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母の愛欲しさに嘘ばかりついた子供【自分語りと読書メモ】

小説を読んでいて、ふと昔のことを思い出した。

三十歳を過ぎ、妻子を持った男性が、ある日突然姿をくらました。その母親が、彼の好物であったチキンカレーを作りながら回想に耽っている場面。
思い出していたのは、行方不明になった年の元旦のこと。「何か食べたいものはある?」と問うと、「母さんのチキンカレーが食べたい」と即答した息子。彼女は彼の態度にあきれつつも納得し、内心でにんまりした。

小説「あの日、君は何をした」(まさきとしか)P152~153要約

私もそうだったと、息子の方に自分を投影する。

小学2年の頃に両親が離婚。3,4年生は母子家庭で母と弟と団地で3人暮らし。保険営業の仕事をしていた母は、仕事以外でもコンパ等で家を空けることが多かった。私と弟が学校から帰ってきても、居ないか寝ているかのどちらかであることが多かった。

料理好きだった母は、離婚前にはお菓子を作ってくれることもよくあった。けれど生活が変わってからは、何を作ってもらったかほとんど覚えていない。母子家庭の頃の食事で思い出せるのは、冷凍のミックスベジタブルが入ったおじや(雑炊)と、たまにしゃぶしゃぶと、あとはケース買いしてあったカップ麺、インスタントラーメン。チューイングキャンディーも箱買いしてあって、小腹が空いたらそれを食べていた。

5年生で再婚した後は新しい父親もいたし、手作りのご飯を食べるのが普通になっていった。唐揚げ、ビーフシチュー、おでん、グラタン。美味しいと思う料理がよく食卓に並んだ。

新しくできた妹と弟が生まれる前だったか後だったか。

学校ではとにかく大人しく、休み時間は首が痛くなるほど俯いて本を読んでいる暗い生徒だった。部活でも浮いていた。

けれど、家では、新しい家族とうまくやらなくてはならず、無理して明るく振舞うことが多くなった。

特に夕食の席で、私と弟は、向かいに座った父親に”話しかけなければ”叱られた。それも、「で?」「だから何?」と突っ込まれるような話題ではだめで、盛り上がるようなことを話しかけなければいけなかった。

プレステのテトリスのゲームを買い与えてもらったときも、大げさなくらいひょうきんな態度で、わざと負けたりふざけて見せ、両親の顔色を伺った。

義父の機嫌を損ねたら、それは家に居場所がなくなることを意味していた。何かを買ってもらったときお礼を言わなかったからだったか、理由ももう忘れたけれど、義父を怒らせたとき、母から叩かれたこともあった。

だから、本当の気持ちがどうであろうと、家の外ではどんな自分であろうと、両親の前では子供らしく無邪気に、馬鹿っぽく見えるくらい明るく振る舞う必要があった。それは祖父母の前でもそうだった。そうでないと、がっかりされると思ってもいたから。

子供っぽさというのは、感情表現が大げさだったり、好き嫌いがはっきりしていて単純。ときどきわざとマナーを破る。

母親が唐揚げを作れば、夕食の前につまみ食いをしたり、グラタンやビーフシチューが出てきたときは大喜びして見せた。

「ペコちゃんが可愛い」と何気なく言ったことで、後日、母親がコンビニの一番くじでペコちゃんグッズを大量に持ち帰ってきたときにも、これ以上ないくらい嬉しそうにして見せた。

手作りのご飯が食べられることを始め、それらは母が”私や弟を喜ばせるためにしてくれたこと”だと思えば、嬉しいことには変わりなかった。

だけど、本当の気持ち以上にそれを大きく表現しなければ満足させられないことがわかっていたから、嬉しいと同時に息が詰まった。

ペコちゃんも、別にそんなに好きじゃなかった。でも、私が嬉しそうにすれば母は喜んでいたから、ペコちゃんに限らず、食品サンプルのおもちゃとか、母のセンスで選んだ洋服とか、そういった「あなたのためにしたんだよ」を受け取ったら、期待通りの反応を心掛けていた。

