書くために必要な"安心"
先日、「オトナのための文章教室」の最終回に話したことのひとつは、"編集者"の存在について、だった。
"編集者"は、たとえば文を書く人にとっての編集者であれば、何はともあれ"読む人"である。
以前、「"いま、プライベート・プレスをつくる"ということ」というトーク・イベントをした時に、『アフリカ』に書いてみたことのある人の感想として、「〆切がある」「編集者がいる」のふたつがあれば書ける、という話があった。
この場合、書いているものは手紙ではないので、直接相手に向けて書く内容ではない。けれど、編集者というのはそのへんのことをわかっていて、「自分に送られてくる(手渡される)」ものをまず読む。
"手紙"を受け取って、読んだら、とりあえず"返事"を出す。
ぼくは書く人にアドバイスしようと思ったことはあまりないが、読んだら、とりあえず「ここはいいですねぇ」とか「ここはちょっとわかりづらい」とか「わかりづらいけど面白い」とか「ここはもうちょっと読みたい」とか場合によっては「感動しますね」とか「ここはちょっと頑張って読みました」とかそういうことを伝える。
不器用なので、なかなかうまくいかないが、できれば、相手を励ましたいと思っている。
『アフリカ』(雑誌)をつくる時にはその("読む"の)つづきがあり、編集者は「載せたい・あるいは載せられない」を決めて書き手に伝えること、載せるとしたらどんなふうに載せるかを決めて、"つくる"こと、完成まで手間暇をかけること、など仕事はいろいろとある。
「文章教室」では、その"つくる"がないので、"読む"が際立つ。
なぜ、"読む人"がいれば、書ける、と感じるようになるのだろう。
ひとつには、そこには"安心"があるからではないか。
自分が書いたものを"読む人"、話すのであれば"聞く人"がいるという安心。
その"安心"は、ホッとしてリラックスしているという状態ではかならずしもないだろう。緊張感のある"安心"もある。
"信頼"と言い換えてもいい。でも、"安心"と呼ぶ方が何となくしっくりくる。たとえば「ここでは思いきって書いて(話して)いいんだ」と思える"安心"感、その土台には"信頼"もあるかもしれないが。
書き手は読み手に育てられ、話し手は聞き手に育てられる。そこには成長があるだろう。
じつは、"読み手"も成長している。
ぼくはある人に、久しぶりに『アフリカ』に書いてほしいと思っているんだけど、その人から最近、こう言われた。
「あ、そうか、私は以前、『アフリカ』に書いていた時には、読み手のことなんて考えてなかった」
ではどうやって書いていたかというと、自分の思いと言葉とが、できるだけ近づくようにと思って書いていた、ということらしい。
そうやって書かれていたものが、ぼくという読者にとって素晴らしい"体験"になった。読者を意識するなんてことよりも、その方がずっと大切なことなのかもしれない。
ぼくは妙に感心している。"書く"というのは、こんなにも奥の深い作業なんだなぁ。
(つづく)
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