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『竜とそばかすの姫』映画評・あなたは誰?

どうも、わたしはササクマです。

今回の映画評は『竜とそばかすの姫』です。

細田守監督、前作から3年ぶりの完全新作。そして『劇場版デジモンアドベンチャー』、『サマーウォーズ』と続く、インターネットを題材としたストーリーとのことで、ファンからすれば期待が高まりに高まったタイトルです。

かくいうわたしも、劇場公開を待ち望んでいたひとり。海外評価は高いけど、前作『未来のミライ』は残念だった。金払って裕福な家庭のホームビデオを見されられただけ。それでも、わたしは細田監督を信じたい。一刻も早く悪夢から目覚めたく、すぐに映画館へと足を運びました。

感想としては、おもしろかったです。期待してたハードルを飛び越える仕上がりで、「俺たちの細田監督が帰ってきた!」と声高らかに叫びたい気分でした。

しかしネットでの評価を見ると、けっこう批判的な感想が多い? この映画を観ておきながら、よくもまぁ変なアイコンと匿名で批判できるな……。そんな彼らも細田監督作品が好きだからこそ、あえて苦言を呈しているのでしょう。わたしも人のことは言えませんので。

事実、ストーリーには難解な点があるにはあります。そこを指摘するのは簡単ですが、なんでそうなったかまで調べている方は少ないようでしたので、わたしが書こうと思いました。


※ネタバレ全開です。あらすじ・スタッフ・キャストについては、公式サイトの参照をお願いします。


○『竜とそばかすの姫』の原点

本作は細田監督が影響を受けた作品、『美女と野獣』がモチーフとなっています。1991年にディズニー版が公開された当時、監督は東映に入社したばかりの駆け出しアニメーターでした。あまりの激務に辞めたくなっていた頃、『美女と野獣』に感銘を受けて仕事を続けたらしいです。

特に野獣が好きで、最初は暴力的だったのがベルという愛らしい存在に感化され、次第に内面が変化していく過程が素敵に見えたとのこと。原作が刊行された18世紀フランスは封建社会であり、暴力によって女性を支配する構造がありました。その暴力を象徴するのが野獣であることから、『美女と野獣』は時代性を巧みに反映させた作品です。

自分もこんな映画を作りたい。しかし、時代を変えて同じ物語を制作するには、現代の社会問題を正確に捉えなければいけません。だからこそ、細田監督は『美女と野獣』のモチーフを、インターネット世界で描くアイデアを閃きます。

野獣の持つ恐ろしい外見と優しさの二面性と、インターネット上と現実の人格の二重性は構造的に似ているのではないか? それでいて暴力を象徴とする野獣とは異なり、現代人は深い心の闇や孤独が根源にあるのではないか? ゆえに闇や孤独としての象徴を「竜」とし、その傷がなぜできたかを巡る物語となりました。

で、説明上ややこしくなってしまうのですが、本作で二面性を抱えているのは「そばかすの姫」です。高貴でロマンチックな姫と、そばかすという親しみやすいイメージの混在。実は野獣側に当たるのが主人公なので、題名もあえて竜を先に持ってきたとのこと。


○すずの原動力

主人公すずは母の影響を受け、歌を歌ったり、アプリで音楽を作曲することが大好きになります。母に曲を聴かせたり、歌ったりすることが一番の喜びでした。

しかし、母は川の中州に取り残された女の子を救出し、自分は戻れず亡くなってしまいます。すずは最愛の母がいなくなってショックですし、なぜ母が見ず知らずの女の子を助けたのかも理解できません。

さらに追い討ちをかけるように、インターネットでは事件について匿名の書き込みが溢れます。内容は心無いものが大半で、悪意に満ちた書き込みを遺族として受け流すのは困難です。

心的外傷を受けたすずは、自分が歌えないことに気づきます。聴かせる母がいないのであれば、歌を歌う意味も、作曲する必要性もありません。心の穴を埋められない彼女は、ただ無気力に生きるのでした。


そんな時、仮想世界『U』を起動します。Uの中では誰もベルのことを気にしません。その誰も顧みない環境はかえって好都合であり、彼女は前から試してみたかった歌を歌います。まるで生まれ変わったかのような心境だったからこそ、ベルは何も気にせず歌を歌い上げることができました。

