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『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』映画評・僕は一生、エヴァンゲリオンします!

どうも、ササクマです。

今回の映画評は『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』です。

BD発売まで温めようかと思ってたのですが、それより先にアマプラでの配信が始まったのでいてもたってもいられなくなりました。

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1. エヴァンゲリオンについて

■エヴァンゲリオンとは、何か?

正式名称は「凡用人型決戦兵器 人造人間エヴァンゲリオン」です。安易に「ロボットなんでしょ?」とか言うと、オタクに鼻で笑われます。

しかし本作の舞台挨拶にて、庵野監督はエヴァがロボットアニメだと明かしました。結局エヴァとは何か誰も理解できない状態なので、何も知らないまま本稿を読み進めても大丈夫です。

あとで、わたしなりのエヴァ像を解説します。


■エヴァンゲリオンとは、どんな物語か?

「エヴァは知らないけど有名なんでしょ? 面白いの?」って方に、私は決まって言います。「エヴァンゲリオンは水曜どうでしょう」だと。

水どうを知らない人も安心してください。これは俳優の大泉洋がディレクターから無理難題を吹っかけられ、正論でキレ散らかすだけのコメディ番組です。

エヴァも大人たちからの理不尽に対し、シンジ君がツッコミまくるアニメだと思ってください。いきなりエヴァに乗れとか、乗るなとか命令されてもわけわからんすからね。シンジ君の言い分は正論でしかないのに、強制的に従わされてしまう不憫さ。

水どうを知ってる人から見れば、エヴァは難解な物語ではありません。ゆるーい茶番劇が繰り広げられ、それが楽屋ネタのような面白さを生み出しています。


■エヴァンゲリオンとは、何だったのか?

入り口は水どうで誤魔化せたとして、内部は迷宮化しているため、出口まで辿り着けない人が続出する事態に。本作を観た人の数だけ抜け道は存在しますし、別に脱出する必要性もありませんが、わたしなりに社会学を通して道案内できればと思います。

エヴァンゲリオンとはズバり、私を巡る物語です。

エヴァンゲリオンとは私のことであり、個人である私を見つけるための通過儀礼でした。

……わけわからんと思うので、順を追って説明します。


2. エヴァンゲリオンの社会背景

まず前提として、人間は「社会的」な生物です。なぜなら人間が必要とする財やサービスは、ひとりでは手に入れることが難しいから、それぞれ分業することで生活します。

で、社会学は近代以降に発生した学問です。過去と現代を照らし合わせ、その「変化」を研究します。社会学が必要となった背景としては、伝統社会から近代社会への大きな変化がありました。

伝統社会とは、人間が共同体に結び付けられて生活していた時代のことです。共同体の結び付きが非常に強固である一方、個人の自由は厳しく制限されてしまいます。

ところが、科学技術の発展により生産性が向上すると、共同体の伝統は解体されて人間との結び付きが弱くなることに。一方で個人の自由は拡大され、近代社会が到来します。

近代化とは、個人化と同意義です。共同体から個人が解放されたことにより、「私」の意思や「私」の欲求が重視されます。伝統や慣習に従う「歯車」ではなく、「主体」として個人の欲求に従うのですが、じゃあその「私」って誰? という問題に直面しました。


共同体の伝統が解体された今、誰が「私」を規定してくれるのか? 様々な社会学者、心理学者が研究を進めていく中、TV『新世紀エヴァンゲリオン』が公開された1995年には大きな事件がありました。

1990年にバブル崩壊、91年に湾岸戦争、94年に松本サリン事件、そして95年に阪神淡路大震災と、地下鉄サリン事件。はたまたノストラダムスの大予言による、終末思想まで漂ってます。

「私」を規定してくれる誰かは、個人にとって脅威でしかない。

だから誰とも関わりたくない。どうせ傷つくから。あまりにも内向的すぎるシンジ君の主人公像は時代性と合致しており、わたしたち視聴者も少なからず共感できます。

ちなみに、わたしは1993年生まれなので、公開当時は2歳です。それが28歳になった現代でも、こうして映画評を書くくらいには夢中なわけですから、やはりエヴァは最高に面白い。


3. エヴァンゲリオンのテーマ

誰かが「私」を規定することに必要性を感じないなら、自分自身で「私」を規定するしかありません。

そのためか、様々な学者による自我論なるものが注目されます。エヴァが物語の構造に組み込んだのは、フロイトの自我論ですね。

欲求(性的欲求:リビドー)を適切に抑制するには、「エディプスコンプレックス」を克服するしかないと。これはソポクレスのギリシャ悲劇『オイディプス王』から着想を得たものです。わかりづらいので、エヴァに当てはめて図解します。

