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見る人の心で味付けが変わる映画 『真夜中の五分前』

ある日のこと。

私は録画してあった番組を観なおしていた。
昨年末に放送された、『SWITCHインタビュー 達人達 高橋一生×中村拓志(建築家)』。放送されたのは、年末のNHKドラマ『岸辺露伴は動かない』の放映前だったと思う。

観なおしたのは、最近ファンになった、ある俳優さんの言葉がきっかけだった。高橋一生さんが同じようなことを建築家・中村拓志さんとの対談で言っていたことを思い出したのだ。「形式に則った動きから生まれる感情がある」と。いざ観なおしてみたら、他にもたくさんの示唆にあふれる内容で、すっかり見入ってしまった。

対談のなかで、一生さんが興味深いことを言っておられた。中村さんから、異なる複数の感情を表す芝居について、質問されたときだった。

10人いたら10人分かるものを作るって、それもある意味表現としては正しいのかもしれないですけど。作品として。
ある一方的さを感じるというか。
そこに、見てる人の心だったりが加味されることによって、味付けが全く変わってしまうようなものをいつもやっていたいんですね。

私は一生さんの言葉を聞きながら、三浦春馬さんの出演作『真夜中の五分前』を思い浮かべていた。春馬さんの出演作の中でも、本作は見てる人の心が加味されることで、味付けが変わる作品だと思っている。

行定勲監督が手がけた『真夜中の五分前』は、三浦春馬さんのファンの中でもお好きな方が多い。正直言って、どう書いても私の考えてることが伝わらない気がしていて、本作について書くのは怖かった。高橋一生さんと中村拓志さんの対談を観なおさなければ、手が動かなかったような気がする。

高橋一生さんの言葉が、『真夜中の五分前』について綴る勇気をくれたのだ。

箇条書きであらすじをざっくりと

・良(三浦春馬さん)は上海で時計の修理工をしている。
・スポーツクラブのプールで双子の姉・ルオランと出会う
・ルオランを通じて双子の妹ルーメイ・妹の婚約者ティエルンと出会う
・次第に惹かれあうルオランと良
・双子の姉妹は旅行先で海難事故に遭い、片方だけが生き残る
・生き残った片方は、ルオランなのかルーメイなのか・・・(一応ルーメイということになっている)
・事故がティエルンと良にもたらしたもの、そして・・・

自我の境界が曖昧な存在 双子のルオランとルーメイ

映画は冒頭、子どもが石を投げてガラス窓を割る場面と、独白で始まる。

いつだってそうだった
いつだって私は
私ではなかった

私は誰?
私は・・・誰なんだろう

なくさないと見つからない
いつだって そうだ・・・

石を投げてガラスを割った少女は、色違いのワンピースを着た、そっくりな少女に服を交換しようと持ち掛ける。そっくりな二人の少女は、ワンピースを交換する。

すると、少女の母らしき人がやってきて、赤いワンピースを着た女の子を𠮟りつける。窓を割っただろうというのだ。やっていないと主張しても、有無を言わせぬ様子で、手をつかんで連れていく。

二人の少女・ルオランとルーメイは、普段から何気なく、何度となく「入れ替わ」っていたのだろう。それこそ、親も区別がつかないほど頻繁に、かつ精巧に、である。

ここでまた、『SWITCHインタビュー 達人達 高橋一生×中村拓志(建築家)』での高橋一生さんの言葉を思い出す。

例えば、中村(拓志さん。対談相手の建築家)さんと僕(高橋一生さん)の魂が入れ替わったとするじゃないですか。

(中略)

中村さんっていう容れ物に入っている僕っていうものが、中村さんの身体を運転するわけで・・・そうすると3番目の人格になってしまうんではないかと思っていて。そのくらい人間の自我というものは曖昧だと思っているんですよね

入れ替わりを繰り返すことで、ルオランとルーメイの「自我」の境目はどんどん曖昧になっていったのではないだろうか。極端に言えば、肉体に「ルオラン」「ルーメイ」という名前がついている状態で、自我の境目などあってないようなものになっていたのだと思う。

だが、高橋一生さんが例えた赤の他人の入れ替わりほど、一卵性双生児の入れ替わりは肉体的差異が無い。おそらくルオランとルーメイの入れ替わりは、自我の境目が曖昧になるという状況を引き起こしはしたものの、第3の人格や第4の人格を生み出しはしなかったのだろう。

