見出し画像

渦中と上京と訃報を社会する

ついに二回目の緊急事態宣言が発令されたなあ
ふとこの前のそれが思い出された
ここに綴っておこう。

先日、高校の書道の顧問先生が逝去された。
そんな一報はあまりに突然で、姉妹にとって静かなる激震だった。
それはあまりにも想定外だった。まだ45歳とお若かったのもある。
あんなに元気でフレッシュで可憐でキラキラしていた先生。
一報を受けた時は気が動転していたのにも今になってようやく気付く。
とにかくしばらく何も手につかなかった。

本当に何から何まで大変お世話になった姉妹も、家族も。
先生から水墨画のてほどきを受け、みようみまねでかいては不格好な蟹を供託にもっていき笑われながらも根気よく教えてもらったのを忘れることはできない。
たまに体調が悪そうにみえたのはそういうことだったのかー。
今になって自分に対してやるせなくも、悲しくもなる。

だからこそ、最後にお顔を拝見し、感謝の気持ちをめいっぱい伝えるべく、次の日の通夜に間に合う帰省便をとって荷物をまとめていた。
しかし、ここで問題発生ー。

9日まで東京から県境をまたぐ不要不急の外出自粛要請が続いていた。
解除直前ではあったものの、家族や知り合いとの話し合いの結果、3密になりかねない参列は断念した、いや、せざるを得なかったと言うが正しい。
これぞまさに苦渋の決断、だった。

訃報を知っていながら先生に、会えない、帰れない、人の目や規則に従わなければならない、なにより、悲しむべき時に、社会のしがらみや情勢を考慮してばかり、先生のことを考える時間までに至れない、そんなもどかしい気持ちで充溢し、すべて納得するしかないこともわかっていながらやるせなさも募り、ん~~~~
今思っても本当に複雑な感情だった。

未だ受け入れがたい現実ではあれど、少しずつ、ゆっくり理解していく中、振り返ってみれば、あの状況は「都市の『ない』社会」だったのかもしれないとふと思った。

都市とは日本書紀や旧約聖書など古典での暗示や
そして今にいたる明確な記述などいろいろあり、その形容も様々だ。
・反自然、反農耕的社会としての都市
・再分配や交換の場としての都市
• 人為的・人工的社会としての都市
• 共同体から分化した権力が支配する社会としての都市
• 言語を共有しない相互に異質的な人びとが共在する場所としての都市
などあるなかで
とりあえず決めかねることなくおくと、
「社会的交流・交通の場が文明化された場」というのがここ幾年かの感覚ではないだろうか。

私が帰省できなかったのは、コロナが誘引因子となって、まさにこの都市としての機能が喪失していたからであり、ゆえにこの社会は「都市のない社会」と結論づけられると思った。

しかし、それははや訂正したい。
もうすこし切り込むなれば「社会的交流・交通の場が文明化された場」というのには「都市」という言葉の「都(みやこ)」「市(いち)」が両輪になって働いている。
「都」‥  共同体から財や労働力が「贈与」され、「再分配」される中

「市」‥共同体から離れた資源や財が「交換」によって交通する場

都は「統制」を市は「自由」を持ち来たらしているとも言い換えられる。

都市というものの「都」的な側面を忘れてはならない。
「『都』的なものによる『市』的な交通・交流の統制機能をもつ」。
これは忘れてはならない都市の機能を示している。
もし、都市のない社会で、このウイルスパンデミックが起きたらー。

時代を巻き戻して、都市がない社会に限りなく戻していくと、奈良時代には天然痘で人口の25%がなくなった(あくまでも一説)こともあったという。もちろん、医療技術の進歩が桁違いであり、単純比較するのは愚かであることに注を促した上で、それでも、都市が「ある」社会と「ない」社会とでは、互いの社会に及ぼす影響をどれだけ広げられるかはもとより、今回のように、逆に、「抑えられるか」に大きな差があるように思う。

一転して、この事例は、わたしにとって都市のない社会の証明ではなく、都市のある社会の現出を意味することとなった。

さて、都市がある・ない論に決着がついたところで、都市がある社会というものは何なのかを考えてみたい。
「都市がある社会」という言葉は、都市という存在だけでなく、それを際立たせる存在をなくしては言い切ることができない、という隠されたメッセージに一番気を使う必要がある。

都市は社会を規定し、都市のある社会は、都市に倣って自らの社会を規定する。
そこには、都市の周囲にあるあれこれの地域が「都市が制定した規則や政治、文化を倣う」という模倣の意もあるが、それだけでなく、「都市から何を求められているか、先回りして、都市へ生産したり労働力を送ったり、住居としての環境を整えたり」などの役割取得という意もあるだろう。

これを端的に表すポール・ホィートリーの言葉を引用しておきたい。

―都市の周囲の農村や田園は、都市の存在をすでに前提とした社会である―

この表現は、一方でこうも換言できるのではないだろうか。

―都市の存在は、都市周囲の農村や田園を前提とした社会である―

都市には、本来それぞれの社会がもつ心臓部が決定的に抜け落ちている。衣食住だ。
これはこのコロナ禍でなによりも都市自身が気付かされたところではないだろうか。
マスクもなくなる。バターも消える。トイレットペーパーも行方を失う。
それらは都市を取り囲む農村や田園が担っている。

都市のある社会は都市が中心のエピソードのように聞こえるが、実のところは、もちつもたれつ、すなわち相互依存が、基本のき、だ。

反対があって淵源が見えてそれ自身が相対化されて際立って言語化されてモノとして見聞きされる。
社会学のあれこれはいつだってそうだといえるかもしれない。

都市なんてものもほんとうに存在するのではなく、私たちがこうして反対の存在を打ち立てその存在を生み出している。
でも、そうすることで不思議だなあとおもっているぼんやりしたものが都市として浮き出してきて
対象として持ち上げることが可能になり、あっちからこっちから研究することができるのだから、面白いもんだ。

文・もも


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?