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弘前の桜を見て抱いた、初めての感情たち


九州から東北へ異動になった昨年の夏、次の春には弘前へ行こうと決めた。たまたま読んだnoteで弘前さくらまつりを知ったからだ。

5℃ってなんだ。もう3月なのに。
いつ桜は咲くんだ。もう4月なのに。
自分の肌感覚とカレンダーが全く噛み合わない、ゆるい時差ボケのような日々。4月上旬から定期的に桜の満開予報をチェックした。

待ちに待った当日。まずは4時間高速バスに揺られる。車内でつまんだアポロは、いつもより甘い気がした。


テンション上がって初めてストーリーズのエフェクト使った


冒頭のnoteを見ていなければ、この旅は計画すらされなかった。また、予定計画中にはnoteで青森の小説をたまたま読んだ。少し怖いほどに「縁」というものの不思議さを感じる。読み返している間に、バスはぐんぐんと北上していく。


弘前市では、これ以上ない快晴が迎えてくれた。気温もたしか20℃前後。日頃の行いよすぎでは? 大学時代から使い込んでいる紺色のリュックを背負い、弘前公園を目指す。街一帯がさくらまつりの装いをしていた。かかとが小さくスキップする。


ありがたい


公園の目の前にホテルを取った私は天才だと思う。先にチェックインをして身軽になる。心もさらに軽くなる。
さぁ、着いた!


ホテルでもらったりんごジュース


花筏はないかだ”という言葉は最近知った。
でももうこれは筏というより、絨毯なのでは。
花びらが水面に浮いているとは考え難い光景だった。人は未知の出来事に遭遇すると「すご……」しか言えなくなる。


道行く人みな「すごぉい……」の嵐
これだけ見たら桜だと思えない


すごい、すごい、と若干息を荒くしながらずんずん歩いているうちに、陽が傾き始めた。透き通る水色だった空は濃度を増していく。夕陽に照らされた桜の薄い橙色が、宙に浮かんでいるように見える。


この空の色が一番好き


最も楽しみにしていた夜桜。
少しホテルで休憩をして、「桜見るとき聴いたら没入感やばそうプレイリスト」を作成する。右耳だけで再生し、再び桜の世界へ入り込んだ。



花開いた今を言葉如きが語れるものか

『春泥棒』 ヨルシカ

言葉が追いつかない。

自分の感情を繊細に鮮やかに言語化したくて、文章を紡いできたはずだった。けれど、この景色を言葉に当てはめてしまうのは勿体無いと感じてしまった。写真に残すべくスマホを向けるも、画面に映るそれは何かが違う。

言葉も、写真も、足元にも及ばない。

圧倒的な存在感に全身を包まれた私は、自分の「表現」なんてものの無力さを痛感すると同時に、嬉しくもあった。
実際に触れた者だけが味わえる心の震えがある。身をもって痛感したその事実は、この世界とこれから自分が歩む時間に輝きをもたらした。この世も捨てたもんじゃないな、みたいな。

全コースをクリアしたゲームは面白さが半減するように、言葉では表し尽くせない美しさや荘厳さがあるからこそ、こうして言葉での表現に飽きもせず挑みたくなる。



想像以上の時間を過ごし、ぽかあんと放心状態で帰路に着く。度数がたった3%のシードルで酔っ払ってしまったのはきっと、アルコールのせいではない。


慣れてきたひとり居酒屋


翌朝。近くのデパートでパンを買い、午前の弘前公園へ向かった。新しい顔を見せてくれるであろう期待感で、じわじわと予感する筋肉痛の足音も気にならない。


夢? ってくらいおいしかった


着いたばかりの私はエサを目の前にした犬のように興奮していた。心の中でね。しかしこのときは、セピア色の、少し切なさを含んだ感情があった。

桜が満開の弘前公園を歩いて味わったのは、強烈な孤独感だ。厳密に言えば「孤独」でもない気がする。誰かに縋りつきたくなるような心細さではなく、淡々と「ああ、ひとりだなぁ……」と実感する感じ。む。表現、難しい。

寂しいといえば高校時代、部活仲間と博多のイルミネーションを見たときにも同じことを言った。違う高校のカップル、自分達よりもオトナな恋人同士、熟年の夫婦が寄り添ってイルミネーションを見上げる中、「寂しい〜!!」と喚くすっぴんジャージ姿の私たち。

でも、恋人がいないことだけを「寂しい」と表したあのときとは違う。日曜の昼。ごった返す人々。そこかしこから聞こえる笑い声。圧倒的な桜たち。そんな絵画のような絶景の中に、ぽつんと放り投げられたように感じた。この世界に私しかいない。薬がじわじわと効いていくように、「ひとりだ」と感じる。
寂しいけれど、悲しくはない。
楽しいか、と問われると返答に困るけれど、嫌ではない。
ひとりは好きだ。普段、あまり寂しいと感じることもない。そんな自分が初めて抱いた不思議な感覚に戸惑った。


肩を寄せ合ってベンチに佇むカップル。
手を繋いで歩く自分の親世代の夫婦。
手と姿勢から本気が滲み出ているカメラマンたち。

桜を綺麗に撮ってほしいお母さんと、じゃあ自分で撮れと文句を言う男の子。
0.5倍速で歩きながら、はたと止まり、慣れない手つきで自撮りする老夫婦。
部活着のまま3秒でスマホを構える高校生たち。

橋の上からの景色を見せるため肩車をする親子。
落ちた枝に躓かないようにおばあちゃんの車椅子を押す学生。
互いに好きな方向を見渡し、静かに歩く男性2人。


桜を見るというひとつの目的のために、これだけの人と、こんなにも多様な人間関係が集まる。それぞれの関係をぼうっと眺めながら、この光景を“愛”というのだろうか、とクサいことを思ったり。

昨晩作ったプレイリストから、セカオワの曲が流れた。

寂しい事はいつだって 幸せが教えてくれる

『夜桜』 SEKAI NO OWARI

歌詞が、まるで血液のように身体中に巡る。「ひとりだ」も「寂しい」も、そうじゃないときを知っているから実感できる。つまり寂しさを感じた私は幸せ、ということ? そうなのかなぁ。



仙台へ帰ると、もう桜はほとんど散っていた。
次に満開の桜を見るのは、来年の春。

弘前の桜をまた見る機会はあるのだろうか。そのとき私の隣には、誰かがいるのだろうか。年齢を重ねたこと以外は変わらず、ひとりかも。そのときは、ひとりでも、寂しさなんて全く感じず楽しんでいるかもしれない。

ひとり旅で楽しみにしていた場所へ来て、自分の人生には縁もゆかりもなかったはずの地で、思わず涙がにじむほど綺麗な桜を見た。
そのとき感じたのは楽しさでも嬉しさでもなく、「ひとりだ」という実感だった。来年、再来年、10年後。これから桜を見るたびに、私はたったひとりで弘前へ行った2日間を思い出すだろう。


九州出身の人間が弘前の桜を見て抱いた、初めての感情たちの記録。

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