肉体の名前を、それぞれ「ルオラン」「ルーメイ」と呼べている間は、曖昧ではあるものの、「私はルオラン」「私はルーメイ」とお互い自覚できていたのだ。

上海で時計の修理工をする青年・良

良はなぜ、異国の地・上海で時計の修理工をしているのだろうか。

想像でしかないのだが、かつて恋人だった人を失い、思い出の色濃く残る地を離れたくなったのかもしれない。ヨーロッパやアメリカでは、東洋人は目立ちそうだ。見てくれで簡単に区別がつかない中国の都会なら、ひっそり静かに暮らせるような気がしていたのでは、と思っている。

亡くした恋人は、5分遅らせた時計をしている人だった。その5分を存分に楽しんでいたとルオランに語る良の目は、どこか寂しそうだ。

恋人が亡くなり、「5分遅れの世界」で生きるのは良だけになった。

良は、上海の地で時計を直しながら、ともに同じ時間を生きてくれる人を探していた。ルオランに惹かれ、「5分遅らせた時計」をプレゼントしたのは、「ともに僕の時間を生きてほしい」というメッセージだろう。

だが、私はこのメッセージは、少々独りよがりではないかと感じるのだ。かつて良と良の恋人が生きた時間を一緒に生きてほしいということは、自分は亡くなった恋人の代わりなのか?とルオランに責められても、仕方ない。

三浦春馬さんのお芝居は、実に不思議だ。プレゼントという行為から匂いたつ一方的さは、良の佇まいや振る舞いからは一切感じられない。それどころか全く逆に、ルオランに寄り添い、丸ごと包み込むような温かさと、ルオランへの少しの甘えが伝わってくる。

ここに、三浦春馬さんの役者としての魅力が詰まっているように感じた。プレゼント自体は、ともすれば女性の観客から総スカンを食いかねない行為である。だが春馬さんのお芝居が、良という人物の優しさや心の奥底に抱える痛みを、こちらに見せてくれる。良という人物が、ルオランに感情移入する私を慰めつつ、心の底にある母性本能を刺激する。

妹のルーメイは、モデルという華やかな職業に就き、婚約者は有名な俳優を父に持つ映画プロデューサーのティエルン。ルオランは妹に比べると自己主張が控えめで、自分を押し殺しているように見える。ルーメイより先に出会ったティエルンへの思いを胸に秘めたまま、良に惹かれていく自分を、ルオランはどう思っていたのだろうか。

ティエルンと良

良が働く時計店を訪れた客が、店主の老人にこう尋ねる場面がある。

「おやじさん、相談が。これ価値あるのかな?」
「死んだ父親が遺した時計なんだけど、高いものなら直そうと思って。安いものなら直さない」。

店主は、客に言う。「価値はお前さんが決めるんだ」と。

ティエルンのものの考え方は、この時計店を訪れた客によく似ている。自分にとって価値があるものは、他人から見ても分かりやすく価値のあるものなのだ。美人、というだけでは足りない。美人で、有名人。双子の姉ルオランと最初に出会っていても、恋愛をして婚約したのは、妹のルーメイだ。華やかなモデルの世界で活躍する彼女は、ティエルンの虚栄心を満たしてくれるアイテムの一つだったのだ。

一方、良がルオランに目を奪われたのは、容姿ではなく、「カッコよく泳ぐ姿」である。プールに飛び込んでからだから、当然顔は見ていない。良が、次第に彼女に惹かれていったのは、勝手気ままに見えるルーメイに対して、ルオランが抱いている気持ちが分かったからではないだろうか。

華やかで勝手気ままな妹に対して、地味な自分の存在。何かしようとするたび、横から妹が奪っていく。まるで自分の存在が無かったかのように。

良の目には、ルオランの心が悲鳴を上げているように見えたのだろう。良がルオランに注ぐまなざしは、どこまでも優しい。

事故、そして・・・

ルオランとルーメイは、二人でモーリシャスに旅行に行き、海難事故に遭ってしまう。生き残ったのは一人だけ。

生き残った一人が、ベッドサイドのティエルンの手を握ったことから、生き残ったのはルーメイだと思われている。

しかし、本当はどちらなのか分からない。

ティエルンは、普段の様子から彼女がルオランではないかと思い込む。ティエルンにとっては、パートナーはルーメイでなくてはならないのだ。他人が羨むような存在でなくてはならない。もし生き残ったのがルオランならば、ティエルンにとっては価値が無いのである。

