見出し画像

あらゆる「不思議」を解き明かす

量子力学という学問は、不確定性原理という原理を生み出した。

「…量子という小さいものはね、運動量を測定すると位置が、位置を観測すると運動量がいい加減になってしまう」
「…位置を決定すると、その途端に運動量は無限大に不正確になる。運動を測ると今度はどこにあるんだか解らない。つまり観測して決定してやるまでは正しい形はない…これは即ち観測者が観測したそのときに、初めて観測対象の形や性質が決まるという、そしてそれが決まるまで対象は確率的にしか捕えることができない…」

「…〈観測する行為自体が対象に影響を与える〉…正しい観測結果は観測しない状態でしか求められない…そして、量子力学が示唆する極論はーーこの世界は過去を含めて〈観測者が観測した時点で遡って創られた〉…」

『姑獲鳥の夏』 講談社文庫刊 p.63〜p.64より一部抜粋



私たちが目にするすべてというのは、目にし認識した途端に性質が変わり、影響が与わっていない対象物を正確に認識する唯一の方法は、目にしていない状態でしか推し量ることができないという論です。

私たちのこれまでの経験や常識に照らし合わせて物体を認識し、理解しているに過ぎず、それが果たして正しい状態、認識なのかはわからない。




今こうしてパソコンで文字を打ち込んでいる私の後ろにこの世ならざる物がいる可能性というのは、振り返って後ろを確認しない限り、フィフティーフィフティーです。

要するに、観測をしない限り、そこに「幽霊がいる、否、いるはずがない」と判断することは不可能であるということ。
しかし、観測をした時点で、事象は変容するわけですから正確な認識はできない。よって、振り返って幽霊がいなかったとしても、それは変容した後かもしれない。
私の後ろに幽霊がいるかいないか、確率は同率というわけである。


ですから、今このnoteを読んでいるあなたの後ろに、この世ならざる物がいる可能性というのも…同様に確からしいということです。


…どうぞ振り返ってみてください…





画像2

『姑獲鳥の夏』 講談社文庫 1998年発行


ということで、私の敬愛する京極夏彦先生の『姑獲鳥の夏』の一部から少々抜粋をしました。
京極夏彦先生尊敬しております。

この方の知識というのはどこまでも幅広いです。
その知識を小説として落とし込む力量。脱帽です。
作中では、先の量子力学の話にとどまらず、さまざまなことについて深く語られます。
そして、一見無関係に思えるそうした話が、事件の解明に深く関わっていく様は、まことに痛快です。


先ほどの『姑獲鳥の夏』という小説は、「百鬼夜行シリーズ」というシリーズの第一作目です。

『姑獲鳥の夏』、『魍魎の匣』、『狂骨の夢』、『鉄鼠の檻』、『絡新婦の理』、『塗仏の宴』、『陰摩羅鬼の瑕』、『邪魅の雫』…と続くシリーズです。

私は、『陰摩羅鬼の瑕』まで所有しているんですが、読了済みは『鉄鼠の檻』までです。

「大好きなら全部読めよ!!」というお叱りの声が聞こえてきそうですが、このシリーズ一作一作が恐ろしく分厚いのです…
特に『鉄鼠の檻』からの分厚さはものすごく、読了までにかなりの根気がいります。

画像1

『鉄鼠の檻』 講談社文庫 2001年発行
本編実に1341ページという文庫にあるまじき分厚さです。

現在は、時間を見つけて『絡新婦の理』に取り掛かっているところです。
これだけの分厚さですが、私は今のところ『鉄鼠の檻』が一番好きです。
「禅」が物語の主軸にあるんですが、眼から鱗なお話ばかりで、分厚いですがまったく気になりません。


作中では、ありとあらゆる不思議が現出し、そうした不思議な事件に巻き込まれていく登場人物たちを軸としたストーリーが展開されます。
私の様な一読者も一緒にその不思議に翻弄され、不安になり、巻き込まれていきます。


「この世に不思議なことなど何もないのだよ」


本作の主人公、京極堂の言い放つこの言葉に、読者である私までも、まるで憑物が落ちていくような感覚に陥ります。

ぜひ、このうだるように暑い一夜に極上の物語に触れてみてはいかがでしょうか?

スキ、フォローいただけると励みになります。 気軽に絡んでくれると嬉しいです\( 'ω')/