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止める時に、始まる

昨日、書いたことのつづき。昨日、書いたこと、とは…

1月1日から3日にかけて書いたことを、振り返ってみたのだが、次は、まぁ、4日ですよね。

「オトナのための文章教室」に至るまでの、ぼくがやってきた"ワークショップ"のアレコレについて、書いてある。

これはちょっと書きづらかったことではないか? と思う。きっとそんなこと、読む人にはわかりようがないことだろう。

「オトナのための文章教室」については、

「ワークショップ」という名称には、少し嫌気がさしていたところで、迷いつつも、「教室」にした。

なんて書いてある。いま思い返しても、ま、その通りだった。

強調する部分は、どこか?

少し嫌気がさしていたところで、

でしょうね。正直なところを言うと、「少し」どころじゃなくて、「すごく」だった。嫌気がさしていた。

つまりぼくは自分の何か、思い(?)を参加者と分け合いたいとも思っていないし、何かを教えたいと思っているわけでもないし、逆に何かを押し付けられたいとも思っていない。

それで、「ワークショップ」と呼ばれるものにかんして、

ぼくの中で、こういうのは嫌だ、というイメージなら、ハッキリしている。

なんて書いている。

何が言いたかったか? そこでは、ああでもない、こうでもない、と試行錯誤しているようだが、じつはもう散々、試行錯誤した後であり、祭りの後であった。ようするにぼくはその時点で、一度(早く)止めたかった。

いろいろ止めたかった。

ぼくは、止めるのは、好きだ。止めたら、何か始まるから。続けることより、止める方が好きかもしれないくらいだ。『アフリカ』だって、とっくに止めているはずだった。しかしあれは何だか止められなくなったのだ。むりして続けるようなもんじゃないでしょ? つまり、何? 「続けなきゃ!」というのはとにかく嫌。続けるためにやってんじゃねーぞ、と。その時、その時のことがあるだけだ。続いているものは、それなりの何かがあるんだ、と。

で、どんな話だったっけ? そうそう。とにかく止めたかった、という話。

その通り、「オトナのための文章教室」は1月でいったん終わりにした。吉祥寺での仕事も区切りがついた。これで終えられる、と思った。

でも、数ヶ月後、「オトナのための文章教室」はアッサリ再開することにしてしまった。「してしまった」なんて他人事みたいでおかしい?

やりたくない、やりたくない、と思いながら、またやってしまっている感じだ。自分よ、何を考えてるんだ? と。マゾか?(マゾでしょうとも)

それでこの数ヶ月、ずーっと、考えていた。何を思ってる? 自分よ、と。よくわからなかった。でも今日、ふと思い出したことばがある。2011年だったかな、その頃、ぼくはいまのような生活に入る前だったが、よく話していた1人から、こんなことを言われた。

「下窪くんって、いつも、止めようと思った時に、始めてるよね?」

あぁ、そうか。ぼくは強烈に「止めたい」と思った時が、「始め時」なんだ? そうだった。忘れていた。

ぼくはこの「止めたい」願望を、何となくだけれど、「死」への羨望のように感じなくもない。

その話をした時、自死をした人の話をしていた、ということがあるからかもしれない。でも、だからそういうことを書いたのではない。

生まれた時、人は、いやどんな動物でも、死が約束される。永遠の生というのは、存在しない。生まれたからには、いつかは死ぬ時が来るわけだ。

つまり始まったものは、いつか終わる。終わらせないといけない。──このつづきはまた、にしよう。

つづく

日常を旅する雑誌『アフリカ』最新号(2019年7月号)、相変わらず発売中。在庫が少なくなってきたので、お早めに。

「道草の家・ことのは山房」のトップ・ページに置いてある"日めくりカレンダー"は、1日めくって、12月3日。今日は、「虹」の話。

※"日めくりカレンダー"は、毎日だいたい朝(日本時間の)に更新しています。

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