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いつだってはじめては(二)

 震災の日、私は図書館にいた。まだ大学受験が終わっていなくて、参考書で勉強に励んでいたのだ。それが起こったのは夕方頃。最初の揺れから、いつもの地震とは様子が違うと感覚的に理解できた。だが、咄嗟のことだから机の下に入ることもできず、周囲の状況をじっと見守った。
 そうしたら、今度は横揺れがきて、しばらく続いた。ぎしぎしと机の脚が軋み、あちこちから本の落ちる音がした。頭上にある蛍光灯が落ちてこないか不安に感じ、そこでようやく机の下に潜った。周りの人たちも同じようにしていた。子どもは、恐怖からか泣き声を発していた。
 落ち着くと、みな机の下から這い出てくる。窓ガラスにヒビが入ることもなく、蛍光灯も落下していない。ただ、本棚からたくさんの本や雑誌が地面にこぼれていた。図書館のスタッフが緊張した面持ちでやって来、怪我人がいないか確認を取っている。
 かなり大きな地震だったらしい。私は家族や友達が無事かどうか心配になった。まず、家族に電話をかけようとして――つと、躊躇する。やっぱり、と思い直して栞の番号を選択する。誰よりも栞の安否が気がかりだった。
 だが、同時に大勢の人が電話やメールを試みたためか、電波が通じない。携帯がその役割を発揮できなくなっていた。家族にもかけてみたけれど、こちらも無理だった。「あけましておめでとう」を伝えたいときに回線が混雑する元日みたいだ、そんな考えがよぎったけど、現況はまるでめでたくない。
 結局、安否を確認できたのは夜になってからだった。あちこちで動揺する人々の声が聞こえる中、図書館から自宅までがんばって歩いた。帰り着いて、家族全員の無事を知る。そして、すっかり使いものにならなくなっていた携帯を久しぶりに見やると、栞からメールが届いていた。
『地震、かなり大きかったね。私は無事でした。京は大丈夫ですか?』

『アルバイトの面接のときは私服でいいと思うよ。まあ、スーツがダメっていうことはないと思うけど。京、バイト始めるんだ。実は、私も応募して、近々面接があるんだ。お互い、考えることは一緒みたいね。』
 数時間経ってから返信があった。栞はたとえ日を跨いだとしても、「遅れてごめん」とは言わない。私も急かすことは決してない。気にしなくてもいい、些末なことだという了解があるから。
 私服で行くものなのか。スーツデビューは持ち越しになりそうだ。でも、待ち焦がれる分だけ出番が到来したときの喜びは大きくなるはず。
 数週間前の震災のことを思い出していた。揺れの強さに恐怖したし、身近な人がみななんともなくて安心した。しかし、ニュースで映し出された東北地方の惨状は、私の心を深く抉った。津波が、信じられない速さと力で何もかもを奪い去っていく。震源だった東北では、東京以上に揺れと津波の被害がもたらされた。
 こんなことがあるのか。それが正直な感想だった。とても現実に起こっている出来事だとは思えなかった。それくらい、その光景は絶望的に映った。でも、残念ながらそれは現実。
 気持ちは塞いだけど、東京では日に日にかつての様相を取り戻していった。学校の日程に変更を来たしたわけだが、アルバイトを始めてみようかなと思えるくらいには、平和な日常が戻りつつある。
 それにしても、栞までアルバイトを始めるなんて意外だ。ずっと傍にいるからこそ、彼女が僅かずつでも積極的な性格になっているのが分かる。
 どこで働くのだろうか。私と同じように、本に関わる仕事を選ぶのかな。またメールで尋ねてみてもよかったけど、そのうち詳しく聞けるだろうと考えてやめた。

