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哲学が必要な人、そうでない人、どちらでもない人

池田晶子さんの本を久しぶりに読んだ。ああ、この人はなんと「考える人」なんだろう。本物の哲学者だ、と思う。

哲学者というのは、問うことが根源的に必要な人だ。世界とか、意識とか、存在とかについて、「一体何なんだ?」と疑問を持ってしまう人々が、この世には存在する。彼らにとってそれは切実な問題で、考えずに生きていくことなど不可能なのだ。

一方で、多数の人にとっては、そういった問いは無意味なものか、余暇の娯楽に過ぎない。そもそもそんな問いを思いついたことがない人。ちらっと不思議に思ったことがあっても、それを忘れて生きてゆくことができる人。哲学書を読んでみたりして、まあいっちょ考えてみるか、でも何言ってるかよくわからないなー、と本を開いている間だけ考えてみる人。

哲学をしない人が低俗だとか言いたいのでは決してない。むしろ、「これって現実なのかな? 夢じゃないってどうして言えるんだろう?」と四六時中考えている人よりは、「今日の晩ごはんは何にしようかなー」と考えている人の方が、普通の意味では幸せだろう。でも哲学する人は、問わずにはいられないのだ。

私は自分を、哲学する側の人間だと思って生きてきた。少なくとも大学の哲学科に入学するまではそう思っていた。「自分ってなんだろう」と考える小学生であり、「哲学ってものがあるのか、かっこいいな」と思う中学生であり、「正義ってなんだろう」と考える高校生であった。だから哲学科に入ったのだ。
だが、大学に入ると、教授や大学院生の先輩たちが何となく自分とは違う人種であることに気づいた。彼らは生活の中心が哲学で、会話もすべて、どこか哲学的なのだ。飲み会での同級生の悪口でさえ、何だかかっこよく聞こえた。そんなジョークで笑い合う先輩たちが洒落ているように見えた。
「かっこいい悪口ってどんなだよ」と思うかもしれないが、すっかり忘れた。そしてこのことこそ、私がそちら側の人間でないことを如実に示しているのだと思う。「なんかかっこいいなあ」と感じるだけで、本質には踏み込んでいないから、理解していないから忘れるのだ。

「かっこいいなあ」とか言っている時点で、哲学の表層しか見ていないのだ。みんなにはわからない難しいこと、抽象的なことを考えている自分が好きなだけなのだ。

哲学的な問いがまったく自分の中にないかと言ったら、それも違うと思う。ふと世界の果てしなさに悲しくなったり、自分が今ここに存在していること、そして同じように自分を生きている他者と接していることが怖くなったり、そういうときもある。
だがそんな気持ちを忘れて、家族の食事と子どものトイレトレーニングと、溜まった家事のことしか考えずに終わる1日もある。哲学が人生の中心になっているとはお世辞にも言えない生活だ。

たぶん私はどっちつかずなのだ。あるいは、哲学する人でなくともこれくらいのことは考えるとしたら、ただの普通の人なのだ。
自分が特別な選ばれた人間であると、信じて疑わなかった幼いころの気持ちも、歳を経るごとに薄れてきた。むしろ天才は天才で大変そうだし、私は凡人で幸せだなーと思うことも多い。
哲学する人の気持ちもしない人の気持ちも両方わかる、どっちつかずの自分だからこそできることはないかと模索する日々である。


ちなみに今読んでいるのは池田晶子さんの『考える人 口伝西洋哲学史』という本です。哲学史は少し勉強したけれど、何を言っているのかさっぱりわからなかった私のような人にはおすすめです。各哲学者の思想の本質を、哲学せずにはいられない人・池田さん自身の問いに引き寄せて解説してくれています。


哲学史には興味がないけれど哲学の問いを考えてみたい人には、『14歳からの哲学』が平易な言葉づかいで読みやすいので(14歳をとうに過ぎた大人にも)おすすめです。



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