覚に襲われ、気持ちだけがいて足元はもつれそうになる。
 からまりかけた脚を立て直しつつ、やっとの思いで駅に到着すると切符を買った。改札を抜け、下りホームへの階段を駆け上る。中ほどまで来ると、突如、下車した乗客が滝となって流れ落ちる。その流れをかわしながら階段を上り詰め、ホームに立った。
 丁度列車がホームを離れるところだった。
 列車を見送ったあと、私はホームを隈なく見渡した。今の列車に乗客は飲み込まれ、ホームには次の列車を待つ人がまばらにいるだけだ。
 しばらく視線をさまよわせると、ちらほらと人影は増え始める。が、それらしき人物は認められない。反対側のホームに目をやる。しかし、上り列車を待つ乗客はさほどなく、結果は同じだ。
 上り列車がホームに進入し、きしみながら止まった。車内の人影が次第に薄くなってゆく。ほどなくして列車が走り去ると、今吐き出されたばかりの乗客の塊が階段のほうへなだれ込み、階下へと吸い込まれ、ホームから人影は全て消えた。再び構内に静寂が蘇った。
 私はその光景をぼんやりと眺めた。
 アナウンスが下り列車の到着を告げる。私はホームの後方へ下がり、やり過ごす。と、間もなく普通列車が止まって、乗降客の入れ替えを済ませると、寂しげな気配だけを残して去って行った。
 私はため息交じりに、ふと反対側の上りホームに視線を滑らせた。
 誰かをさがしてキョロキョロと構内を見渡す男性の姿に目は釘づけになる。
 純白のポロシャツから二の腕の筋肉が生命力豊かにヒクヒクと脈動を繰り返す。左手が髪をかき上げた一瞬を私の目は見逃さなかった。記憶に残る面影は、あの日のままの少年をとらえたのだ。
 私の足は前方へ押し出され、その人を追いかける。
 彼の顔がこちらに向いたとき、彼の動きも静止した。
 ようやく二人は向かい合う。
 上りと下りの特急列車が同時にホームを通過し、烈風を巻き起こした。まるで二人の前に立ちはだかる天の川の流れだ。だが、最早出会ってしまった二人のえにしを断ち切ることはできない。
 私は彼を見つめる。
 彼も私を見つめた。
 初恋の記憶を胸底から呼び覚まし、永遠に確かな歓喜の流れへと導く儀式のように。
 私のたぎる想いが右手を高々と天に掲げた。
 対岸の彼も私にならってその右手を掲げてくれる。握られた短冊が微かに揺れた。
 天の川流るる果てに、ようやく二人は再会を果たした。
 今、この瞬間、私たちの間に再びそれぞれの流れは合流して、未来へと動き出したのだった。


七夕の奇跡──あなたにとどけ


いつか いつか 逢えますか
いつも いつも 想いだす
わたしを映したあなたの瞳
わたしのことはもう忘れたの
ゼッタイ ゼッタイ 忘れません
だって 「好き」だと言ってくれたもの
でもわたし うつむいていた
今でも胸が苦しくなるの
だから だから 応えてほしい
いつか いつか 逢えますか

                織姫より


いつか いつか めぐり逢う
いつも いつも 夢見てた
ぼくを見つめた潤んだ瞳
君の面影いつまでも
ゼッタイ ゼッタイ 忘れません
だって ぼくの初恋だもの
でもあの日 君を見失い
今でも切なく疼く胸
だから だから 待っててほしい
いつか いつか 添う日まで

                彦星より

【第二話】〈了〉

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