          *

 わたしは京に人生をもらった。周りの人と同じ方向へ踏み出すための息を吹き込んでもらったのだ。
 そして、そこに彩りを添えたのはきっと桜だった。
 桜は明るくて、元気な子。クラスの中心にいて、くるくると表情を変え、あたり一面に笑顔を振りまいていた。かつては、わたしたちとは少し距離が感じられた。
 京と二人で学校生活を送るようになって、春が終わりを迎えて。小学校までとは違う新しい勉強、人間関係。でもその隙間を埋めていたのは本を読むことだった。元から読んでみたいものはたくさんあった。それに加え、京と出会ったことで、薦められて興味を抱く機会ができた。あっという間に世界が広がっていく。一人でも十分楽しいつもりだったけれど、読書は共有することでよりきらめきを増す。
 放課後、部活に入っていないわたしと京は図書室に通った。毎日、というわけではないけど、そこで一日の残りの時間を過ごすことが自然に思えていたのだ。
 その日も二人で図書室へ行って、思い思いの本を静かに読み進めていた。
 日が傾いてきた頃、そっと忍び込んできた珍客があった。いつもは透き通る声を響かせているのに、いつにない静謐さをたたえた桜だった。
 わたしたちに気づくと、てくてくと歩み寄ってくる。先に気配を感じ取ったのは京だった。顔を上げて、桜と目を合わす。その視線の動きにつられて、わたしも本から目を離した。
「同じクラスの田島さんと――」
「東海林、です」
 京と違って、わたしは名前を覚えてもらえていないことがしばしばあった。ただでさえ苗字は読みにくいし。
「東海林さん。二人とも、いつも放課後はここにいるの?」
 こくりと頷き返す。
「部活動もせず?」
「そうね。文芸部でもあったらよかったのだけど」
 京がすらすらと答える。ちょっと声が硬い気がした。
「ふうん」桜は安心を与えるように笑みを浮かべる。「読書が好きなんて、素敵なことね」
「あなたは、部活に入っているんじゃないの?」
 訊いてみると、うん、と首肯する。
「吹奏楽部に入っているの。音楽が昔から好きだったから」
「音楽――それも、素敵なことね」
 素直な感想だった。桜は微笑むことで応えた。
「あなたたち、とっても仲がよさそうで。遠くから眺めて、憧れを抱いていたの」
 わたしからしたら、クラスの真ん中で愛らしい表情を見せている桜の方が羨ましかった。憧れを抱いている、なんて意外な言葉だ。
「わたしも仲間に入れてくれないかしら。あなたたちと友達になりたい」
 わたしだったら絶対に言えない台詞。友達になりたい、そんな風にあのとき言えたらどんなに楽だったか。
「あ、わたしのこと認識してる? 安岐桜っていうの」
 大丈夫、よく知っている。
 思えば、京とはじめて話したのも図書室だったが、桜ともそうだった。このときは戸惑いも大きかったけれど、温かい気持ちで迎えられる環境ではあったのだろう。

 桜はその日、やる気が欠如している吹奏楽部の部員らに業を煮やし、感情を爆発させていた。小学校高学年からトランペットを吹いていた彼女は、中学校で音楽に本気で打ち込みたいと願っていたのだ。しかし、理想とかけ離れた現実を突きつけられる。吹奏楽部では、先輩たちはまじめに練習をせず、おしゃべりに興じるばかり。同級生たちもそれに追従するだけで、音楽は片手間になっていた。顧問も名ばかり。
 いつもにこにことしている桜が突然声を大きくしたことに、周囲はびくりと反応した。強い眼差しに驚く。だが、桜は、これは手応えがないと直感した。なんだかんだと言い繕って、今までのぬるい日常を失わせないようにするはずだと。
 自分が内側から空気を変えることができるかもしれない、そんな目論見は一気にしぼむ。音楽なんて、ほかの場所でもできる。何も部活にこだわらなくていいのだ。そう考えた桜は、吹奏楽部から離れる決意をする。

 すべては後になってから聞いたこと。
 彼女は中学校生活をリセットしたかったのだろうか。改めて自分の周りを見つめ直すきっかけになったのだろうか。深い理由はもはや分からないけど、桜が新たな居場所として手を伸ばした先には――わたしと、京が。
 当初は戸惑いながらも、不器用な二人は少しずつ彼女を受け入れていく。そして、すぐに三人でいることが自然になっていく。わたしと京の二人でも、互いの持っているものがそれぞれの持っていない部分を補っていたけれど、桜はまた異なったよさを有していた。バランスがよかった、と振り返ればいいのかな。
 三人は友達になった。仲よしになった。
 桜の花びらはとうに散っていて、来年まで巡り会えないと思っていた矢先、桜と近しい関係に変わった。

