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未来の感触

昨日は、1月4日までに書いたことを振り返って書いた。1月4日に書いたことは、ちょっとしんどいことだった。で、続く5日は、何を書いたかというと、「自分を救う方法」について。

主に、朝のページ(モーニング・ページ)の実践(の報告)を、書いている。

朝のページのことは、その後も、たびたび、書いていたはずだ。いまぼくの"書く"ことのベースにあるのは、朝のページだから。そのノートは、まさに、ぼくの"ベース・キャンプ"のような場所だ。

朝のページには、よく過去の自分が出てくる。

と書いている。そうか。そうだったっけ? と思って、最近はどうか、と思い返してみるが、いまは、過去の自分ばっかりは出て来ていないと思う。

今朝は、起きて、あ、今日は母の誕生日だ、と気づいた。すぐに連絡はせず、メールで送ると約束していた写真や動画があったのを思い出して、それと一緒に送ろう、と思いつつ、朝のページをひらいたのだった。

そうしたら、母が生まれた日、母の両親であるぼくの祖父母が、朝のページの中に現れてくる気がした。

朝のページは、そこでへんにかっこつけたり、頑張ったり(?)せず、思い浮かんで来ることばを、そのまま書くのが鉄則だ。

祖父母は、もちろんまだ祖父母という年齢ではないが、すごく若いわけではなくて、満州から帰って来てこどもを3人とも亡くした後、母の兄が生まれ、そのあと母が生まれた。ふたりにとって母はさいごの子になった。母が幼い頃に家族4人で撮った家族写真が残っていて、その写真がぼくは好きなのだが、その写真の中では、祖母はもう何となくぼくの知っている祖母の感じなのだ。祖父には、ぼくは会ったことがない。母が小学生の頃に亡くなっていたから。写真の中の祖父は、とても若々しく見える。とても祖父という感じではない。

母が生まれた時、祖父はどんなことを思って、どんな様子で、どんなことを話したんだろう。こどもが生まれた時、ぼくは自分が、何を言ったか、数年前のことを思い出してみればよいかもしれない。

これは過去の自分じゃない。ぼくの知らない、昔の話? ただそれだけのことなら、どうして今朝、ぼくが"思い出した"りしたんだろう。何だか未来の出来事のような感触で浮かび上がって来る。

(つづく)

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「道草の家・ことのは山房」のトップ・ページに置いてある"日めくりカレンダー"は、1日めくって、12月4日。今日は、「踊る蓮根」の話。

※"日めくりカレンダー"は、毎日だいたい朝(日本時間の)に更新しています。

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