高校卒業と同時に家を出て、生まれた町を後にして一人暮らしを始めた。大学生活はとにかく自由を満喫した。今までと違う自分を受け入れてもらえることが嬉しかった。

私が大学に通っている間も、実家ではいろんなごたごたがあって、たびたび母から連絡を受けて、私も一緒に頭を悩ませていた。

本当に悩んでいたつもりだけど、もしかしたらそれすらも、「長女なんだから、そうあるべき」という思考にがんじがらめになっていただけで、そう振舞う自分が「母から愛される子供」だと酔っていたのかもしれない。

社会人になってからも、家族のことでは色々あった。

色々ありすぎて、誰かに家族のことを聞かれたら、

「うちの家族は波乱万丈なのでw」
「なんだかんだで今はこんな感じで~」

としか、答えようがないくらい。

自分にとって家族は、厄介な他人でしかないと感じることの方が、今は多い。

「親が嫌いだ」と口にするたびに、

「薄情者」
「育ててくれたことに感謝しろ」
「いつまで反抗するのか」
「早く大人になれ」
「誰のおかげで大学に行けたと思っている」

そんな言葉を、実際にかけられたこともあるし、そうでなくても頭の中で響き渡る。

家族とは、無償の愛で固く結ばれ、互いに愛し合い、支え合う、誰よりも分かり合える存在。いつ帰っても、あたたかく迎え入れてくれる存在で、悩んだときは黙って抱きしめてくれる。世界を敵に回しても、最後まで味方をしてくれる存在。

家族のあるべきイメージ

そんな風に思っている人、描かれる作品が多いと思う。

そう思えないのは、私が人間として欠陥があるから。

そんなストレートな言い方をされたことはないけど、多分そうなんだと、周りの反応を見ていつも感じてきた。

話がだいぶ脱線してしまった。

この小説の母目線で語られるその場面を読んで、自分の子供時代を思い出した。

たとえ血のつながりがあって、ある一定期間、ひとつ屋根の下で生活をともにしていたとしても、何もかも分かり合えているわけじゃない。

父だから母だからと言って、子の好きなもの嫌いなもの、思考回路や趣味嗜好、その”本性”がわかるわけじゃない。

生きてきた時間も経験も少ない子供が、親の目、耳、心を欺くことは不可能じゃない。

突然行方不明になった息子の心境も、そこに至った理由も、息子夫婦の関係性も、何ひとつ分からなくて困惑するだけの母親が、回想に耽りながら、「息子の好物の特製チキンカレー」を作る場面。

母親の歪んだ愛情に吐き気がした。

本当に、彼はそれが好きなんだろうか。

元旦に帰省した際、本当にチキンカレーが食べたかったのか。

その母親は、本当に息子を愛していたんだろうか。

私は、親子の嘘がめくれる物語が好きだ。
まるで、団地の日陰にある大きい石を裏返したら、隠れていたダンゴ虫の大群がうじゃうじゃ這い出す光景を観察するかのような気分になる。
それは、人によっては、気持ち悪い、怖い、不愉快、信じられない、悪趣味だと遠ざけたくなる類のものかもしれない。だけど、私にとっては、無償の愛で固く結ばれた理想の家族像の方こそ嘘っぽい。嘘や愛憎にまみれた家族の方が、ずっと現実味を感じられる。真実であると思える。

嘘なら嫌というほどついてきた。

だからせめて、本や映画にはできるだけ真実に近いものを求めたい。

もちろん、美しい家族愛、兄弟愛を描いた作品を否定するわけじゃない。
映画『ダンサー・イン・ザ・ダーク』『ライフ・イズ・ビューティフル』、アニメ『クレヨンしんちゃん』『ドラえもん』も大好きな作品だ。

不気味の谷っていうものがあるように、私の中で、家族愛の描かれ方にも、真実の谷が存在するのかもと思う・・・。

ここまでは信じられるが、これ以上は嘘っぽくて気持ち悪い。でもそれをさらに超越すれば「作りもの」として割り切れる、というように。

この小説は章ごとに様々な登場人物の視点に変わり、それまで他者の目というヴェールに覆われていた嘘やきれいごとが全部丸裸になる。だからまるで、読者である自分に彼らの人格が乗り移ったようになって、その言動や思考がよく理解できるようになる。

家族の闇を覗き見している気分になれる小説。面白い。

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