          *

 かなり時間に余裕をもって、都内でも有数の繁華街へと向かう。鞄の中に白いシャツとペン、メモ帳などを忍ばせて。初出勤だから絶対に遅れるわけにはいかない。
 希望していた大型書店でアルバイトとして働かせてもらえることになった。私服で臨んだ面接は予想に反して和やかで、人のよさそうなおじさん二人と雑談をした感じだった。翌日、電話で来週からうちで働いてくれないかと伝えられた。これで、晴れて書店員。
 しかし、今度の緊張は面接の比ではない。何しろバイトをしたことがないから、店側に立ってお客さんと接するなんて想像つかない。慣れるまではほんとうに大変そうだ。
 いきなり売り場に立たされるのだろうか。なんにしても、自分からやりたいと応募したのだから、できる範囲で挑むしかない。
 さっきから読んでいる本の内容が頭に入ってこない。考えごとでいっぱい。でも、自分からやりたいと応募したのだから、できる範囲で――それは、さっきも言い聞かせた。大丈夫かな、こんなで。
 私は大人っぽい見た目と昔から言われてきた。顔立ちがまあまあ整っていることも手伝って、何ごとにも物怖じしなさそうな印象を持たれがちだ。
 だけど、内面はけっこう臆病。あれこれ考えすぎてしまうきらいがある。そして、すごく気を遣う。小学生の頃は「優しい」と言ってもらえた。でもそれは、大人になったら「消極的」に変わる。自覚している分、見透かされないように努めているが。
 桜とまともに話したのは、図書室がはじめてだった。今でも憶えている。栞といつもどおり読書しているときに、唐突に彼女は近づいてきた。
 中学生になってすぐは、同じ小学校出身の友達を中心に仲よくやっていた。それで、桜とも顔なじみでは一応あった。明るい性格、とひとことで言ってしまえば簡単だけれど、それぞれが密かに抱えている新しい環境への不安を、少しも感じさせないきらめきが見えた。
 だから、急に歩み寄ってこられた瞬間、かすかな抵抗を覚えてしまった。どうして、あなたが私たちの仲に入ってこようとしているの? 言葉にこそしなかったけど、声の調子と表情に、もしかしたら表れていたかもしれない。そして、きっと桜はそれに気づいていた。
 私は見た目で損をしていると思ったことはない。ただ、与える印象がどんなものか気にしておいて損はない、とは思っている。桜にはそんな必要がなかった。だから私たち三人はすんなり同じパッケージに収まることができた。
 電車が目的地に到着した。同時に数多の人たちが吐き出される。眠らない街。お店も忙しそうだと、今さらながらに思い至った。

