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記憶を呼び起こすもの

最近、というのはこの数年、というくらいのことだが、ぼくは自分の記憶というものを、あまり信じすぎないようにしている。

たとえば、自分が何を書いたか、じつはそのほとんどを覚えてないのではないか。──というのも、10年前のハード・ディスクの中にあった原稿(あるいはダンボールの中に発見された原稿)を見て、読んでも、自分がそれを書いたことをまるで思い出せない、ということが多いのだ。

以前は、忘れていたとしても、見たり、読んだりすれば、あぁ、こんなのもあったねぇ、としみじみ思い出すことができた。

ところが最近はそうではない。見たり、読んだりしても、サッパリ思い出せないのである。

書いたことを思い出せないのだから、何を喋ったか、思い出せないなんてことは当然で(そう思ってしまうことは、いかに自分が文字の文化に寄りかかっているか、示している)、じつはこれまで自分が書いたり話したり考えたりしたことの大半は忘却の彼方にある。──のではないか。

自分のことすら思い出せないのだから、他人のことを思い出せないのは仕方がないことで… いや、思い出せないことに、自分のことか、他人のことかは関係のないことかもしれない。自分以外の人のことだって、覚えていることはよく覚えているもの。

先日、そんな話を珈琲焙煎舎でしていたら、店主が「匂いで思い出すっていうこと、ありません?」と言い出した。

あるかも。

場所の匂い、各家庭の匂いっていうのもあるくらいだから、それぞれの場所に匂い(のようなもの)があって、それでその場所を思い出す。その場所であったことを思い出す。──ということはあるかも。

「聴いていた音楽で思い出すってことも、ありません?」と言われたが、ぼくは日常的に音楽を聴いている人なので、"その頃しか聴いていなかったレコード"か何かがあるとして、それを聴いて思い出すということはあるかもしれないが、まぁ、あまりアテになりそうにない。

例えば、イベント的なことがあったか(めったに会わない人と会ったとか)、写真が残っているとか(録音が残っているとか)、そういうことがあれば思い出しやすいのかもしれない。

しかし、何でもない日常の中の仕事や出来事を、覚えておくということ自体、そもそも大変なことかもしれない。無理、というものだ。

ぼくが「何でもない日常の中の仕事や出来事」を大切に思うのは、なぜだろう?

それが、永遠に続くものではない、ということを深く、深く思い知っているから、かもしれない。つまり、失われた「何でもない日常」をたくさん抱えて生きているから。──ではないか。

故郷を離れ、第2の故郷(住処を転々とした)を離れ、第3の故郷も離れ… としているぼくが、第3の故郷である府中に(帰ろうと思えばすぐに)帰れる場所を持ち、そんな話をできるというのは幸せなことだ。

その珈琲焙煎舎、来月、11月11日の11時で、8周年を迎える。

(つづく)

オトナのための文章教室」in 横浜、初回は今週の木曜(31日)、迫ってきました。初回は(導入を兼ねて)"「わからない!」を書く"と題してあれこれお話を。今後のやり方を(話しながら)探りたいという気持ちもあり、横浜在住で、ずっと小説を書いてきたゲストをひとり呼んでいます。

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「道草の家・ことのは山房」のトップ・ページに置いてある"日めくりカレンダー"は、1日めくって、10月29日。今日は、"美しい人参"の話。

※"日めくりカレンダー"は、毎日だいたい朝(日本時間の)に更新しています。

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