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ダイバーシティはすでにインクルージョンしているんじゃないだろうか

ダイバーシティは新しい?

ダイバーシティ(=多様性)は新しい概念かのように語られることが多いように感じる。
でも本当に新しいのだろうか?

私達日本人は、新しい概念を受け入れることに時間がかかる傾向にあると言われる。
では、ここ5年ほどで語られるようになった「ダイバーシティ&インクルージョン」は新しい概念なのだろうか。

・80歳と0歳。
・男と女。
・アイドル好きとアウトドア好き、
・読書好きと旅行好き。
ダイバーシティは家庭にもあるじゃないか。
もちろん、ダイバーシティが語られる文脈は「女性活躍推進」であり意味が違うことは承知の上だが本質的なことは共通するのではないだろうか。
家庭にあれば受け入れるも受け入れないもない。
多少違った価値観を持っていても向き合わざるを得ないし、
互いの価値観を否定してうまくいっている家族を見たことがあるだろうか。

肯定しがたい価値観への向き合い方

家庭は最もプライベートな組織だ。
もう少しパブリックな学校で考えてみよう。
公立の中学校出身の私のケースをご紹介してみたい。

いつも変わった行動を取るHくん。
急に大声を出して走り出したり、ニタニタ笑いながら女子を追い回したりするもんだからみんな腫れ物触るみたいに接していた。

中学校3年生のある日、修学旅行の班決めをする時間。
先生が
「好きな人と班を組んで〜」と指示を出した。
当時うまく自分を表現できなかったナルセ少年は、最後まで残ったHくんと同じ班になったのだった。
そしてその班でナルセ少年は班長になった。(思えば初のリーダー体験だ)

そして修学旅行当日。
京都駅でのレクリエーションのあと、
京都市内での班行動。

いくつかのミッションを達成して電車に乗り
宿泊しているホテルにたどり着かなくちゃならない。

スタートからHくんは期待を裏切らず、
一人で急に走り出す。
僕たちは追いかける。
自動販売機の前で止まっていると思えば
近づいてみるとタバコを買っている…

やっと追いつくと自分が主役であるように感じる興奮か
また走り出して姿を消してしまった。
リミット時間になっても見つからなかったので
女子たちには先に宿に帰ってもらって、
状況を先生に報告をしてもらった。

ナルセ少年は使命感からHくんを探し碁盤目状の街に繰り出した。

だけど探しても探してもHくんはいない。
時計の針を見るたび焦る。
街がオレンジ色になり。
小走りになる。
時計を見る。
また少し走ってみる。
あたりから陽の色が消えていく中で
鼓動が速くなるのを感じながら京都の街を探し回った。
完全に日が沈んだ午後8時ごろ、
疲労と不安に押しつぶされたナルセ少年は諦めた。
近くの大人に駅の場所を聞いて宿に戻ることにした。
得も言われぬ敗北感と不安感を抱いて。

宿のある駅を降り、足早に歩いていると
宿の明かりに照らされる眉尻の下がった大人たちの姿、
心底安心した。

なんと、結局Hくんは先に宿についていた。

理不尽だ。

だけど…

否定も肯定もせず、認める。

Hくんはなぜそんな行動を取ったのか。
もちろんHくんは、当時まだ認められていなかった病気の一種だったのかもしれない。
だけど僕らの関わりはあくまで
「Hくんは腫れ物」
シンプルに言えば存在を否定していたのだ。

肯定はできなくとも、
彼を認めることができたら彼が同じ行動を取っていたかは疑問だ。
仲間として。
同じ目的を果たす同士として。

記事としてはふさわしくないかもしれないが、
実際のところはわからない。

だけど広義のダイバーシティはすでにぼくらの周りにあり、
事の本質はインクルージョンされているように思うのだが
皆さんはどう考えるだろう?

https://www.udemy.com/course/narusemi-diversity/?referralCode=121554176D3A814376B4



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