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「悲しみ」を抱きしめる

自分の悲しみを他の誰かの悲しみと比較したことはあるだろうか。

私は6歳で父を失った時、「ひとり親世帯」にはなったものの、当時祖父は事業を営んでいたため生活には困らずに暮らしていくことができた。

そのため私が父の死で精神的な苦労は多少あっても、物理的な苦労を感じたことは特になく、子ども時代を送ることができたものの、そのことが私にとっての罪悪感にもなっていった。

ひとり親になった人たちは悲しいだけではなくきっと物理的な苦労もしている中で、私は自分が生活に困ることなく生活できていている。

そんな自分が悲しんだりするなんて贅沢だと思ってしまった。

父を亡くしたあと、テレビなどで災害や事件などの被害の話を見聞きするたびに

こんなに苦しい、辛い、悲しい思いをしている人たちがいるのに、私が自分の父親一人を亡くしたくらいのことで悲しむなんて贅沢だと思って、自分の悲しみを誰かのそれと比べては私は自分の悲しみに居場所を与えてこなかった。

後に自分の父が自死だと知った時も、他の人たちよりも苦労していない自分が、自死遺族だと声をあげて悲しむことはいけないことのような気がしたのだ。

けれど、物質的に不自由のない生活を送っていたら悲しんではいけないなどという理由はどこにあるのだろう?

隣の人の悲しみと、自分の悲しみに優劣をつけることなんて本当にできるのだろうか?

答えはNOだ。

どんな人でも、自分の中にある悲しみを大切にする権利を持っているし、悲しみは数値化して誰かと比較することは決してできない。

たとえ周りから見たらどれだけ些細なことのように思えても、本人にとってそれが深い悲しみなのであれば、それが事実なのだ。

どんな悲しみであってもそれは、本人が感じるままに大切にされるべきなのだと思う。

たとえ他人がそれを大切に扱ってくれなかったとしても、悲しみを感じている本人だけでも、大切に扱ってあげなければいけない。

それは、その人の心から湧き上がった大切な気持ちなのだから。

私はそれに気づくのに、随分と時間がかかってしまった。
けれども気づいてからは、悲しみに蓋をするのはやめよう、と思えるようになった。

正確に言えば、誰かの悲しみを大切にしたいと思った時に、私が自分の悲しみを大切にしなければ、それは本当の寄り添いには至らないと思ったのだ。

けれど、長年自分の悲しみを抑圧してきた私にとって、悲しむことを自分に許すことは簡単なことではない。

今でも、泣こうとすると感情にストッパーがかかったりしてしまう時がある。

けれど、自分の悲しみも、誰かの悲しみも、決して比べることのできない大切な、大切なものだ。

ストッパーがかかってしまう自分も認めながら、自分の中に深く埋もれている悲しみを少しずつ受け止める作業を私は「書く」や「歌う」行為を通して今も行なっているのだと思う。

もしこれを読んでくれている人も、何か悲しみを抱えているのであれば、それがどんな小さなことであれ、自分が感じたその悲しみを大切にしてほしい。

誰かの悲しみと比較なんてしなくていい。
悲しむ事に引け目を感じたりしないでほしい。

私は今、少しずつ悲しみと手を繋いで生き始めていることを感じている。私の人生の足を引っ張っていた悲しみが、私の人生を支えてくれているように感じられる。

「悲しみ」は私という人格を確かに形作ってきた重要な一部で、乗り越えるものでもなければ、克服するものでもない。

悲しみは絶望ではないのだ。
悲しみながらも私たちは希望を抱いて、笑顔と共に生きていくことができる。

だからこれからも、少しずつ、自分の悲しみを表現していくことを通して、
それが誰かの悲しみの居場所になればいいなと、ささやかな願いを抱きながら、

今日も私は自分の悲しみを抱きしめる。

山口春奈

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