しばらく活動して人気絶頂の最中、ライヴ中に竜が乱入します。竜に対する観客のブーイング、そして背中のアザを見て、ベルは思わず「あなたは誰?」と問いかけました。現実の自分と何か通じるものがあったのでしょう。

突然のハプニングでライヴが中止になり、親友のヒロちゃんは怒り心頭。会話の流れで竜の正体を探ることに。竜が誰か気になってたすずも、その提案に乗り気です。そして唯一の手がかりを元に、ベルは竜の城に辿り着きました。攻撃的な見た目とは正反対の、繊細な思いやりの二面性にベルは惹かれます。

二面性が気になったからこそ、派手な背中のアザではなく、本当は心が傷ついていることを見抜きました。竜もベルに心を開き、一緒にミュージカルシーンへ。それでも竜は自分の正体を明かしません。


その後しばらくして、竜の城が襲撃されます。竜がアンベイルされてオリジンを晒せば、個人情報の流出と誹謗中傷は避けられません。最悪の事態を未然に防ぐため、すずは竜のオリジンを先に探そうとします。

(いや、ずっと竜がログアウトしとけば、アンベイルされる危険は無いのでは? と思うでしょうが、竜にとってUは唯一の居場所です。また弟にヒーローの姿を見せることで、励ましたかった気持ちがあります。事実、竜は子どもたちに人気がありました。なんでか知らんけど。ちなみに竜の強さの謎は、抑圧された状況が強さに接続されたから。)

捜索を続けた結果、竜のオリジンである惠くんが、家庭内で虐待を受けている現場を目撃します。通話しても惠くんは、すずがベルだと信じてくれません。彼を助けたくても、ネット上では助けられない。

そこで、すずは素顔のまま歌うことを決意します。その姿を見た惠くんは、すずがベルだと信用しました。しかしタイミング悪く、惠くんの父親が戻ってきて通話を切ります。早く行って誰かが守ってあげなければ、ということですず自ら東京へ向かいました。

(なぜ、すずは恵くんを助けようと思ったのか? すずにとって竜が大切な存在だったからです。また、彼女は胸の痛みに敏感だったからこそ、他人の痛みを理解できます。その苦しみから助け出したいと思えた時、すずは母の優しさに触れました。)

現実の惠くんと出会い、彼の父親と対峙するすず。すずの素顔を見た父親は途端に怯え出し、惠くんは立ち向かう勇気をもらい、すずは臆病な心が解放されます。


○子どもたちの未来

細田監督はインターネットの世界を肯定的に描いてきました。劇場版デジモンでは世界中の子どもたちが応援し、サマーウォーズでも同じく全世界のユーザーが協力します。

しかし、本作ではインターネットの暗い部分、匿名での誹謗中傷についてスポットライトを当てました。ネットの世界は必ずしも良いことばかりではないけど、それでも子どもたちにとっては自由で肯定的な場になって欲しいと述べています。

かくいうわたしもデジモンが大好きで、ウォーゲームを初めて観た体験の衝撃は凄まじかったです。小学生がデジモンと一緒にウイルスを退治して、世界を救うなんて設定が革新的でした。現実とアニメの世界がリンクしている時点で、インターネットの可能性にワクワクドキドキしっぱなしです。

その設定を引き継いだサマーウォーズも傑作で、舞台がOZになっても手に汗握る展開から目が離せませんでした。世界中の人と繋がれるインターネットに、何か神秘的なものを感じていたのかもしれません。


時は進んで2021年。もはやネットは、もうひとつの現実になりました。匿名であることをいいことに、現実での鬱憤を発散する吐け口となっています。あまりにも生活と距離が近くなったせいで、現実では隠されている人間の裏がネットでは可視化されてしまう。

醜い裏が晒されることは社会的な抹殺と同義なのですが、細田監督は表も裏も同じひとりの人間がやっている以上、どちらも本当の自分だと指摘します。人間は表と裏よりも多面的であり、本人が思っても無いような異なる側面もあると。

そしてネットは魅力的な側面を明らかにする機能もあるため、もうひとりの自分と出会って変化が起き、現実の自分も強くなると語ります。例えば物語冒頭、こんなナレーションが流れました。

