「お母さんって○○みたい」の○○は家庭によって違うよね、きっと
子どもというのは自分の生まれ育った環境に認識を制限される。本当に世の中に対する態度に影響を与えるなぁとこのnote内を訪問させていただいていても思うけれど。
こどもというものはなにかと体に関する相談事を持ちかけてくる。
自分がそんな風にあれこれ母に言っていたかは記憶にない。
だけどわたしの母は「手当て」を教えてくれた。
母は祖母から聞いたと言っていたか。
これも記憶が定かではない。
人間というものは痛いところに自然と手が行くようになっているんだよ。
そしてこうして手を当てていると痛みが消えるんだよ。
微かな記憶の中の、数少ない優しい母の思い出。
風邪をひきそうなら葱を喉に巻けだの、おねしょが治らないとくればヤツメウナギを食べさせるだの、血止めはヨモギ、火傷はアロエ…
自然療法なのか単なる民間療法なのか怪しい領域だが、そんな母がいたおかげでわたしもハーブだアロマテラピーだ、果てはヒーリングだなんて西洋医学一辺倒ではないからだにやさしい生き方を選んでいたのかもしれない。
逆に言うと前世のひとつで、森を歩いてハーブやキノコの採集をしていた所謂ドルイドだったわたしだからこそ、ごく自然に母の子として産まれることを選んだのかもしれない、とも思う。
勿論もっと深い複雑で強固な理由も繋がりもあるのだろうけれど、そのうちのひとつには違いない。
というわけで、わたしのこどもたちはというとなにかあると「ラベンダーは?」とか「ヘリクリサムどこ?」とか聞いてくるようになった。
痛みがあると「マッサージして」と求めてくる。
しゃっくりをとめてあげるのもわたしの仕事だ。横隔膜のあたり、胸と背中を掌でサンドして、少し息を止めているよう促すと大抵止まってしまう。
なんとなくやっているだけだが、暗示がかかったように止まるのが面白い。
医者に頼るべきときとそうではないとき、薬に頼るべきときとそうではないとき、そんな見極めが必要なんだと感じてくれるようになっていた。
ペットがどんなふうにどれだけ悪いのかは本当には医者で精密検査をしなければわからないことだけれど、ヒーリングで元気になる姿をなんども一緒に見てきたこどもたちは、どうにもならないことがあることを知っていると同時に、できることがあることも知っている。
こどもが小さかったとき、よく「痛いの痛いの、とんでけー」をした。
痛みが強そうな状態に出会ったときは「とんでけー」した後まだ居座る「ソレ」を引きむしって丸めてポイっと投げてやった。
これはこどもが大いに喜んで、あらゆるバリエーションで「痛いソレ」は時に間違ってママやパパにくっついてしまったりしながらいつもどこかへ飛んで行った。
こどもが痛いと訴えると不機嫌になるお母さんがいるという。
娘の友人の話だった。
多分、きっとそのお母さんは怖いんじゃないかなぁ?と娘に投げかける。
本当に自分の子どもが怖い病気だったらって想像したくないから、嫌な気持ちが出ちゃうんだよ、と。
本当のところはわからない。
学校に行くのにこどもにパーマをかけさせたり、挨拶も無視するお母さんだ。自分の感覚だけでは予測がつかない。
家庭は閉鎖的な空間だ。
こどもにとっても、親にとっても、ふと違和感を覚えてそこで声も上げられずにいるこどもに手を差し伸べたいと思った周囲の人間にとっても。
こういう時、自分がもっとオープンに交流するタイプの人間だったら、お母さんとこどもと両方のこころに自然に手が届いただろうかなどとふと思ってしまう。何もしなくても、違うタイプの人間が近くにいることで自然とバランスがとれたかもしれないとも思う。
ある親子の姿が身近にあったことでいまのわたしがあるように。
娘のその話を聞いてからもう何年も経ったことになる。
どうか光よ届け。
こどもが成長して社会が拡がることで、明るい光がその子にもたくさん届いてる。きっと、そう思う。
わたしが抱きしめきれなかったわが子のこころにも、たくさんの温かな手が伸びて包んでいてくれているから。
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