凪の防衛
そうだ、幼い頃、私はいつも、「堪え泣き」をしていた。
受けとめてくれる人なんて、いやしない。
服の袖を伸ばして涙と鼻水を拭った。
歯を食いしばり、身体に力を込めて泣いたせいで、鼻を噛んだ後、耳の鼓膜でぷつぷつと、泡の弾けるような奇妙な音が響いていた。
自分を、自分の心を、守る──。
そうして、私は、貝のように、
心の口を閉じた。
◇
ここ1週間は、落ち着かない日々を過ごしていた。
時間や、タスクが問題だったのではない。
「心が限りなく暗い沼底のような所で、ザラついて」いたのだ。
きっかけは、半年以上前から学んでいる、子育て講座での「違和感」。
そこでは、「褒め褒めワーク」という、
自分が気づいた事や、我が子に対してできた事、我が子の伸びた能力などを、自分で褒めてシェアするということをやっていた。
SNS上の非公開グループで、文章によって行うのだが、私にとってこれは「心のザラつき」を感じる行いであった。
私は、この褒め褒めワークをやる時に、
「見てもらえるかな」
「何てコメントが来るかな」
「こんな事も出来た、って多く書こう」
「なるべく明るい言葉で」
こんなことを瞬時に思い侍らせた。
コメントが入らないと、
「まだ見てくれてないのかな」
「忙しいのかな」
「通知に気づいてないのかな」
「気づいてて無視するとかは、ないはず、うん」
こうして、自分でも"余計な心配"とは分かっていても、その思考を止める術も知らず、煩い耳鳴りのように押し寄せる声を聞こえないように無視するようになった。
しかし、スマホの通知音で、気付く。
私が、他者からの「反応、注意」を必要以上に求めている自分に──。
そして、これが、「承認欲求」と題されるものだということも、私は知っていた。
「褒め褒めワーク」をやる目的が、
"子育てに生かす"ため、ではなく、
"自分を認めてもらう"、そんな自己の欲に、いつの間にか染まりつつあり、そして、そのことに気づいた私は、どんどんと
「またやってる」
「またやってる」
「またやってる」
そんな、自分に気付いていった。
他の人の投稿には、もちろん、目を通してコメントもしていた。
ただ、他の人にコメントをしたら、尚更、
「私の投稿への反応」がないことが気になってくる。
「ちがう、きっと気付いていないだけだよ」
「大丈夫、私は、彼女の投稿に、学ばせてもらっている。それでいいじゃないか」
「でも、なんで通知がいかないんだろう」
「私の投稿って、目に入らないくらいのものなのかな……」
そうして、気付いて、止められる、
という道に入れるわけでもなく、
どんどんと深みにハマっていった。
心が荒く、ダークなトーンへ変化した。
しかし、「褒め褒めワーク」は、皆で盛り立ててやっていること。
誰一人として、
「"褒め褒め"に違和感を抱いている人はいない」
なのに、私は、なんでこんなに、心がザラつくの──?
自分を、満たせていないから──?
「自分を、満たす」ってなに──?
「他の人を求めない自分」になるには、どうすればいいの──?
