1分先の自分を幸せにするために
23歳までは自分の選択は間違えたことがない、と自負できる人生だった。
大学時代にできた友人から「私はね、後悔しない生き方をしてるの」と言われて、私もそう生きようと決めていた。
絶世の美女や億万長者の娘なんて、生まれた時の運次第であって、そこを羨む(または妬む)には労力の無駄だと思ってる。だから、自分の努力でどうにか変えられることには死に物狂いで取り組んできて、欲しいものは掴み取ってきた。
23歳までは。
2016年から人生プランが崩れたままの人生
やっぱり、2016年にドイツ留学に行けなかったことが私の足枷となって歳をとるごとに重くかまとわりついてくる。
私は一般高校、一般大学を卒業している。3歳からバイオリン、5歳からピアノを習い、13歳から全てを犠牲にしてでも私はプロのバイオリニストになりたいと決心して生きてきた。大学進学も上京して音大にいくか迷ったが、私を上手にしてくれる先生が福岡にいたことと、学びたいことがあったのでプロを目指す気持ちは熱く抱いたまま、一般大学へ進んだ。
一般大学から、留学準備のためのモラトリアムのために音楽科のある大学院へ進学。休学中にドイツ留学への準備、ドイツの音大の先生とアポをとりなんとか受け入れてもらえて、理想通りの人生プランが完成しようとしていた。
でも、叶わなかった。
受験をすることさえ許されなかった。「また再来月に伺います」と言って出た教授の研究室に二度と入ることはなかった。
親に反対されたからだ。
ちょうど移民が暴動を起こして、それを理由として留学できなくなった。移民が暴動を起こしたから留学しなかったのは私くらいだろう。
現地でお世話になった友人、先輩、教授たちには協力してもらったのに申し訳ない気持ちが今でもある。
そして、その時いかなかったことを今でも後悔している学生の私の身にはドイツへの下見で消えた貯金を地道に増やすことしか出来ず、留学費用を捻出するにはあと2ヶ月後には間に合わなかった。
家庭=社会、である。周りが介入できない問題だらけで、家庭ごとに法律が違う。ここから脱するには扶養から外れて自立した経済力を持つしかないのである。
だから、私が何気なく発した言葉でその社会で戦争が起こることがある。そこの国民であり、経済力という武器を持っていなかった以上、逆らえないのだ。
「一般大学を卒業してバイオリニストになったのはあなたの売りでしょう?」
母にこう言われたが、全く違う。売りにしてはいけないポイントだし、売りにしていない。学閥がすごいこの音楽界でそういうことは全くないし、音楽家は職人だから音楽教育機関に属していないひとはプロにはなれない。(大学院が音楽教育機関ではあったが私の欲しいものはないところだった)
「あなたのことが心配なのよ」と声をかける人には「ここで奪われた機会に値するものをあなたは私に与えることができるのか」という問いかけをしてしまう。みんな黙るだろう。無責任な心配ほど価値がなく、いらないものはない。
また、海外講習会奨学金補助のオーディションで合格した時も、渡航が許されなかった。落ちると思ってたから、と言われた。
私の留学を反対した人と、こうも認識が違うのだ。説得するのを諦めて自分の人生を歩んだ方が早いのである。
止まった時間を動かすために
2016年から日本にいながら自分でできることを探した。
バイオリンの先生も始めた。大学院では同期や先輩にいじめられながら通学し、ドイツでがんばれたはずのことをどうにか日本で補おうと必死で、いろんな講習会に参加して、いろんな人と知り合いになった。
親から言われていた、大学院はやめてもいい、という救いはただの幻想だった。「修士課程を修了」という他人からみたら少し羨ましい学歴の大学院卒という称号を親の見栄のため、社会的な世間体のために、【退学】の2文字は選択肢から消えていた。私に救いはなかった。いまはそれが私の人生の汚点である。
死に物狂いで得た人脈から、ウィーンへの留学の道が開けてきた。少しお金も貯まっていたこと、大御所の先生からというサジェストもあり、親は納得してくれた。
ウィーンに事前にレッスンを受けに行って、受験曲も準備して、2年遅れだけどやっと留学できると思っていた矢先、願書が受け入れてもらえなかった。「大学院の成績証明書を英訳しても演奏科となり、バイオリン科という証拠がないため」だという。