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    (ゲンドウ) 夫婦 (ユイ)
       厳格な父 ← ー → 死亡した母
          |    ↑
       抑圧 |     | 幕情
         ↓             |
   健全な異性 ←ー 悩める少年 ー→ 母の代わり
   (アスカ)   (シンジ)   (レイ)


物心つく前に母を亡くしたシンジは、母から無償の愛情を受けずに育ったため、自己肯定感が低い性格になっています。なので母の面影があるレイに自然と惹かれることに。

そしてゲンドウも自己を承認してくれるユイを失い、レイを作り出すも満たされない喪失感に苦悩します。ゲンドウとユイの夫婦関係は健全な異性の恋愛だと思われるかもしれませんが、その馴れ初めエピソードなどは吹っ飛ばされているので、やはりユイは無償で愛してくれる母親像として機能しています。

なのでゲンドウは厳格な父でありながら、母の愛を求める少年としての側面もありました。その少年っぽさが母性本能をくすぐるのか、謎にゲンドウは女性からモテます。


話をシンジに戻すと、子は愛してくれる母を手に入れたいと望むのですが、その母は厳格な父の女性なので諦めなければいけません。母と近親相姦する欲求を抑制することで、「エディプスコンプレックス」を克服できたことになり、子は健全な異性を求めて成長します。

しかし、『オイディプス王』は子が父を殺して、そうとは知らず母と結婚してしまう悲劇です。この「父親殺し」は抑圧からの解放、革命の象徴としてヒーロー映画で使われがちな手法ですが、TV版エヴァでは父と子が対立する機会さえありません

ようやくシンエヴァになって暴力ではなく、父と子の対話により和解します。母からの愛情を受けて自己肯定感を保ち、父と話し合うことで子は「私」を規定する道標に沿って歩き出しました。

だからTV版エヴァの謎エンディングも、「父にありがとう」「母にさよなら」だったのです。


4. エヴァンゲリオンはいらない

「優れた物語は99%の現実と、1%の不思議で構成されている」

本作のフィクショナリティは、そのまんまエヴァンゲリオンのことですね。フィクショナリティとタイトル名が一致しているアニメは名作説

また、作品の不思議要素は作者の願いと繋がっています。例えばガンダムとかは巨大ロボットに乗りたい願望が表れてますが、シンエヴァで最後に求めたのは「エヴァンゲリオンがいらない世界」です。

なぜ、エヴァンゲリオンがいらないのか? その理由は、エヴァンゲリオン自体がイマジナリティの化身だからです。

つまりは視聴者もとい、制作者の想像力ですね。巨大ロボットに乗って活躍したい願望は、ガンダムなら叶うかもしれません。

しかし、シンジはエヴァに乗るたび、大抵ろくでもない目に遭うのでした。暴走して意識不明になるし、転校先の同級生から殴られるし、アスカもレイも救い出せなかったし、ニアサー引き起こして人々の恨みを買うし、カヲル君は目の前で爆死するしで、何をしても裏目に出てしまいます。こっちは世界を救おうとしてたのに……。


これは人間の想像力、アニメや漫画など創作物の虚構が、現実世界に作用しないことの表れです。いくら巨大ロボットを夢想したところで、現実の自分は何者でもありませんし、それで世の中が変わることもありません。

だからこそ庵野監督は観客に対して、虚構から現実へ目覚めさせる試みをエヴァ内に盛り込みました。

顕著なのはレイやアスカなど、ヒロインの存在ですね。彼女たちは無条件でシンジに好意を抱くよう、プログラミングされています。これは数あるラブコメ作品における、一種のメタ発言にも捉えられるでしょう。

アスカの台詞に仕組まれた装置によって、観客はアスカが健全な異性ではなく、都合良く作り出された虚構だと気づきます。それでもレイ(仮)がシンジを好きになったのは、母の愛情によるものです。

いくらアニメキャラを好きになったところで、それは健全な異性ではなく母の代わりでしかないから、コンプレックスを克服できたことにはならないという意味にわたしは解釈しました。ここにはあなたが探す「私」なんていないよと。

恋愛感情の捏造は序の口です。次章ではエヴァンゲリオンの否定と、虚構から現実へ目覚めさせる試みについて、もっと詳しく書きます。


5. 大人になれない辛さ

第3村にて生き残ったトウジは28歳になり、委員長と結婚して子宝にも恵まれました。そして職業は医者であり、物資の補給についても交渉役を請け負い、村の住民から頼られる存在となっています。

