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流れるプールはもうおわり。自分の意思で泳いでいく

30代のあたまが見えてきた今日このごろ。自粛ムードでおうち時間が増えたこともあり、ふと自分の人生を振りかえっていた。この数年は、毎日ディベートをしてきたように思う。対戦相手はじぶん。議論のテーマは、「で、どんなふうに生きていく?」

学校や就職、転職のフェーズでは、まわりの人たちと同じような道を選んできた私。まるで流れるプールに身をまかせるように、なんとなく進んできた。でも、アラサーになるにつれて目の当たりにしたのは、これから先はかなり細分化されていくという事実。起業するあの子もいれば、1人で母親になることを選んだあの子も。ポリアモリー(複数のパートナーと愛の関係を築く生き方)を選ぶ人もいれば、独身貴族が性に合うと気づく人も。

ぶなんな選択肢などなく、とりあえずまねておけばイイかんじにしてくれそうな模範解答は存在しない。なにをもってしあわせを築くかは、すべて自分次第! というフェーズに突入したのだ。

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そんなふうにして、一定の流れがなくなってしまったプールでは、水に体をあずけてみても、どこにも進んでいかない。ダサくても、みっともなくても、ジタバタと手を動かし、自分で泳いでいかなければいかなくなった。

ほおりだされた正解のない世界は、とても苦しくて、厳しく、でもちょっぴり愛おしかった。邪魔をしてくる社会のプレッシャーや、だれかの当たり前が押し付けてくるノイズをかきわけ、「自分らしい人生」をほりあてていくプロセス。いやでも自分という人間のことを、よく知ることになった。

内省して、調整して、「この道だ!」と自信をもっては、やっぱりちがうかも!?と弱気になり、葛藤して、もうなにもかもいやだ! と投げ出す。しばらく気づかないふりをして暮らしてみるものの、ただ1つ変わらない事実は、やっぱり私の人生の責任者は私だけ。のこのこと戻ってきては「うーん」とうなって、また考える日々を送った。

そして、ひさしぶりに水から顔をあげてみると、となりのレーンはいつも青い。すこし弱っている日にSNSをひらけば、「あー。そっちは泳ぎやすそうだなぁ〜」とか、「あの人の水着うらやましいなぁ」が口をつく。自分らしい人生を歩みたいと願いながらも、いつも憧れるのは、だれかの人生なのだった。

流れるプールが恋しくなって「もうだれか、こうして生きたらしあわせになれるよ、って決めてくれればいいのになぁ!」と切に願った夜もあった。私はしあわせになれるんだろうか? と途方にくれたままで迎えた朝も。

それでもここ数年、バタ足を続けてわかったのは、完璧な「自分らしい人生」はきっといつまでも見つからないけれど、向きあい続けることに意味があるのだということ。

いまは、流れるプールのときには使っていなかった筋肉を使い、必死に泳いでいる。水をかきわけ、波紋をつくり、しぶきをあげ、進んでいる。たまにおぼれたり、飲みたくもない水をゴボゴボと飲むこともあるけど、こっちのほうが水の冷たさやなめらかさを直に感じられて、きもちいい。今のほうが、何倍も生きている感じがするのだ。

正解のない「自分らしい人生」。自問自答、他者との対話や比較をくりかえしながら、私たちは日々、それを探している。まだはっきりとかたちの見えぬそれは、けして洗練されたかっこいいデザインなんかじゃなく、幼稚園児のねんど作品のような、なま温かくて指あとのたっぷりついたものなんだろう。そして、その指あとにこそ、人生のゆたかさが詰まっているのだろう。

そんなことを考えている今日このごろ。流れるプールはもう恋しくはない。まわりの人生がますます多様化するであろう30代は、もう目の前まできている。20代の泥臭いトレーニングで培った基礎体力を味方に、私は私の意思でパシャパシャと軽快に泳いでいこう。

そして忘れないでいよう。私が泳ぐことで波打つ水面を太陽が照らすとき、それはキラキラと輝き、本当にきれいだということを。

matoueによるPixabayからの画像 

🐬おわり

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