Uはもうひとつの現実。
Asはもうひとりのあなた。
ここにはすべてがあります。

現実ははやり直せない。でもUならやり直せる。
さぁ、もうひとりのあなたを生きよう。
さぁ、新しい人生を始めよう。
さぁ、世界を変えよう

聞く人が聞けば、笑うセールスマンのような不気味さがあります。すごい騙されてる感じ。ですが監督のメーッセージを踏まえると、このナレーションは前向きに捉えることが可能です。

もはや現実とネットが表裏一体だからこそ、ネット世界での変化は現実の自分にも作用します。ただ批判的なものばかりに目を向けるのではなく、肯定的に寄り添う目線が必要なのではないでしょうか。

過去の細田監督作品を振り返ると、どの作品の主人公も「未来」を見据えていました。『時をかける少女』は顕著で、「過去に囚われず未来に生きる」ことがメッセージになっています。過去にいろいろ複雑なことがあって今も大変だけど、未来に希望が見える終わり方です。

また、監督は私生活での影響を作品に反映させるタイプであり、『バケモノの子』は父親と息子の物語、『未来のミライ』は家族と兄妹の物語でした。そして本作は成長した娘を意識して、未来に希望を持たすメッセージを込めたのだと思います。


○作品のフィクショナリティ

はい、ここで恒例の分析手法です。

「優れた物語は99%の現実と、1%の不思議で構成されている」

世界的権威のある映画監督だろうと、わたしは容赦しません。作品の粗を探しまくります。覚悟しとけコラァ! 幼女アイコンだったら何をしても許されると思ってっぞぉ! おぎゃ!(※自分に気合を入れるための掛け声)


1. Uの世界がフィクショナリティ?

これは、わたしも悩みました。確かにUは作品の根幹ではあるのですが、インターネットは現実にもあるものです。ただエンタメとして昇華させるために、画期的な仮想世界としてUを構築したにすぎません。

それは『サマーウォーズ』のOZでも同じことです。この作品の場合は、美人な先輩の彼氏のふりをして、祖母の家へ遊びに行く点がフィクショナリティになります。ちゃんと分析したわけではありませんが、監督が嫁の実家へ挨拶に行った際、大勢の親族がいたことから作品のアイデアになったとのこと。


2. ベルの歌唱力がフィクショナリティ?

いくら音楽が好きとはいえ、ずっと歌ってこなかった少女の歌が上手いわけがない。それはそうなのですが、Uのボディシェアリング技術は、本人の隠された能力を引き出します。だから美貌も歌唱力も、Uによって高められた状態です。

また楽曲も高校生離れした作曲能力ですが、これはUにいるプロがおもしろがって編曲しました。ボーカロイドでもPと呼ばれる神がプロデュースしていったので、あながち無い話ではありません。

登録して半年足らずでトップシンガーになれるのか? これは、なれないことはないです。例えば素顔を隠して活動している歌い手のAdoさんは、「うっせぇわ」でメジャーデビューしてから3ヶ月で社会現象を巻き起こしました。


3. すずの母が子どもを救った理由とは?

なぜ母は我が子であるすずを残し、見ず知らずの子どもを救って亡くなったのか? 理由は定かではありませんが、この行動があったからこそ、すずは恵くんを助ける行動力を発揮できたわけです。

なので、この点が本作のフィクショナリティだと仮定できます。また、不思議要素は作者の願いと繋がっています。

すずの幼馴染であるしのぶくん、コーラスの女性5人が母親代わりとして、母を亡くしたすずの精神面を支えてきました。

実の両親だけではなく、周囲の大人たちも子どもを気にかけてほしい。そういう監督の願いが込められているのではないでしょうか?


4. なぜアンベイルの特権が持てる?