またケンスケも同じく成長しており、村の何でも屋としてライフラインを管理する重要人物に。「俺もエヴァに乗せてくれ」と、お願いしていた冴えないオタクの中学時代はどこへやら。身長も伸びて落ち着きある大人のイケメンとなり、あの気難しいアスカからも信頼を得ています。そのポジション俺にくれ。

対して、シンジは14歳のまま何も変わっていません。巨大ロボットに乗って神話になりたい少年です。エヴァンゲリオンに乗り続ける限り、仕事をして家庭を持つ普通の幸せは望むべくもありません。

これは辛い。わたしは大人になんかなりなくねぇぜと学生時代イキってましたが、28歳になった今なら社会的な地位を確立できない辛さが痛いほどにわかる。果たして「私」はどこにいるのか、見つからず延々と彷徨うことに。

しかし、世のクリエイターたちは、この大人になれない辛さを常に味わっている状態です。自分が漫画家やら漫才師やら夢を目指している傍ら、同い年の友人は会社で出世して結婚して子どもを育てて社会に貢献しています。

中には結婚して幸せなクリエイターもいるでしょう。しかし、ひとたび机に向かえば作品に没頭するしかありません。なぜなら家族のことなんか放っておいて、巨大ロボを操縦しなければ世界を救えないからです。幸福は創作の敵

エヴァンゲリオンに乗りたい子ども心を捨てない限り、自分は大人になれません。だからこそ監督は観客も、制作者たちも虚構から現実へ目覚めさせるため、決戦の舞台をマイナス宇宙に移しました。


神は人類からすれば知覚できず、理解の範疇を超えた存在です。なので旧劇場版では、わけわからん悪夢のような地獄絵図が広がりました。

そこで新劇場版では神を再定義し、我々の世界にいるクリエイターを創造主とします。作中のキャラたちは知覚できないけれど、舞台の外にある撮影スタジオなどは我々の世界です。

そのスタジオ内にて、アスカ、カヲル、レイと別れを告げるシンジ。彼はひとり取り残され、創作の海に佇みます。絵も原画のまま使うなどして、作り手であるアニメーターの存在を意識させる演出へ。

そして登場する真希波マリ。彼女はイレギュラーなキャラであり、既存の設定に縛られず自由に動き回ります。かつ、エヴァは庵野監督の脳内世界ですが、その外側からシンジを引っ張り出す役目を担いました。

マリは庵野監督の妻・安野モヨコ先生がモデル説が浮上しています。真偽のほどは定かではありませんが、どちらにせよマリは異質な他者として手を差し伸べ、シンジを現実世界へ救い出しました。

シンジもマリを母親代わりではなく、健全な異性として認識しています。彼女から「私」を規程してくれて、彼からも「私」を規定してあげられる。そんな関係を結んだふたりは他者を脅威としてではなく、想いを受け継ぐべき相手として許容します。

シンジは虚構の世界から抜け出し、マリとふたり手を取り合って現実を生きます。大人になれなかったクリエイターたちも、創作の海から引っ張り出してくれるパートナーを信用することで救われるのでした。

庵野監督の詳しい情報については、ハマダさんの映画評を参照してください。おすすめ。


6. 責任の所在

エヴァンゲリオンはいらない。

エヴァンゲリオンはいらない……?

エヴァンゲリオンははいらない?

あれ? エヴァンゲリオンは入らない?

果たして本当にエヴァンゲリオンはいらないのか?

いえ、エヴァンゲリオンはいりまぁす!!

だって、想像してみてください! エヴァンゲリオンが無いエヴァンゲリオンを!? ちょっと何言ってるかわからないけど!?

エヴァンゲリオン無くして、父と息子の物語は語られません! エヴァンゲリオンが無かったら、ただ育児放棄して仲が悪い親子関係でしかない! それで25年間も完結を心待ちにできますか!?

だからエヴァンゲリオンはいるもん! いるんだもん!


……取り乱しました。

話をアスカの恋心に移しましょう。シンジに対する好意がプログラミングされたものだと知ってなお、アスカはシンジのことが好きだったと告白しました。そしてシンジもアスカが好きだったことを認め、ふたりにあったわだかまりが解消されます。

その感情は虚構だったかもしれませんが、虚無ではありません。あなたのことを好きになって良かったと、ちゃんと自分の気持ちに決着をつけ、前向きに生きる力となりました。

これはエヴァンゲリオンでも同じことが言えます。確かにエヴァンゲリオンは成長を阻害するかもしれない。作品内で「私」は見つからないけど、どっかの観客席にいた父と息子が対話するかもしれません。

そして虚構から現実に目覚め、「私」を見つけるべく奮闘するかもしれない。このかもしれない可能性が大事です。

作品に啓蒙性はありません。ありませんが、シンエヴァで受け取った虚構の感動を、虚無にはしたくない心理が少しでも働きませんか? わたしだけ?

