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引用についての覚書。

と冠するほどのものでもないのですが(恐縮です)。
noteの「控え」として「はてなブログ」を運営しようと準備中です。情報を探っていて、下記の記事を見つけました。

歌詞引用に関しては「どこまでが引用の範囲内とみなされるのか」を考えなくてはならないでしょう。JASRACの見解は以下のようなものです。

私は一度「英語の歌詞を和訳し、その魅力を記事にする」ことを考えたのですが、歌詞の引用を逸脱した範囲を記述することになりそうなので、記事作成を断念しました。

引用の定義とはなにか。それが第一義かな、と考え(文芸時代に一応のことは学んだのですが)改めて調べてみました。

著作権法第32条を確認することが大切だと考えています。私は「自分の考え=論考 を進める際に、参考とする『発表済みの著作物』から一部の記述を『引用』し、文章の内容を深めていきます。その際には引用部分と自分の記述との区分を明確にすることが重要です(引用記号や太文字記載など)。
そして、それが著作権法に違反しないか考え、拙稿を『ボツにするか否か』(苦笑)決めるのですが……
…….。ここまで書いてきて思ったのですが。今回の記事、「読むのも面倒くさい(汗)」内容になってきました。お目汚しをお詫びしつつ、分かりやすい解説を見つけましたので以下に貼ります。

上記は“報道”と記述されていますが、それ以外にも適応できる内容だと思います。平明で分かりやすい解説だと思い、リンクしてみました。

情報を整理します。
「何の目的で引用をするのか」が全てなのですよね。
「記事を作る為の手段」ではなく、自分の考えを「裏打ちしたり深めたり」するために、優れた記述を「参考にする」。記述の主体は「自分の文章」であり、「引用は付帯する一部分」として「地の文章との区分を明確にする」。
……うーん。やはり今回の拙文は鬱陶しい内容だなぁ(苦笑)。整理されぬ雑文、どうかお許しくださいませ。
論文などで行われることが多い引用について「話言葉で書く」のは、文章を本格的に学びはじめて30年が経とうとする今でも本当に難しいです。
簡単なものほど難しく、ごまかしが効かない。そう思いつつ、ネットでの文章を綴っているつもりです。

著作権。把握している方々には「釈迦に説法」でお恥ずかしい次第の今回記事ですが。もしご存じない(もしくは意識したことのない)方がおられましたら。ご自身の「文章・記事」も「大切な著作物」なのです。「自分の権利を守る」ためにも、一度調べてみるのもよいのでは、と思うのです。
残念であり悲しいことですが、盗作という行為は、ネットでは(Copy&Paste等によって)簡単に行えることなので。
幸いにも、noteのエディタ機能には「引用」メニューがあり、引用部分を視覚的に記述できます。その機能を試す意味合いをもって、既発表(同人誌)の拙稿を引用してみます。
著者本人が自分の著作物を引用するわけですから、著作権侵害もなにもないのですが(笑)ひとつの例として。次稿への練習でもあります。

(柿本)人麻呂は都から遠く離れた地で没したという。
   鴨川の岩根し枕(ま)けるわれをかも
   知らねと妹(いも)が待ちつつあらむ
            
柿本人麻呂 万葉集・巻二223

辞世の歌ともいわれる一首の中で「待っているだろう」と呼びかけられた妻はこう答える。   
今日(けふ)今日(けふ)とわが待つ君は  
石川の貝に交(ま)じりてありといはずやも
            
巻二224

妻が自分にこう詠(うた)いかけることを、先の一連の歌を詠(よ)んだときすでに人麻呂は見通していたのだろうか。傍らに痛みを分かつ者のない末路を向こう側に置き、歌の世界で彼の目はいまも切線(せっせん)に注がれたままである。

果てに向かって 人麻呂という「眼差し」/ 文芸同人誌『弓弦』12号 1999.08

引用まで??な文章で恐縮です。柿本人麻呂、その人の視線の先を追ってみた論考より末尾を抜粋してみました。引用内にも人麻呂の和歌、その引用があります。参考までに。
それでは。ここまでおつきあいいただき、ありがとうございました。

拙稿をお心のどこかに置いて頂ければ、これ以上の喜びはありません。ありがとうございます。