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教員の「自己申告書」という闇

昨日の「アゴラ会」にもたくさんの先生方にご参加いただいた。公立小学校勤務の新任教員、20年近くのキャリアを持つ特別支援学校教員、以前離島の公立高校に勤務していた教員などなど…。
そういった教育現場で活躍する方々が集まり、奥多摩という自然環境の中で焚き火をしたり、川で遊んだり、一緒にご飯を食べたりしながら明日の活力になるべく自然エネルギーを充電している。
日頃教育現場に立ち、傷ついた心にとって自然は最大の癒しである。どんなクスリや娯楽よりも効果テキメンだ。
そうして気力十分、コンディション絶好調となれば、現場の問題点やより良い教育とは何かといった未来の話について「自然」と語り始めることになる。

その中で先生方が口を揃えて言っていたのは、「自己申告書っていらないよね」ということである。
各々がその暗部を語る熱量たるや、圧倒されるものがあった。
本当にストレスが溜まっているのだろう。そして実態を聞いているうちに、そのバカバカしさが痛いほど伝わり、現役の教員の方々にご愁傷様ですと心からお伝えしたい気持ちになった。
そう思うに至った経緯をここに記す。

「自己申告書」とは何か

そもそも「自己申告書」(地域によっては「学校自己評価シート」と呼ばれるらしい)とは、教員が管理職に向けて自らの教育活動の目標や達成度を記入した書面である。
その自己申告書をもとに管理職は「S,A,B,C」と教員にランクをつけ、この評価が都の業績評価の参考になって昇給や昇進などの判断材料になる。
3学期制である東京都では学期ごとに前期、中期、後期の計3回、合計9回の提出が義務付けられている。
民間企業の言葉を使えばKGIとKPIを自ら設定して進捗をまとめて報告書を作成する作業である。

「自己申告書」の問題点

言ってしまえば「管理職の都合である」という言葉に尽きる。もう少し具体的に述べよう。

管理職が先生をうまく評価できない

これは教育現場に限らず、民間企業でも上司と部下という関係性において同様である永遠のテーマであると言える。
しかし今問題としているのは教育現場、それも公立学校の話である。
私立は自分達で経営しているのでまだいいとしても、経営主体ではないそれぞれの公立学校が、民間に倣ってそういった仕事を課すことについては甚だ疑問である。
参加した先生から作成済みの自己申告書を見せてもらったが、驚くことに事業計画書と全く同じフォーマットなのだ。
学校の先生がやっていることはそもそも経営ではない。
そもそも学校運営のゴールとは何なのか、それぞれの先生がどんな理念を持って現場に立っているかのか、それらはみんながみんな同じわけない。
高校ならば就職や進学などイメージが湧きやすい、ただ小中学校は進学といってもいまいちピンとこないところがある。
その矛盾を孕んだまま形だけ導入したところで、それらがうまく作用するとは考えづらい上に実際先生はストレスが溜まっている、これが現場の声なのだ。

現場が疲弊する

先生としてはただでさえ忙しいのに業務の合間を縫って準備する必要がある。しかも行政的な文章であるため、作成にはとても神経を使う。
ここについては若手の先生の方がむしろ得意であり、キャリアのある先生の方が難儀している場合もある。
今回お話しをもらった先生は、若手の先生に教えてもらいながら作成しているとのこと。この先生は歳下にも教えを請うことができる真っ当な方であるからいいものの、歳下に聞くことができない先生は辛いだろう。これは今回のケースに限った話ではないが。

加えて、管理職によってはその文章自体にかなりツッコミを入れられるらしい。
恐ろしいことにそういった管理職は、前回の文章と全く同じ文面であるのはまずいと判断する思考回路をお持ちのようだ。
運悪く彼らに当たると、やれ何か変化はないのか、やれこの言い回しを変えろなどと口うるさく指摘される。
先に述べたように自己申告書は1年間で9回も作成する必要があるので、そんなに前回から変化するわけないし、その都度こんな形で対応されたらそれだけでゲンナリしてしまう。
ちなみに先生側から見て当たりの管理職は、細かいことにいちいち口を挟むようなことがない人とのこと。
現場の先生としてはこの自己申告書を、管理職の良し悪しを判断するリトマス紙として使っているのが実際である。

ここで私個人の話を少しだけさせてほしい。
私は普段生徒に作文も指導しているのだが、生徒たちに聞くと「学校の作文はつまらない」と言われる。というのもテーマが既に決まっていたり、語尾を揃えないと文句を言われたり、あんまりふざけたことを書くと書き直しさせられるから、すっかり作文に対して苦手意識を持ってしまう生徒が多い。
そこでうちに来る生徒には「何でも書いていいよ。むしろ笑かしてくれるような作文は大歓迎」と伝えている。
そうは言ってもどう書けばいいのか分からないという生徒もいるが、それはうちのメソッドを使えば誰でも書けてしまうので問題なし。
そうすると名文が次々と生まれ、生徒は次第に作文が好きになっていく。
文章を書ける子どもは強い、しかもこれから大学が欲しい人材は自分の考えをしっかり伝えることができる人間だということは自明である。それは能力開発によって誰でもできるようになる。

なぜこんな話をしたのかというと、結局先生が生徒にさせていることに、実は先生自身も苦しめられているという構図が解明されたからだ。
面白いと言っては失礼かもしれないが、なんと皮肉なことだろう。