一番混乱しているのは、生き残った本人だ。前にも触れたとおり、二人は頻繁に入れ替わっていて、自我の境目はとても曖昧だったのだ。肉体が「ルオラン」と「ルーメイ」を分けていただけだったのに、その肉体はいまや一つになってしまった。

ティエルンは事実と向き合えず、ルーメイと離婚。失意のルーメイは良の通うプールにやってきて、泳げるか泳げないかを確かめる。泳げなかったことにホッとするルーメイ。良が彼女を助けて、良の部屋へ連れて帰る。

良は、目の前にいる女性がルオランなのかもしれないと思いながらも、確かめきれずにいた。ベッドに横たわる彼女が「独りにしないで」と言い、目に目を潤ませるのを見て、良は優しく彼女を抱きしめる。

翌朝、時計店の店主の老人の手から落ちたペソアの詩集に書いてあった詩を、彼女は読む。

誰も他人を愛することはない
他人のうちにいる いると思っている自分だけを愛する
愛されないことを悩まなくていい
人はお前を他人として感じたまでだ
お前はお前のままであろうと努めよ
そうすれば 愛されようが愛されまいが
わずかな苦しみを被るだけだ

自分が誰なのか悩んでいた彼女はこれを読んで、「自分は自分のままでいい」とようやく思えたのではないだろうか。ティエルンとは違い、そのままの自分を受けれてくれた良と、ともに歩んでいく気になったのではないだろうか。

ルオランがモーリシャスから良に宛てて出した手紙には、こう書かれていた。

次にあなたに会う時は
私は今を生きてみたい
5分前でも 5分後でもない 今を

彼女が時計店の良の作業場に置いた、今を示す時計。良の時計とは5分ずれている時計。
共に今を生きてほしいという、彼女からのメッセージを手に、良は外に飛び出したのだった。

【ストーリー以外の見どころ 上海の街並みと映像美】

上海の街並みの、特に異国情緒漂うあたりを選んで撮影したのだと思う。私は1度上海に行ったことがあるけれど、東京とそう変わらない普通の都会だったという印象が強い。上海出張時は仕事が始まるのが遅かったので、朝ホテルの近くを散歩したら、確かに映画に使われているような街並みのところも見つけた覚えがある。もしかしたら、撮影地の近くを通ったことがあるかもしれない。

『真夜中の五分前』は、ゆったりとした時間と、美しい映像に彩られた作品だ。全体的に使われている青と緑は、中国では「東」を意味するものらしい。良が日本人であることとつながっているのだろう。また、黄色の印象も強いが、黄色は中国の根源を表すものだと言う。日中合作の映画であることを色彩で示しているのかもしれない。

暗めの映像の中、静かにそこにいる三浦春馬さんが、実に美しい。ただ、時計を修理している。ただ、彼女の話を聞いている。ただ、バイクに乗っている。大きな動きも印象的なセリフも、ない。けれども、ただただ美しい。ルオランが思わず声をかけてしまったのも、頷ける。

モーリシャスの風景もまた、さんさんと降り注ぐ太陽の光と、目にあざやかな緑と、空と海の青で構成されていた。『真夜中の五分前』は基本的に暗めの映像が多いけれど、モーリシャスの映像は色は同じでも、画面全体がとても明るくて、時計を取りに行った彼女のポジティブな決意を映し出しているようだった。

終わりに

生き残ったのが肉体的に言うところのルオランだと考えるのか、ルーメイだと考えるのかは見る側にゆだねられている。いつどこで入れ替わっていると観る側が考えるかで、肉体がどちらなのかは変わってしまうからだ。

だが肝心なのは、彼女の肉体がルオランなのかルーメイなのかということではない。良が、ありのままの彼女を受け入れ、彼女の時間を一緒に生きていくと決断したことだ。

ルオランだかルーメイだか分からない彼女。でも、「彼女」は「彼女」でしかない。良の中にいる「彼女」は、もうきっとある意味でルオランでもルーメイでもない。同時に、ルオランでもありルーメイでもある。

高橋一生さんの言葉を思い出す。
見てる人の心だったりが加味されることによって、味付けが変わる作品。

『真夜中の五分前』は、一生さんの言葉にピッタリ当てはまる作品だ。そこに私は強く惹かれている。

明日もう一度観なおしたら、私はまた違う感想を持つのかもしれない。いやそれどころか、毎回観るたびに違うことを感じる可能性だってあり得る。
私が『真夜中の五分前』を味わい尽くすのは、まだまだ先になりそうだ。

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