「私を見て」
「私を認めて」
そんな声が、だんだんと、自分の中で大きくなっていったけれど、
どうしていいか、わからず、また私は歯を食いしばった。
◇
褒め褒めワークを不定期ながらも続けてきた、
きたけれども──。
その「違和感」が、急激に大きくなって4日ほど経った。
自分自身で解釈し、納得させようと、
Xで、今までにない頻度で、呟いてみたけれど、
余計に思いが膨れ上がった。
そして──
ついに、堪えきれず、言ってしまった。
なぜか、言わないと、と……言いたい、と、
その感情が溢れてしまった。
皆の参加するメッセンジャー上で、
唐突に胸の内を暴露する。
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気づいたことのシェア。
褒め褒めワークは、
"努力の方向性"の一つ。
「自分を満たし続けなければならない」
ではなく、
「自分が自分らしく心地よくいられる」
くらいに、やっていけばいい、そう考えると少し楽になった気がしました。
私は、自分の中にある「無価値感」に気づきました。
今、それと向き合っています。
幼少期、両親の喧嘩を見て、「私がいるからだ」と、無力感・無価値感を感じていました。
「私の感情なんてなくなればいいんだ」「そうすれば、何も感じない。つらくない」
そう誓ったのを思い出しました。
そんな私が、
褒め褒めをやると、
承認欲求も出てしまうし、
過大に自分を盛り立てようとしていて、辛く感じることもあります。
褒め褒めしたときは満たされた気がしても、「本当か?」と疑う自分もいますし、乾きも感じます。
私がこれから出会う、過去の自分のためにも
なぜ褒め褒めが上手くいかないのか、(安易にやりたくないという心のブレーキがかかる)、心がざらつくのか
そこも見ていきます。
ある方の記した文章に、
温かな家庭で、認められて育った子と、
そうではない子で、
「進め方」が違う、というものを見ました。
進め方、というのは、癒やし、や学びを含めた、「書き換え、受け取り方」みたいなものかなと解釈しました。
私の無価値感は、私にはじまったことではなく、
私の母も、その母も、同じくもっているものだと確信しています。
だからこそ、私は、この
「負の連鎖」を食い止めたい、そのために心の探究をしたい、そう自分で感じているんだと思います。
取り留めもないですが、
シェアです。
見た目は普通に、うまくいっているように見えても、
「生きづらさ」を感じている、そんな私のお母さんも救いたい。。
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最後の、取ってつけたような文章は、
読み返すと、明らかに、自分自身への言葉だと分かった。
そして、誰からも、何の返答もないまま、続けざまに、主催者の先生に、こんなメッセージを送った。
「わかって、わかってよ」そんな悲痛な心の叫び、怒りの心が伴っていると知りながら。
この、「心理」を追究している先生だったら、どう受けとめてくれるんだろう?と思いながら。
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おはようございます。
昨日から色々考えていました。
自分のコンフォートゾーンの突破は、怒りを原動力にしているのではないか?
母に、のたれじね と言われたこと
そのへんから、つらさをかんじても、「感情なんてなくなればいいんだ」と
感じることを手放したこと
褒め褒めをしても、なんだか苦しい、乾く感覚があること。
(心地よさだけを、感じることができていない)
たぶん承認欲求もからんでいて、そんな自分が嫌だと思っている
無価値感をもっているのかもしれない。
幼少期、親の喧嘩を見た時、「私なんていなければよかったのに」と思っていた。
自分を満たす、って褒め褒めと癒やしが必要なんだとわかっていること
この前のレッスンで、「感じる」をしていないと言われ、反応した自分
→ 「今」を感じてはいけないと、自分を守っていた幼少期が反応?
あまり、「目的、目的」と言われると嫌な気持ちになっている自分
→甘えかな
どこかで、
先生やメンバーのような、
家庭で育っていないから
と理由をつけて逃げようとしている自分がいる気がします
自己憐憫、自己陶酔、空想の世界
そこに逃避することで、
心を守っていた記憶が
今出てこようとしているのがわかります
「自分を愛する」
の感覚が、正直わかりません
ネガティブな自分でもいいと思えてきたけれど、
この身体にもありがとうと思えるようになってきたけれど、
自分のあの頃の無価値感が
相手に与えようとみせかけたテイカー、偽善者
に仕立て上げようとしている
心の底から、相手に「与える」だけを出来る自分になりたい
褒め褒めを、違和感なく出来るようにしたい
相手の感情も感じられるようになりたい
自分を満たしたい
自分を愛する感覚を掴んで、
これから出会う過去の自分に伝えられるようにしたい
そんな思いが出ている今です。
最近は、親に感謝することが出来ています
だけど、「私のせいで、お母さんが苦しんでいる」
そんな現象もでてきています。
もちろん、頭ではわかっています、課題の分離についても。
お母さんの生きづらさは、お母さんの問題だと。
それでも、きっと、私の無価値感が疼いているのでしょう、、
朝から重いメッセージをすみません
ただ、やはり
「自己承認」ができていないんだなと感じているので、
そこを突破することが課題だとわかりながらも…
いきなりポジティブにもっていくのはつらい、という
心の執着もあります
これが手放し材料ですね、、
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これを送った後、
「送れた」という、ミジンコ程度のちっさい達成感と、
「どう思われるか」というドキドキした緊張感が、私を纏った。
「では、もう、レッスンには来ないでください」
そんな未来の言葉も予想した。
どうなるんだろう、私は、どうしたいんだろう。
頭の中でぐるぐるしても、答えが出ない問いを
誰かに託したくなった。
私の人生なのに、ね。
「自分の人生に責任をもつ」、この言葉に妙に惹かれて、好きだったのに、ね。
子ども達に、どんなに楽しそうに話しかけられても、無愛想で、無表情な、
昔の私が、そこにいた──。
寝よう、そうして22:30まで、まだ幼い我が子を寝かせようと努力もせず、ただ流れに任せている情けない母親の姿を、いつもと変わらない布団は、あたたかく受けとめてくれた。
◇
朝、私はメッセージを送ったことを意識していた。
何て、帰ってくるんだろう。
あの承認欲求丸出しのメッセージに……。
やっぱり、受講継続は難しいですね、ってかな?
