ちいさな明かりに灯されて
数ヶ月前まで、ぼくはすごく…なんというのか、落ち込んでいて、というのか、弱っていて、というのか、何をするにしても腰が重く、上がらず、親しい人に「最近どう? ちょっと話したいのだが」と連絡をするのにも、ものすごく時間がかかっていた。
以前は、ぼくは、メールがきたらすぐ返事しないと気がすまないような人だった。でも、いまはそれも、一拍置いて… と思っているうちにどんどん時間がたってしまう。待っている方には、ごめんなさい(でも、"一拍"置くだけなら良いことのような気がしている)。
原因は、たぶん、あれだ。心をこめて話しているのに、まったく返事がない、無視される、という経験。自分のやることを都合よく解釈されて使われることへの嫌気。そして、呼ばれて行くのに、あえておろそかに扱われることの苦しさ。そういったことの蓄積。──だったと思う。
いつの間にかぼくは閉じこもるようになっていた。それも、自分を守る術だったのではないか、という気がするが、そのあとに、閉じこもった自分を「さ、もう大丈夫、出ておいで」と励ます大変さが待っていた。
『アフリカ』には、書くことによって、あるいは読むことによって、救われたという声が寄せられる。自分で書いて自分で救われてる人がいるので、「セルフ・ヘルプの雑誌」などと呼ぶ人もいた。あと、ぼくはその雑誌の編集者だが、自分でつくって自分で救われているようなところも、そういえばあるなぁと思う。
何はともあれ、『アフリカ』をまた、やりますよ、と声を(かけたい人に)かけ、届いている原稿があれば返事を出し、それに対して返事がまた来る。それにまた返事を出す。そのくり返しに、何か救いを感じている。
別に何か特別な話をしているわけではないし、「書けない」という返事がある場合も当然あるし、でも、いま書いている"救い"は、話の内容のことを言っているわけではなくて、"やりとり"そのものについて言っている。
声を掛け合う。声が行き交う。そこに、閉じこもった自分がそっと顔を出し、出てきた。
『アフリカ』ができたら、できたで、ありがたいことに、「読んでみたい」という連絡をいただく。
いただいたら、返事を出す。返事を出したら、それに呼応してまた連絡が来る。雑誌を(本を)送ったり、届いたり、お金が送られたり、届いたり、それも全て発信と応答で、その都度連絡をしあって、ついでに簡単な感想のようなことを(お互い)付け加えて相手に届けることもある。
いま、買い物をするのに、こんな面倒くさい手続きを踏むことは滅多にないだろう。『アフリカ』はいまのところ、その面倒くさい手続きを必要としている。
珈琲焙煎舎(の店頭)で買われる人は、ただその場でお金を出して買うだけ? いや、果たしてそうだろうか。わざわざあの店まで足を運んでいる時点で… そこには何か「旅」のようなものがないか?
ひとつひとつのメールのやりとりが、ぼくには、灯されたちいさな明かりのように感じられる。
ぼちぼち返信しますので、待っていてください。返信ないなぁと思ったら、いつでもご連絡を。
また、連絡がつかない方へは送るのを躊躇してますから、要件だけの簡単なメールで結構ですから、お送りください。
(つづく)
さて、その"日常を旅する"雑誌『アフリカ』最新号、じわ〜っと発売中。
ご連絡いただければ郵送で直接、お届けすることもできますので、遠慮なくどうぞ。「どんな雑誌なの?」は、コチラに詳しく書いてますのでぜひご覧ください。
「道草の家・ことのは山房」のトップ・ページに置いてある"日めくりカレンダー"は、1日めくって、7月24日。 今日は、ギブスがとれた話。
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