管理職が「自己申告書」を導入するメリット

先生側捉え方については上記にある通りであるが、管理職側については容易く想像できる。

メリット1:管理職の仕事がラクになる


先生の仕事は授業はもちろん、保護者対応やクラスを担当する場合はクラス運営も入ってくる。その他様々な書類作成や部活の顧問になればその部活も見ていかなければならない。
先生を正しく平等に評価しようとするならば、こういった全ての活動を理解た上で各項目の評価の総合を、その先生の評価とするべきであろう。
これは現実的ではない。何十人も先生がいるところならばなおさら無理だ。

そもそも先生1人がやらなければならない仕事量が広くて多すぎるという問題はあるが、今回は「自己申告書」に焦点を絞りたい。

加えて誰が評価するかによって見るポイントが変わってくる。なぜならばそれぞれが期待するものが異なるからだ。
管理職としては「問題を起こしてほしくない」、生徒としては「面白い授業が受けたい」「自分の話を聞いてもらいたい」、保護者としては「進学のために学力を伸ばしてほしい」など思いつくだけでもキリがない。
実際は人によってもっと複雑で、これらのありがちなもののみを期待されるのならばむしろ分かりやすい。
スーパー世渡り上手な先生以外、全てを満たすことは難しいに決まっている。
また人間の合う合わないも仕事をする以上、当然入ってくるだろう。
ここまで来ると1人の先生を評価するということがどれだけ面倒なのか、よく理解できたことと思う。

ここに来て「自己申告書」の登場である。これはありがたい。
ただでさえ複雑で、しかも見る人によって容易に変わる評価関数がシンプルになり、かつ先生側から提示してもらえるのだ。
評価のコストが圧倒的に少なくて済む。もう手放せない。

メリット2:問題が起きた時に先生に責任を負わせることができる

管理職としては何か問題が起きることはどうしても避けたい。
いじめや不祥事が発生した際には当然管理職の責任が問われる。
しかしそれは主に保護者向きであって、その学校の中あるいは教育委員会などの行政に対しては少し事情が異なる。

仮にクラスでいじめが起きたケースについて考えると、管理職としてはクラス担任の先生がそのいじめを把握していたのかどうかを調査する。
この時使用されるのが自己申告書である。もし作成済みの自己申告書にそのいじめについての明記がなかったとしたら、「なぜいじめの事実を知らせていなかったのか」といった使い方が可能である。
仮にそれを明記していたとしても「なぜいじめの事実を認識していながら対応できなかったのか」といったパターンもあるので袋小路だ。

これらはあくまで仮定の話ではあるものの、そういったオプションがあるということ、もしそんな管理職だったらという話として考えると、現場の先生が気の毒に思えて仕方ない。

そもそも人間が集まる以上、潜在化しているいじめを含めて根絶することは不可能であると思う。
加えてもし顕在化していたとしても先生が介入して事態が好転するのはなかなか考えづらいだろうし、その時間さえ奪っているのが先生に課される「自己申告書」をはじめとした瑣末な仕事たちなのだ。本末転倒この上なし。

学校現場は問題だらけ

現場の先生だって、本当は授業準備であったり生徒対応であったり本質的なことに時間を使いたいはず。
難しいことは分かっているが、それらをきちんと評価してあげるのが管理職という立場にある人間の本来の仕事ではないだろうか。
現場の人間は分かっているのに変わることができない管理職と行政、これらに現場の先生が失望して虚脱するのは国家の損失である。

加えてお伝えしたい。問題はこんなもんだけじゃないぞ。
私は普段生徒の個人指導をしており、週末は古民家にて生徒向けの合宿やそのご家族が参加する焚き火の会など、生徒と保護者が学校にどんな不満を持っているのかよく聞いている。
加えて今回のアゴラ会にて現場の先生からも話を聞くことで、教育現場で起きている問題とその構図が客観的に理解できる。岡目八目の役割だ。

その私から見ると、今回の「自己申告書」についてそれだけを無くせば学校現場が改善するか、というとそうでもない。
問題はもっと大きくて、根深くて、複雑に絡み合っている。
さらに言えば学校だけではない、家庭にこそ大きな問題が存在していて、それがたまたま表に現れるのが学校現場であったりもする。

私が危惧しているのは若い有能な先生たちだ。彼らは頑張っているのに学校が彼らを苦しめる。私と同世代の先生も次々と辞めていく。
それはとても悲しく、腹立たしい。

私たちができることは、結局のところ問題をひとつずつ明らかにしていくということに尽きる。
教育作家であり、私のボスである松永暢史さんが執筆中の新刊のタイトルは『日本の教育ここがヘンタイ』である。
仮題ではあるものの大変挑戦的なタイトルで、内容は今回のように先生や生徒や教師など多方面から学校現場の問題を提示している。
どんな本になるのかとても楽しみだ。

最後に付け加えたいのは、今回の文章については何も管理職と現場の先生の対立を煽るような意図は毛頭ないということだ。
が、あんなに必死な先生の姿を見たらこれは白日の元に晒さなければいけない、というある種義務感に駆られて書いた次第である。
問題意識を1人でも多くの人に感じていただけたら嬉しい。

各々が自分の持ち場の仕事を全うしつつ、共に未来を志向できる協力者が増えていけば、事態は好転していくはずだ。
そのために私たちは活動を続けていく。
これがシリーズものになっていく予感を抱きつつ、筆を置きたい。

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