Uの世界は5人の賢者たちが創造したという設定です。警察組織のような権力は必要ないと明言しているとのことですが、なぜか自警団のリーダーはAsをアンベイルできる特権を持っています。

賢者たちがアンベイルの特権を与えた理由は説明されてないので、ここも本作のフィクショナリティだと仮定できます。で、不思議要素は作者の願いと繋がっていると。

おそらく監督は、すずが素顔で歌う状況を作り出したかったのでしょう。匿名による誹謗中傷が大きな社会問題でもあったので、自分を曝け出して戦う強さに観客は胸を打たれます。

また、アンベイルは権力の象徴です。人を従わせたい、見下したい気持ちは、虐待やスクールカーストとして如実に現れていました。

自分勝手に周囲を抑圧する人たちに負けず、他人を思いやれる優しい子に育ってほしい。という監督のメッセージも感じ取れます。

権力構造については、こちらの映画評をどうぞ。


○まとめ

母と権力。映画評を書いて初めて、フィクショナリティが2点ある状況に直面してしまいました。

つまり、不思議要素が1%以上あることになります。それでもわたしはおもしろいと思いましたが、中には批判する声も多く上がるという、賛否が分かれる結果に。

批判する方の感想を読むと、すずが素顔を出して歌い、恵くんからの信用を得るという展開に、感情移入できないらしいです。すずが東京に行かないと恵くんを裏切ることになるのですが、世の中のリアリストたちは自分が見たいものだけ見ようとします。

わたしも物語をプロット化して、ようやくすずの気持ちを少しは理解できた段階です。その上でモヤモヤを指摘するのなら、子どもを助けた母の願いと、自分を曝け出して戦う強さが、行動原理として一致していないのではないか?

いや、ふたつとも優しい子に育ってほしい、というメッセージ性は繋がっているんですよ。ただ、その結び目が弱い。


原因は分かってます。アンベイルです。権力の象徴として演出するのは良いですが、もっと自然な出し方は無かったのか。Uの設定量が膨大すぎて、ストーリーにまとめ切れていません。せっかくUでスケールの大きい話になっても、これだけでリアリティが崩壊します。

行動原理さえ一致していれば、別に謎は謎のままでもいいわけです。いきなり巨大ロボットが登場しても、ああ世界を救うために開発されたんだねと、観客は勝手に納得しますから。誰も巨大ロボットの構造に対して、指摘したい興味も知識もありません。

それが本作だと、竜がピンチだから助けたい → 竜のオリジンを先に探そう → 恵くんが虐待されてる → 恵くんから信用を得たい → 素顔で歌おう → 途中で恵くんとの通話が切れちゃった → 東京まで行って守ろう。

このシークエンスに対して、アンベイルとかいう不思議要素が邪魔しちゃうから、シームレスに事が運ばないわけです。シークエンスだかシームレスだか、頭に入ってこないでしょう

作者の自己都合のために、余計な設定が入って複雑化しているから、観客の感情移入を阻害してしまいます。その辺の話は『プロメア』評で書いてるので、良かったらどうぞ。

せめて細田監督も、奥寺佐渡子さんに脚本協力を依頼できなかったのか。世界的クリエイターを次々と起用するのであれば、脚本家にも頼ってほしかったです。これだけは全観客の総意であるはず。

とはいえ、創作はフィクションなわけですし、作品に啓蒙性はありませんからね。まるで鬼の首を獲ったかのように、本作のメッセージは危険だ! なんて騒ぎ立て扇動するよりも、気楽に物語を楽しめれば良いと思います。


余談 恋と悪と評論

1. 細田監督作品キスしない問題

『時をかける少女』では、キスすると見せかけての「未来で待ってる」囁き。かぁ〜〜っ!! イケメン!!

『サマーウォーズ』では、ほっぺにチューで鼻血ブー。『おおかみこどもの雨と雪』では濡場がありましたが、それ以降の作品では恋愛描写が希薄になっています。

『未来のミライは』年齢的に仕方ないとして、『バケモノの子』は学校の願書をドガって手渡すだけですからね。つらー。

そして本作では、ベルが感極まってキスすると思いきやの、おでこコツン! パシフィックリムかよ。すずと惠くんの間には恋愛とは別の、特別な信頼関係を築けた表現でしょう。

でも、わたしとしては惠くんに頑張ってほしい。しのぶくんよりも惠くん派なので、年下から言い寄られるすずの展開が良き。2次創作お待ちしております!


