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「理解」と「思い込み」の差。

コミックス『イティハーサ』を基にして。
「重め」、ネット風に言えば「ダウナー」的かもしれません。
水樹和佳子さんのホームページをリンクします。イティの情報が載っていますので、ご参考までに。

『イティ』の台詞に、次のような台詞があります。



「おまえに人を哀しむ資格などない~(中略) おまえは、おまえ以外の人間に共鳴して人である哀しみを自分のものとしているだけだ」

『イティハーサ』3(水樹和佳子・著 / 早川書房)
P434 より抜粋


(文脈を少し違えた受け取り方ですが)ドキリ、としました、最初に触れた時に。私こそがそのまま、そんな存在、有様ではないかと、己が内側を暴かれた思いに囚われたのを、よく覚えています。思うに、作者・水樹和佳子さんはこの言葉をご自身に突き付けているのでしょう。

偽善と偽悪を秤にかけるなら、どちらがたちの悪いものなのか。
考えても詮なきこと、「使い方」を模索するしか術はなく。
文章の極意もまた然り。

「何を書くかは大事だが、「どう」書くかは、より重い」。

わかれども、同じ愚かさと過ちに幾度も戻る。
人の質とは、そんなものなのかもしれません。

とある拙稿で、私はあるキャラクターにこんな台詞を語らせました。

「切り離して捨ててしまえるなら、捨てたいんだ。こんな心は」。

文意は異なりますが、私自身の内面を投影させてしまっています。
キャラは本当に他者を思い、故に悩むのですが、私はそんな綺麗な心ではないので、そのままです(苦笑)キャラの内面に迫る「近道」だったため、
「素材」として己の内面を切り取り、用いました。

前段で述べたように、私にも己の分際を弁えず他に手を伸べたくなる瞬間があります。それこそが「思い込み」。自分の弱さが露見する刹那。

その瞬間。偽りで出来た己が心を投げ捨てたくなることがある、と。 

さりとて、偽りだらけの己に唾棄する思いを抱けども、わずかなる善も、目を背けたくなる偽善の多さも共に自分ならば。せめて他を切らぬように、と日々言い聞かせつつ。偽善なる悪が裡にあればこそ、他が自分にもたらす弱さゆえの傷も許容できよう。そんなことを、時折思います。

ここまでお目通しいただき、お付き合い下さった方へ、御礼兼ねて。
私は悩んでいるというわけではないのです。その権利は既にないのだ、ともいえます。馬齢を重ねますと、時に己を振り返る必要が生じてきます。
過去に謝罪、償う事は叶いません。成してきたことを思えば、今に悩む事あれど留まることは許されない。せめてを少しでも良くするため、己を律するために、過去に少しでも応えられるように、曲がり角を過ぎた時を生きるため。

今でこそ、呑むことを控えている身ですが、若気の至りでウィスキー1本弱を空にしたこともありました。そんなとき、こんな戯言を交わしました。

「試されている。そんな風に思わないか?」

そう友に問われて、私が返した言葉は、

「思うけれど。結果なんて見えているのだから、いい加減で実験も仕舞いにして貰えると嬉しいけれど。運命を司る存在がいるとするなら」

できもせぬことを「ただ見る」この目を塞いで欲しい、願っても良いものならば“。

そう答えた若き日の言葉は、今ではうちに眠らせています。

今、一つ願うという愚行を成すなら、赦されるのものならば。真実の利他が刹那、自分に訪れる奇跡が起きないものか、叶わぬ願いを。

後ろにある時間が、私よりずっと少ないであろうあなたへ。
素直に手を伸べ、その伸べられた手を取ってください。あなたたちはわたしたちよりも、ずっと綺麗な手をしているのですから。貴重な今を大切な人と共にあるため、その喜びのために。まずは、今日と明日の「あなた」が笑顔でいられますように。

重い文にお付き合い頂いた貴重なお時間に、祈りと願いを込めて。

参加します。

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