 建物の複数階を有しているその書店の、最上階が更衣室のあるところ。関係者以外立ち入り禁止。面接のときもこのフロアに足を運んだけど、そこへすんなり入れてしまうことがなんだか不思議だ。
 ロックを解除するために暗証番号を打ち込んで、更衣室に踏み込む。胸を軽く押さえるようにして。
 室内はかなり手狭だった。必要最小限のスペースを用意しましたよ、と言いたげな。何人かが着替えをしている。
「おはようございます」
 もう夕方だというのに、おはよう、と言われて新鮮に感じた。たぶん、働く現場では当たり前のことなのだろう。真似をして、「おはようございます」と返す。
 着替えていたのは同じ年頃の人たちだった。きっと、これから売り場に出る「遅番」。時間帯を考慮すれば、遅番は学生が中心なのではないかな。
 服装の規定はいくつか設けられていた。上は白い襟付きシャツ。下は長めのパンツ。ジーンズでもいい。スカートはダメ(確か、社員さんは許されている)。動きやすい靴。その上から、支給されているエプロンを装着する。エプロンをつけると、まさに書店員という感じがする。
 まだ実感が湧かなくてふわふわしていたけれど、ようやく芽生えてくる。これから働くのだ。
 少し早いが売り場に向かうことにした。雰囲気を感じ取っておこう。
 バイトはエレベーターの使用が許可されていなくて、階段で下まで行かなければならない。学習参考書、洋書、医学書、ビジネス書――さまざまなフロアを通過していく。お客さんとすれ違うたびに、ぎこちなく「いらっしゃいませ」と声をかける。内心、何か尋ねられたらどうしよう、と怯えていた。頭の中で「あの、すみません」や「ちょっと訊いてもいいですか?」の幻聴が渦を巻く。
 単行本や文庫、新書の置かれた馴染みのフロア――も通過する。
 面接の最後の方で、希望する売り場があるかと問われたから、即答で文芸書売り場を挙げていた。スタートの段階で少しでも知識のあるところになれば、気持ちが楽になるに違いない。ちょっと期待していた。
 しかし、書店側にもいろいろな都合があるようで、なかなかバイトの希望どおりにはいかないらしい。私が配属されたのは雑誌売り場だった。
 普段、雑誌はあまり読まない。女性誌は立ち読みがほとんどだし、たまに文芸誌を買うくらい。ほぼ、一から覚えていかないとならない状態だ。それに、表通りに面した入口のある階なので、きっと忙しさは覚悟した方がいいだろう。
 始まる前から憂いていてもしょうがない。幸い、お客さんに何も訊かれずに済み、従業員だけが入ることを許されているバックヤードにそろりと滑り込む。また「おはようございます」が降ってきて、私も「おはようございます」を口にする。さっきよりも、はっきりと。
 中では何人かが一列になって並んでいた。更衣室を狭いと感じたけど、バックヤードもまた狭い。そのため、邪魔にならないように、みな、端に寄っている。足下にはいろんな雑誌が積まれている。
 一列になって待っている風なのは、おそらく同じ遅番。連絡事項などを伝えられる「夕礼」の時間まで待機している。
 奥には、椅子に腰掛け、パソコンと向かい合っている若い女性がいる。ほかの人が立っている中で一人だけ座っていられるのは、あの人がきっと社員さんだからだろう。長い髪を後ろで束ねている。横顔が綺麗だった。
「新人さん?」
 社員さんがこちらに気づいて、声をかけてきた。
「はい。新人の田島京です。よろしくお願い致します」
 ぺこりと頭を下げる。顔を上げると、社員さんからまっすぐな眼差しが注がれていた。あまり表情を和らげない。
「よろしくお願いします。私はこの売り場の社員、小早川です」
 それと、と私の後方に目をやる。並んでいた遅番の一人を示して、「彼があなたの指導係です。基本的にマン・ツー・マンでついてもらいます。高橋さん」
「はい」
 背の高い男の人が、少し前に出る。こう言ってしまってはなんだけど、ちょっと見た目が怖いかもしれない。いかつい。
「高橋です。よろしくね」
 怒ったら怖そうだな、と勝手に考えていたけれど、話す調子は人当たりがよさそう。
「よかったね、高橋さん。担当がかわいい女の子で」
「いやー、ほんとですよ」
 小早川さんの言葉に、高橋さんは照れる様子もなく返す。そのやりとりで、はじめて小早川さんの和らいだ表情を目の当たりにできた。かなり印象が変わる。
 バックヤードの扉が開く。また誰か入ってきた。これまた背の高い男の人で、髪を短く刈っている。何かスポーツをやっていそうだ。体格がいい。
「おはようございます」
 勢いよく入ってきたが、周囲の視線を感じて立ち止まる。胸元の名札を盗み見ると、「研修中」の文字が。私と同じだ。
「あなたが壇さん? 新人の」
「はい、そうです。よろしくお願いします」
 聞き取りやすい声で答える。
「壇、って珍しい苗字ですね」
「よく言われます。たぶん、全国でもそんなにいないと思います」
「でしょうね。――そうだ、和宮さん」
 小早川さんに呼ばれて、バイトの一人が進み出る。またしてもこう言ってしまってはなんだけど、体型がやや横に大きめの女性。でも、顔立ちは整っている。
「和宮です。壇さんの指導係を任されていますので、これからよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 和宮さんの目を正面から捉えて、壇さんは気持ちのいい挨拶を返す。これは、同期として気後れする部分があるかもしれない。
「ちょうど入れ替わりの時期で新人が三人加わって、――もう一人は明日から出勤ですけど――分からないことも多いと思います。ベテランのみなさんでフォローしてあげてください。幸い、今日はいつもに比べたら売り場は落ち着いているので」
 それでは、夕礼を始めます。小早川さんは手元の連絡ノートに目を落とす。

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