2. 巨悪が存在できない問題

デジモンやサマウォのように、悪いウイルスぶっ殺す! みたいな勧善懲悪のストーリーは昨今だと難しいでしょう。なぜなら敵は巨悪ではなく、ひとりひとりの積み重なった小悪だからです。

現実世界での虐待やスクールカーストは、人の目が届かない所、もしくは人の目に見えない人間関係でのトラブルになります。明確な敵が不在の上、正義に対する反論が無ければ思想性が低くなることに。

なので最初は批判的だったペギースーも、最後には素顔で歌うすずを応援するのでした。一方で嘲笑するAsもいたり、正義の自警団が権力を笠に着てたり、現実の社会問題を捉えてはいたので、善悪のバランスは緻密に考えられていたのではないでしょうか。

主人公の行動原理が単純明快で、悪を倒して世界を救うで良かったら、本作のシークエンスもシームレスだったでしょう。しかし現代社会のコミュニケーションは複雑化しており、様々な人々の思惑が交錯しています。

だからこそ、インターネットだったら現実での社会問題が可視化される、という着眼点は素晴らしいです。また、シリアスになりがちなテーマを、Uの仮想世界でエンタメに仕上げたのも最高。褒め殺します。


3. 最後に

細田監督を必死に擁護してきましたが、だからといって批判の声が小さくなることはないでしょう。でもこれ以上、わたしの細田監督をいじめないでいただきたい。確かに『未来のミライ』は満場一致のクソ映画でしたけど、『竜とそばかすの姫』はおもしろかったです。

現実世界の美しい原風景、少女の繊細な心理描写、CGによる壮大なUの仮想世界、Uとマッチするユニバーサルな音楽。どれをとっても高水準な技術力です。

作品の悪い点だけを取り上げる人は、良かった点を見ていません。好き勝手に自分が言いたいことを言ってるだけ。その方が断然つまらないし、人生の見え方も卑屈になっちゃう。

例えば『レミーのおいしいレストラン』にて、こんな名言があります。

評論家とは気楽な稼業だ。
危険を犯すこともなく、料理人たちの必死の努力の結晶に、審判を下すだけでよい。
辛口な評論は、書くのも読むのも楽しいし、商売になる。
だが、評論家には、苦々しい真実がつきまとう。
たとえ評論家にはこけ降ろされ、三流品と呼ばれたとしても、料理自体の方が、評論より意味がある。


いくら評論を書こうと、わたしが素晴らしい映画評を書こうと、作品そのものの価値には敵いません。

どんなに作品を貶したところで、自分が優位に立てることは到底ありえない。そもそも優劣をつけること自体が間違いですし、社会からの評価だけで作品や人間の優劣は決まりません。

別に何もできなくていい。ただ、匿名で身を隠しながら、相手に石を投げる卑怯者にだけはならないで。

創作者の方々も、批判されたところで気に病む必要はありません。自分を曝け出して戦った人の方が絶対に強いですから。評論家よりも勇気がある。

ちなみに、上記の名言には続きがあります。

しかし、時に評論家も冒険する。
その冒険とは、新しい才能を見つけ、守ること。


すずが本作で主人公たりえたのは、母を亡くした悲しい過去を抱えていたからでもなく、特別なAsと歌唱力を有していたからでもありません。

悪者扱いされていた竜の背中に、どうしてたくさんのアザがあるのか、心配する好奇心を持っていたからです。

他のAsは竜が悪者だと決めつけているから、竜のアザもアピールか何かだとしか思ってません。竜の正体を探るのもおもしろがっているだけ。

しかし、すずは人の痛みを思いやれる優しい女の子ですから、竜の背後にある複雑な事情を察します。他人とは異なる好奇心を持っていたからこそ、並列化された思考から逸脱し、物語が動き出したのです。

わたしたちも物事を一元的に決めつけるのではなく、もっと多元的に世の中を見つめ直した方が良いのではないでしょうか。

暗い所に光を当てるだけで、新しい発見があるかもしれません。それを論評にまとめられた日には、きっと美しい風景が広がることを願います。


追記 すずだけで東京に行かせた理由

本稿を書いてから他の映画評を読み漁ったのですが、批判している方々の主な争点はこれでした。

誰も東京まで付き添わないんじゃ、すずの母が子どもを救出した際、傍観していた大人たちと一緒じゃないか。女の子ひとりで虐待する男の家に行かせるなんて危険すぎる。しのぶくんやヒロちゃん、コーラスの女性たちは無責任だ!