あんなに辞めたくて仕方なかった大学院を卒業したのに、それが仇となりウィーンの音楽大学の受験を受けることができなかった。渡欧10日前の話である。
もうウィーンの家も決めたし10日後の飛行機も決めてしまっていてあとに引けない状態だった。ウィーンに行っても本当に学びたい先生の元で、学べなくなった。
ウィーンでは私立の音楽院に入学し1年は居たが、習うべきものがない先生のもとで日々衰えていく自分を黙って眺めながらやる気がないのかと先生に叱責されながら1年が過ぎた。コンクールにもチャレンジさせてもらえない、音楽祭にも参加させてもらえない中で、私は何もできなかった。そうして1年、ウィーンで歳をとった。留学というかただただ、旅行客として過ごした気分だった。
だれも助けてはくれない。
あの時留学反対した親も助けてはくれない。
人生は自己責任なのだから。
他人には見えない私の足枷
東京に住み始めた。ライターの仕事をしながら、生徒をレッスンしたり、演奏会を企画したり、音楽には携わっている。
でも自分の足枷はある。学びたいときに、なにも学べなかった空白の数年間で私は言葉にできないほど辛い想いをまだ抱えている。
「なにがしたいの?」と聞かれたらこう答える。私はクラシック音楽の本場で、たくさんの作曲家が生きた街で、自分を試したかった。
今年で31歳になるが、年齢制限でコンクールも受けられない、ドイツの大学は20代前半じゃないと入学できない。13歳から心の中で燃えている情熱が、目の前の無機質なパソコンに吸収されていって無力になっていく。
色々と妥協すれば楽に生きていけるだろう。ただ、私は自分の心がある限り、前に進みたい気持ちで生きている。
1分先の自分を幸せにしよう
SNSで活躍する友人を見るたびに「私もあの頃留学ができていれば」と過去に戻ってしまう。
…
あのとき2016年にドイツに行っていれば
ドイツに留学してたら
…
情熱があってもお金がなければ留学できないのでその悲痛なタラレバはため息と同時にどこかへ消えてゆく。
「ドイツに行かなかったからこそ◯◯に出会えたわけだし」なんていう声掛けは私の怒りのボルテージを上げる。そんなの他人が言うことじゃない。
縁があったら別の場所のどっかであってるはずだ。
私のその心情を知った友人から「いまはあの時のはるかちゃんじゃないよ。いろいろ自分で学んで、身につけて、新しいことをインストールしてるじゃない」と言われ、確かに、と今の自分にスッと戻ることができた。
「過去はどう思っても変わらないし、周りから見たら、またダークサイドに落ちてるなって思われるだけだしさ、やっぱり1分後の自分を幸せにするには自分がどう今を生きて行動するか考えたほうがいいよ絶対」
そう言われて溜飲が下がった。2016年の私も深く頷いている。
2016年に留学できなかったけど、2018年にこの友達に出会っていてよかったなと心から思った。(でも多分狭い音楽の世界だから私が2016年にドイツに留学していても、遅かれ早かれ出会ってたと思うけど!)
つまり、留学したい人は今すぐ留学するべき
私がこの世で1番嫌いな言葉は「留学はいつでもできる」である。
もちろん分野にもよるが、音楽家を目指す人にかけてはいけない言葉No.1である。法律で取り締まって欲しいレベルだ。
大学受験では、これからのポテンシャルを重視するために若い人が優先的に取られる。日本の高校卒業後すぐ留学する人や日本の音大中退してすぐ留学する人ばかりだ。
時間は待ってくれない。
親に反対されているならビザに必要な200万くらい自力で稼いで高飛びしよう。自分の人生だ。運が良ければ奨学金をもらうべき。
もう一度言う。
時間は待ってくれない。
2020年から始まった流行病もあって留学できない人もいるだろう。ただ、不幸中の幸いで海外は日本人留学生を受け入れてくれる。
必要なお金がないなら朝から晩までバイトしてお金を手に入れよう。親に反対されているなら、親を説得するのが難しい家庭環境なら、親に頼らずとにかく必要なお金を稼ごう。
誰かのせいにしないために、なにかのせいにしないために、自分の人生は自己責任。こうやって過去に嘆く時間を少しでも減らしたいために、ここに綴った。
2016年の私を救いたい2022年の私より。
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