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ヴェッツラー②ライカの世界へ

ヴェッツラー①に続き、ヴェッツラーに本社を構える高級カメラブランド、ライカについて。

まずは、ヴェッツラーの街に残されている、創業期のライカ跡地。

顕微鏡部門の本社は、今もなおヴェッツラーの旧市街から見える場所にある。

会社前の通りは、Ernst-Leitz Strasse。

現在のカメラ部門の本社は、ヴェッツラー市内から南東に約5キロの場所にあるLeica Weltライカワールド内にある。

ライカワールドは、本社のみならず、博物館、工場、ショップ、カスタマーセンター、カフェ、映画専門ビル、ギャラリーなど、たくさんの機能が集約されている複合施設だ。

まずはミュージアム。
本社見学ツアーに参加したので、ここから説明が始まった。

ミュージアム一階部分はストアと、ショップ、レンタル撮影所、そしてギャラリーがあり、ライカで撮影された写真が展示されている。
また上階には、写真撮影に関わる教育施設も備えられているそうだ。

各建物は、カメラ部品を連想させるものもあり、こちらはレンズをイメージしたものだという。
右側の建物が本社。

こちらの建物は、主に時計部門を扱う部署で、また地域や個々の店の相談なども、ここで行われるそうだ。

こちらは、映画関連部署。 

世界中から、ライカの商談や見学に来る方のために、ホテルまで用意されているという。

建物外観の説明の後は、本社エントランスへ。
わぁ!と声を上げてしまうほど、洗練された雰囲気。
(因みに、ツアーでなくとも、本社内の展示物の見学は可能)

ライカの歴史は、元々ヴェッツラーの街にあった顕微鏡メーカー、Optisches Instituteから始まる。(1849年)

会社を引き継いだフリードリッヒ・ベルトレFriedrich Berthleの時代に、一人の作業員をスイスから呼び寄せた。
彼の名前はユンカース。
当時スイスは、そのレベルと生産性の高さで評価されており、ユンカースはそのスイス方式をドイツに導入した。

また、ユンカースの勧めにより、もう一人の作業員を引き抜いた。
その人物が、Ernst Leitz I エルンスト ライツ1世。
ヴェッツラー市内の通りの名前は、彼の名から取られている。
彼は顕微鏡だけでなく、双眼鏡とカメラの生産をスタートさせた。

その時に雇われたのが、Osker Bernach オスカー・バルナック。
彼こそが、初めて小型カメラの生産を成功させた人だ。
彼は元々はカメラを作るつもりではなく、映画関連の装置を作るために試行錯誤している際に、たまたまこのような小型カメラの制作方法を見つけたそうだ。

ライカLeicaとは、LeitzとCameraの組み合わせ。
小型カメラの第一号(レプリカ)がこちら。
Ur-Leicaと呼ばれている。

そしてヴェッツラーの街で見つけたこちらの案内は、彼が小型カメラにて、一番最初に撮影したヴェッツラー市内の様子。(Eisenmarkt)

同じ場所から、同じ建物を撮影してみた。
今は携帯電話にカメラ機能が加わり、写真撮影は以前よりずっと身近なものになっている。
しかし、この白黒写真こそが、小型カメラで撮影された最初の一枚だと知ると、とても感動的だ。

ツアーでは、一つ一つのカメラの歴史や、性能の変化や向上を、私のような素人でも分かりやすいように、細かく教えてくださる。

戦後、せっかくカメラを生産しても、月収の何ヶ月分かに相当する値段のカメラは全く売れず、厳しい時代が続いた、とガイドさんが説明する。
値段が高いのは今でも変わらないでしょう?と野次が飛び、みんなで笑った。

また、ライカの歴史の中で特に重要な36枚の写真が飾られている。

今では特別でもない、何気ない一枚の街角の写真。
しかし当時は、写真を撮るためには、約7分ほど身動きをしないようにしているのが通常だったそう。
このように、日常の一コマを切り取るというのは、とても難しい事だった。

アメリカ市民に、ベトナム戦争の恐ろしさを伝えた一枚。

その他にも、見覚えのある写真がずらりと並んでいる。
全てライカで撮られたものなのだと知ると、感慨深い。

モンタージュの様子も見る事ができるのだが、実際に組み立てしている所だけは、写真撮影が禁止されている。
一箇所のみ、大きな写真を使い、内部の様子を示している所があった。

一つ一つの部品を、それぞれのかたが手作業している。
なるほど、高価な理由はここなのだと納得した。
大量生産、大量消費ではなく、一つ一つの部品、組み立てに拘り、その商品に価値を見出す姿勢。
近寄りがたい神聖さを感じ、良い意味でドイツらしいと感じた。
これが、ライカブランドのイメージでもあり、戦略かもしれない。

モンタージュの様子(館内写真)

カメラや部品の展示がずらり。

コンパクトカメラのコーナーでは、パナソニックとの共同契約についても触れられた。
こちらの商品は、ドイツ国内では生産されていないと説明があった。

展示の最後は、望遠レンズで終わっている。
これは、スポーツ用だそうだ。
ガイドさんの話によると、ライカは軍事用の望遠レンズは一切生産しておらず、世の中に出回っているものがあるとすれば(実際に出回っているらしいが)それは贋物だということを、強く主張していた。
軍事用に作られたものは一切なく、それがライカの揺るぎない精神だということだ。

戦時中、この街は爆撃の対象となった。
それは、この技術が軍事用に使用できると判断されたからだろう。
あらゆる平和的な目的で生産された物も、見方を変えると軍事用に変換される。
これから先もずっと、この精巧な技術は平和的目的の為だけに使われて欲しい。

最後に、ライカカフェで一休み。
ドイツ国内の美味しいケーキ屋さんに贈られる賞を、三年連続で受賞しているらしい。
とても美味しいラズベリーケーキだった。

赤い丸が特徴的なライカ。
ヴェッツラーの街のガイドさんの言葉を思い出す。

私達市民は、この赤い丸を誇りに思っているのよ。

高級カメラとしてしか認識していなかった私は、このヴェッツラーの街に来てから、ライカが身近に感じられるようになった。
それどころか、少し好きになってしまったくらいだ。

ライカワールドを訪れていた皆さんは、熱狂的なライカファン。
皆さんがそれぞれのライカを手にし、目を輝かせながら歩いていた。

私は生憎カメラの知識がないので、iPhoneのカメラの手軽さが丁度良い。
ライカのような性能の良いカメラを手に入れても、私ではきっと宝の持ち腐れとなってしまうだろう。

でも、これほど身近になったカメラの第一歩は、この街から生まれたのだと知る事ができたのは、とても感動的だった。

私もいつか、赤い丸のついたカメラを手にする時が来るかもしれない。

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