最終的にエヴァンゲリオンとは別れを告げるとしても、この作品が好きだった思い出までは捨て切れません。エヴァを話題に友達と会話したし、こうして映画評も書きました。本作の鑑賞体験は確実に、自分の中に積み上がっています。


それに、シンエヴァでは現実との向き合い方も描かれていました。その心構えとは、自分がしたことに対して責任を持つことです。

エヴァ破にてシンジはアスカを救えず、ゲンドウに八つ当たりしています。今度はレイを救おうとニアサーを引き起こすまでは良いですが、エヴァQで豹変した世界を目の当たりにしても自分のせいじゃないと言い聞かせ、あまつさえDSSチョーカー(責任)をカヲル君に引き受けさせました。

何もかも全部あの髭もじゃクソ親父のせいだと、あの時ミサトさん行けって言ったじゃないかと。自分がしでかしたことに対して、一向に責任を持とうとはしません。

しかし、人々の優しさに触れたシンエヴァでは、シンジ自ら責任を負う覚悟でDSSチョーカーを装着します。他人は脅威でしかなかったけど、その中で自分に課せられた役割を全うすることでしか、「私」を見つけられないことに気がつきました。

本当に何もかも全部あの髭もじゃクソ親父のせいだとしたら、その息子である自分自身でしか落とし前をつけられません。おい、パイ食わねぇか?


ミサトさんも責任者として、母としてシンジを支えます。彼女はあの時GOサイン出したことを悔いており、贖罪のために母であることを放棄していました。でもそれは、ミサトさん自身が「私」を見失っている証拠です。

ここで唐突にアメリカの社会学者ミードの自我論を参考に出すと、「私」の自我は主我(I)と客我(me)に区分できます。主我(I)が子どものように純粋な自我だとすると、客我(me)は他者や社会からの役割を期待された自我です。

これらを用いて、ミードは子どもが大人になるプロセスを論理化しました。まず第一段階として、子どもは「ごっこ遊び」にて自分ではない誰かの役割を疑似体験します。次に第二段階の「ゲーム」で、特定のルールの順守、ルールの中での自由を学びます。この「役割」と「ルール」を習得することで、社会に通用する大人の客我(me)が形成されるとしました。

一方で、主我(I)は役割を演じる客我(me)を批判します。なぜなら誰かに期待された自分は、本当の「私」ではないと感じるからです。でも要領よく生きるには客我(me)が必要なため、時には同調したりもします。この自分自身に対する「批判」と「同調」を繰り返し、相互作用することで自我が発達するとのこと。

ミサトさんは主我(I)を押し殺し、客我(me)に徹します。本当はシンジが目覚めた時、いの一番に抱き締めたかったはずですし、自分の息子にも会いたかったはずです。

それでも最後は艦長として責任を負いながら、母として愛する息子を守ります。役割を演じる客我(me)だけじゃ命を懸けれませんし、純粋な主我(I)だけでは責任を果たせない。両方あって「批判」と「同調」の相互作用を繰り返したからこそ、これが「私」なのだと命を張って戦いました。


7. まとめ

「さようなら、すべてのエヴァンゲリオン」

長かった。

ここまでの長文を書いて伝えたかったことは、人と人との相互作用です。

エヴァンゲリオンは「私」を巡る物語でした。

「私」を規定してくれる誰かは脅威でしかありません。

虚構に「私」はおらず、現実でしか見つけられない。

他者を想いを受け継ぐべき相手として許容する。

社会の中で課せられた役割の責任をとるべき。

別に誰かから「私」を規定してもらう必要は無い。

これらすべて、人と人との間に生じる相互作用です。

愛、信頼、仮面、理解、憎悪、差別、自由。

社会に出て客我(me)を形成した後に、主我(I)が自問自答を繰り返す。

クッッッッソ面倒臭い思考を重ねた先に「私」が見つかります。

それなら、何度だって虚構と現実を行き来しましょう

大人になることの辛さ、大人になれないことの辛さ。

覚悟の上で虚構の海に飛び込み、再び現実に引っ張り上げてもらいます。

「さようなら、すべてのエヴァンゲリオン」だぁ?

バカめ。わたしの中のエヴァンゲリオンが消えることはない。

それら含めて「私」なのだ。

僕は一生、エヴァンゲリオンします!!


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