ちょっと冷静になって考えてみてください。竜と交流があるのはすずだけです。恵くんがどんな人物かまったく知らない赤の他人が、いきなり高知から東京まで深夜バスで行けますか?

すずなら行けます。なぜなら彼女は母の優しさに触れ、恵くんの痛みを思いやれるからです。しかも恵くんは、お節介な大人に対する不信感が丸出し。それならすずの気持ちを尊重し、ひとりで行かせるしかないでしょう。

親ってのは結局、子どもを見送ることしかできませんからね。部活の試合も、学校の勉強も頑張るのは本人です。変に過干渉した結果が恵くんの父親なのではないでしょうか。


で、なぜ恵くんの父親はすずの顏を見て、急に狼狽したのか?

おそらく、彼のAsがジャスティンだった? 実際に殴った描写は無かったので、ただ単に人を殴るだけの度胸が無かった? 

小説を読んでも断定できる情報はありませんね。そうでなくともすずは有名人ですから、渦中の人物が急に現れて動揺したのでは?
(むしろ、すずは高知に帰ってからが大変そう)


んで、結局のとこ虐待問題は解決されてないと。

何をもってして解決に至れるのか、逆に教えてほしいです。児童相談所が保護したからって、根本的な解決にはならないでしょう。

「助ける助ける助ける、うんざりなんだよ」って恵くんも言ってます。彼は自分が我慢すれば家族を守れると思ってました。でも助けに来たすずを見て、自分も立ち向かわなければいけないと一念発起したわけです。

これまでの文脈を無視して、ただ正論を押し付けたって仕方ないでしょう。正しさを主張するなら、児相の48時間ルールに従ってください。学校のイジメと同じで、被害者が望む着地点をヒアリングしないと。周囲が勝手に介入して熱くなっちゃうのが一番ダメ。


てか、細田監督も批判されることを想定の上で、制作されたのではないでしょうか。

例えば『天気の子』で主人公に線路の上を走らせ、拳銃を撃たせた新海監督は、こんなことを仰いました。

映画は学校の教科書じゃない。


たかが映画です。道徳の授業じゃありません。楽しめればいい。その中にちょっとだけ、監督のメッセージを反映させてください。

主人公の行動は体制への反抗かもしれませんが、それを抑圧されては表現の自由が無くなります。例えば音楽のパンクロックは既成概念の破壊なわけですから、従来の価値観じゃ良し悪しを推し量れません。


とはいえ、とはいえですよ? 批判できない作品は危険です。

例えば『えんとつ山のプペル』なんかは、西野監督の信者が囲い込んでますから、批判できない雰囲気を作り上げています。あまりにも内容が偏りすぎると、善悪のバランスが崩れてしまい、柔軟な思考ができなくなることに。

なので、主人公の行動に対する反対意見が出るのは当然です。ただし、それは作中のキャラの役割であってしかるべきでしょう。

本作もワンシーンだけ、東京へ行くすずを引き止めるような演出さえあれば、過剰に反応するような人も減ったと思います。一応、しのぶくんも呼び止めてはいたのですが、すずには応える余裕がありませんでした。


以上で追記は終わりです。

批判に対する反論となり心苦しいですが、そういえば本作のテーマには誹謗中傷が大きく関わっていたので、実は核心を突けた内容になってるのでは? なってたらいいなと思います。

なんだかんだ良し悪しは別として、映画の話題で盛り上がれる作品になったのではないでしょうか? 他の方の評論を読むのは楽しく、本稿を読んでいただけるのも嬉しいです。

映画評のタイトルを「あなたは誰?」にしたのも、いろんな角度から読み手の受け取り方次第で、意味合いが変化するオシャレさを狙ったものでした。自分で説明するの恥ず。

これを機に、本作の意味合いについても再考察できたら楽しいのでは? もっと話を飛躍させて、読者を飽きさせない工夫が必要だったと反省しながら、以下のツイートを貼り付けますね。


中にはキレただの、危険だのと過激なタイトルをつけ、閲覧数を稼ぐ記事もあります。そういった声の大きさに惑わされず、いろんな方々の意見を参考にしていただけたら幸いです。

ご拝読ありがとうございました。


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