でも、返金はできないって、規約に書いてあったしな……。
いいや、考えるの、やめよ。
私は、夜中に見た記事で、
「安心できない環境で育った子どもは、親の機嫌が優先で、『今』」を感じることができない」
という内容が、自身にも当てはまるなぁと感じたのを思い出した。
そして、まだ6ヶ月の我が子の匂いを嗅いだり、ぷくぷくな肌の質感を触ったり、目を合わせて笑ったり。「今」をなるべく感じようと、努めた。
そっか、この子は、こんなに、
私と目が合う、たったそれだけのことで
弾けんばかりの笑顔と、キャアという甲高い声を出して、この世の最高の喜びを表現してくれる。
私は、
「そんなに、嬉しいの?」
と声をかけながら、我が子の頭を撫でた。
◇
夜、寝かしつけをしたら、寝かしつけられ、
目が覚めたのが夜中の2:30。
先生から、返信が来ていたのは知っていた。
ただ、それを受けとめるために、1人の時間ができてから、とタイミングを決めていた。
なぜか、開ける前から、
返信をくれたことに、すでに、込み上げてくるものがあった。
先生からの返事はこうだった──。
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葵さん、こんにちは!勇気をもってお話くださって、ありがとうございます♡
本当に長い間、よくぞここまで頑張ってこられましたね^^
葵さんの、とてもピュアで素直な気持ちがきけて、私は、本当に嬉しく思いますよ^^/
言いたかったのですよね、伝えたかったのですよね、しかし、そこに伝えちゃいけない、言っちゃいけない、という大人の理性をもった葵さんが、育っていった。
とても賢い葵さんが、幼い頃のあおいさんを守るために。
「言ってしまうと、どうなってしまうのかなぁ」って、とても気を使ってこられたのですよね。
本当に、長いこと、歩いてこられた、これは誰もができることではありません。本当に葵さんは、凄い人です。
葵さんが、かいてくださった、
たくさんの
「こうなりたい」
のためには、
段階がいるのよと、とっても可愛いあおいさんは、教えてくれていますね。
大人は理性をもって無理やり、左から右へってできるけど、私はそうじゃないのよと。
そして、そうはさせないわって。私を大切にしてほしい、そのように聞こえてきます♡
そして、葵さんは大切にしたい、本当に、本当に、あおいさんのことを大切にしたい、そう聞こえてきます^^
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私は、枕を濡らした。
1行1行に、
「うけとめています」と印字されているかのように、こちらに伝わってくる、この、文章は何なのだろう。温かさの塊でしかない。
先生は、うけとめてくれた──。
この、暴走した私を──。
承認欲求の塊の、私を──。
そう、そうなんです。
ありがとうございます。
わかってくれて、ありがとうございます。
この、不出来な生徒に、
こんなに温かな言葉をかけてくださる、
そんな先生に、
「わかってくれるか?理解できるか?」
そんな挑戦状を叩きつけるような感覚も持ち合わせていた自分を、恥じた。
煌々と、燦々と、降り注ぐ温かな光が、
外でもなく、自分の胸の中心に、
降り注いで、じんわりと心を温かくしてくれた。
私は、こう返事をした。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
ありがとうございます
温かい言葉が、じんわり染み込んできます…
メッセージを、送った後で、
「また相手に棘を刺しているんじゃないだろうか」
「感情、自我の暴発か…」
「また自分を責めているのでは」
と、頭の中がぐるぐるしていました
でも、書かせていただけてありがとうございます
ほんの少しの違和感かもしれないけれど、きっと自分が「"与える愛"ができる支援者」を目指す上では
とっても大事な局面なんだということも、自分でわかっていて…
これは、今まで向き合わなかった、自分の大きな課題です。
先生に以前、
「どうしてゆきさんは、いつも与えられるんですか?」
と聞いたと思います。
本当に、ゆきさんのマインドが憧れで。セミナー、レッスンを受けると、いつも元気を貰えて。
