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本日3月6日はミケランジェロ・ブオナローティの誕生日です

本日2024年3月6日ですが、ミケランジェロ・ブオナローティ(1475-1564)の549回目の誕生日です。
おめでとうございます!

3月6日だと覚えていたのですが、もし日にちを間違えていて、こんな記事を飛ばしたりしたら、ヒンシュク甚だしいので(;'∀')、念のため書籍の1冊を引っ張り出し、中に記載の年表を見直し、確認いたしました。
またこの著書の中に、お父さんのロドヴィコによるミケランジェロ誕生の時の記録というのが載っていました。こちらの本を目にして、こんな記載が残されていたことを初めて知りました。
著者の池上英洋氏訳のものを引用させていただきます。

1474*年3月6日の今日、私に男の子が生まれたことをとどめておく。Michelagnoloミケラニョーロと名づけた。月曜の朝、4時か5時前に、私がポデスタをしているカプレーゼで生まれた」
*当時のフィレンツェの暦。現在では1475年。

『もっと知りたいミケランジェロ』 池上英洋氏著 ㈱東京美術 2017年版

ミケランジェロは5人兄弟の次男ですが、5人の息子たち全員じゃないかもしれないけど、ミケランジェロに対しては、こういう記録を残してくれていたなんて、それだけでも良いお父さんだったなあと、ジーンとしました。
ルネサンス時代の芸術家たち(当時は芸術家という概念はなかったらしいですが)で、庶民出身で生年月日が判明している方々は少なそうです。
レオナルド・ダ・ヴィンチ(有名?)はお父さんがエリートだったからか、判明してますが、あとざっと調べたところアンドレア・デル・サルト、B.バンディネッリ、B.チェッリーニ。ミケランジェロより年下の世代ですね(他にもいるのかもしれませんが、スミマセン)。
S.ボッティチェリも、リッピ親子も、ラファエロ・サンツィオも、セバスティアーノ・デル・ビヨンポも没年月日は判明しているかもしれませんが、生年月日は諸説を含め不明です。
当時はカレンダーなんてなかったから、せいぜい確定申告の時に父親が書類に、自分の扶養している子どもの名前と年齢を書き留めたくらいだったそうです(ボッティチェリに関する著書より)。エリート層でなければ、一般庶民が自分の子どもの生年月日まで確認する手段は、難しかったかもしれないですね。
それもあるけど、私がイメージしてたロドヴィコ・ブオナローティが、こんな記録をしてくれてたなんて、ちょっと想像できなかったのもあって、個人の感想ですが、ジーンと来ちゃいました。
ロドヴィコは、少年期のミケランジェロが絵や彫刻の道に進むことに反対して、手を上げたりもした(500年以上昔の話ですからね)という伝記の中のミケランジェロの打ち明け話から始まり、彼が出世したら他の息子たち同様、金銭を当てにしまくり、それでいて最後まで職人という職業に敬意は持っていなかった。そのようなことが色々な著書の中で述べられていたから、頑固で偏屈な親父というイメージが先立っていました。それでもミケランジェロが青年期を中心に、マメに手紙のやり取りしている中で、気遣っているような表現もあるし、お互い思いやってるところもありましたね。
でも最後に残存している父宛ての手紙(1523年ごろ)が――私の創作にもコメディタッチで載せてますが――お金のことで大ゲンカして終わっているのが、少し寂しい。頑固で偏屈な似た者親子じゃ、いつかそうなるか(;'∀')
ブオナローティ家はその後、特にローマ劫掠サッコ・ディ・ローマがあった1527年以降は、国のこと含め色々波乱がありました。金のことで親子喧嘩している場合じゃなかったはず(+_+)
手紙はありませんが、哀悼の詩だかがあるようですし、お父さんが他界した当時の状況は不明ですが、少なくとも和解していたと信じたいです。

ミケランジェロの業績や作品に関しては、他の皆様が、私よりずっと素晴らしい記事を投稿していただいてますし、私も勉強させてもらってます。
それもあり、今回は割愛させていただきます。

私事ですが、数か月後、フィレンツェのサン・ロレンツォ教会の中のメディチ家礼拝堂にある地下室「ミケランジェロの隠れ部屋」を見学に、現地を訪れる予定です。ローマ劫掠からフィレンツェ包囲戦にいたる波乱の最中、ミケランジェロが命の危険を感じ、数カ月間隠れていたとされる部屋です。
最近では、本当にこの時の「隠れ部屋」だったのか、疑問の声もあるようですが、私の創作(頭)の中では、隠れ部屋にしてました。
一般公開なんてされてなかったから、この部屋のシーンを書くには、写真を見ながら想像するしかないと思っていたので、実際に目にすることが出来るのはやはり嬉しいですね。
無事に旅から戻ったら😅改めてその時の模様を投稿したいと思います。
その前にミケランジェロの痕跡を求めながら、晩年に住み続けたローマや、一時スペイン兵の侵攻から逃れ、辿りついたスポレートの町にも行きます。
これら現地を再訪問することも、礼拝堂の地下室に入れる機会も、一生無いと思っていたので、嬉しいのは山々ですが、何しろ10数年ぶりのイタリア個人旅行だし、一筋の不安も…。
「隠れ部屋」の予約ができているハズなんだけど、入れなかったらどうしよう⁉とか。あとスポレートからフィレンツェに行く予定ですが、列車乗り換えながら行くしかなく、方向音痴だし、こんな時にストライキでも起きたら!?など、変なこと考えるとキリがなくなります😂ので楽しいことだけ考えるようにします!

あと、「ふくふくにゃんこ」の『ミケランジェロ』も今日がお誕生日だそうです。(無知でスミマセンが、何回目かわかりません💦)
おめでとう!🎉

最後に、ちょこっとChatGPT35に訊いたことを報告します。

15-16世紀のイタリアの芸術家で、レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロは生年月日が判明してますが、サンドロ・ボッティチェリやリッピ親子など不明な人も多いです。 当時の庶民は確定申告で子どもの年齢を記載したりしたようですが、エリート層でないと暦は把握できなかったからとみていいですか?  (私)

15世紀から16世紀初頭にかけて、庶民の一般的な暦の把握能力は限られていました。一般的に、庶民の間では日常生活での時間の概念は季節や祝祭、農作業の時季などに基づいていましたが、具体的な日付や年齢の把握は必ずしも重視されなかった可能性があります。

一方で、エリート層や宗教機関のメンバー、政府関係者など、社会的に上位に位置する人々は、暦や時間の概念についてより詳しく教育されることが一般的でした。これは、彼らが日常的な取引や契約の中で日付や時期を重要視し、また貴族階級や教会の日々の活動においても時間の概念が重要であったためです。

しかし、生年月日が記録されなかったり、正確な年齢が把握されなかった芸術家や一般の人々も多く存在しました。時代が下るにつれて、記録の精度や保存方法が改善され、より多くの人々の生年月日や年齢が正確に記録されるようになりましたが、それでも完璧な情報が残されていない場合もあります。

(ChatGPT)

最後までお読みいただきありがとうございました!

*現在日本で3月6日am0:30です。イタリアと日本では7時間の時差があることわかっているのですが、7時間後は出勤でバタバタするので、今公開します!お許しあれ!

単なるミケネコじゃなくて、誕生日など史実のミケランジェロを彷彿とさせてくれるのが💛




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