正義の危うさ
「手を挙げろ」
若い兵士が、同じくらいの年代の、同じような格好をした男を呼び止め、銃を向けた。
違うのは、その戦闘服にあしらわれたマークや色が、自分とは異なることだ。
銃を向けられた男は、こちらも向かないまま、諦めたように武器を置き、力なく手をあげた。その背中に絶望や恐怖はない。全てを察しているようで、落ち着きすら感じる。「私はもう、殺し合いをしたくないんだ。息子と妻に伝えてくれ。帰れなくてすまない、愛してる。」男は小さな声で、そう呟いた。銃を向けた兵士は、頭に狙いを定めると、2度、引き金を引いた。パン、パン。と乾いた音がしたあと、その場所にいる人間は、1人になった。当たりに感情は漂わない。血の匂いに鼻をこすりながら、残った兵士は、その場を後にした。
世界情勢が、揺れている。
知ろうと意識をしなくても飛びこんでくるのは、テロによる大量虐殺や、紛争による被害。
恐らく知ろうとすれば、もっと果てしない人々のぶつかり合いが、今もどこかで、大規模に繰り広げられている。
人はこれを「正義と悪の戦いだ」と捉えるだろう。
しかし、その解釈こそが恐ろしい、と、私は思うのである。
私は、「悪」など存在しないと、本気で思う。
私たちにとっての「悪」は、
誰かにとっての「正義」であり、
私たちにとっての「正義」こそが、
誰かにとっての「悪」に成りうるのだ。
振りかざされた「正義」に傷つけられた
誰かが、それと戦うという「正義」のために
反発する。
それを多数決で「悪」だと決めつけ、
なんの背景も知らずに排除するのは、
本当に「正義」なのだろうか?
反発するために多数派に向かう誰かは、
本当に「悪」なのだろうか?
いや、違う。
恐らく正しく言えば、どちらも「正義」なのだ。
どちらかの「正義」が間違えていたとしても、だ。
プロローグの兵士は、どちらが「正義」だろうか。
自分の軍の勝利のため、敵を見事に打ち抜き、国に貢献した兵士が「正義」で、それすら果たせなかった兵士が「悪」だろうか?
それとも、家族のいる兵士を容赦なく撃ち殺した兵士が「悪」で、相手を傷つけようとしなかった兵士が「正義」?
きっと、どちらも正しくて、正しくない。
人々は皆、自分が掲げた「正義」のために戦う。
戦いを辞めるには、
相手の「正義」を知る必要がある。
何を思い、戦うのか。
何を恨み、何を愛するのか。
「自分たちの正義を脅かす悪は、問答不要で排除する!」いう考えでは、本当の平和は、永遠に手に入らないのだ。
この世界でこれ以上、誰かを傷つけたり、
傷つけられたりするような人が増えないために、
私達はより多くの「正義」を学び、
機械的な戦いの中にある、人間的な部分を
見出さなくてはいけない。
それが、自分達の「正義」を「正義」として貫くための、一種のけじめであると考える。
まずはできることから。
身近な人の「正義」を知る。
争いは伝染する。
まずは小さな平和から、
自分達の手で作り上げていこう。
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