私も、そうなりたいって
私らしくそうなりたいって
思っていました(思っています)
今、
やはり、ゆきさんの元で学べて
本当によかったなぁと思います。
向き合わせてくださり、本当にありがとうございます
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
そして、
心配しているであろう、
仲間のメッセンジャーにも。
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メッセージありがとうございます。
『自己一致』ですね。
そうだ、そうだ、
だから、自分の考えている『違和感』を大事に見てあげてもいいんですね
とっても安心します。
こんな、褒め褒めやらないとか言ってる問題児、ゆきさんの生徒で初めてだろうなぁ……迷惑かけてるよなぁ……
と思いながら、
今なら、
教室の中に入らなかった子ども達の気持ちが、少しわかる気がします。
あの子達は、あの子達なりに「違和感」を感じて、訴えていたんだ、と。
それなのに、「やる事ならないで、甘ったれてる。やりゃいいのに」くらいに思ってました
本当は、私だって
本当の気持ちを言いたかったけど、言えなかった(言わなかった)
母に甘えたことも記憶にありません。だから、仮病を使ったり、病気の時に優しくしてもらえるのが嬉しかった。
生理が始まった時も、すぐはお母さんに言えなくて。しばらくは学校でもらった試供品を使って凌いでいました。お母さんに、身体のことを聞かれるのが嫌だった
それが、私の見てきた、感じてきた家庭です。
だから、私は、自分の子ども達とは、本音で話せる親子関係を築きたいと思っていました
そして、今、子ども達の、子供らしい言動や笑顔が見られていて、とっても嬉しい毎日です
ゆきさんや、皆のように、
育児のことを前向きに話せる仲間がいること、
心をコントロールする過程を踏ませて貰えていること、
それが心の底から嬉しいです。
本当にありがとうございます
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
とめどなく押し寄せ、溢れ出る涙を、自由にする。
もう、我慢しなくていいんだ、泣くことも、嗚咽を漏らすことも。
起き上がって、頬や耳や、こめかみや、様々に幾筋も伝う涙を拭き取る。
ねている子ども達の横で、子どものように泣きじゃくる私。
でも、気分は晴れやかだった。
書き終わったあと、
「もう、手離せる」「もう、手離せるよね」
ふと、そう感じた。
もう、心地いい世界に行こうよ。
私の中の、私が、そう誘ってくれている、と。
そして、私のお母さんの顔が浮かぶ。
そうだ、お母さんも、お祖母ちゃんに
本音を言えなかったんだね。
辛かったんだね。
いつも、そっけなく
お祖母ちゃんの言葉に返答している理由が
今、やっとわかったよ。
お母さんは、お祖母ちゃんを大切にしていないんじゃない、
お母さんは、お母さんの心を、大切に守ろうとしていたんだ。
小さい頃の、甘えられなかった自分が、本音で話せなかった自分が、顔を覗かせてくるようで、怖かったんだね。
期待して、裏切られて。もう、誰にも頼らないと決めて。
そこから、お母さんは「強い自分」を生きてきたんだ。
大丈夫、お母さんが頑張ってきたことは、
私達が知ってるよ。
お母さんが、本当はどんな風に、
我が子に対して愛情を注ぎたかったのか、
孫への態度をみれば、すぐに分かるよ。
あれは3日前、
「もうお前達には世話になんねえ。お世話になりました」
と啖呵を切って出ていったのに、
2日後には
ひょこっと訪ねてきて、「風呂入ってもいいか?」と聞いてきたのにはびっくりしたし、面白かったよ。
遠慮もいらないし、
好きなように居てくれていいんだから。
私が、産後鬱のようになったときに
何にも言わずに、ご飯とお風呂を整えてくれて、優しい笑顔で迎えてくれたのは
どこの誰だっけ?
お父さんとお母さん、
あなた達がいたから、
今の私がいます。
あなた達から与えられた愛を、
今度は、我が子や、私の周りの大切な人達に
注いでいきます。
──心の中の、大きなしこりは、
私を包む、大きな光となった──。