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アイドル演劇から見えるもの

 アイドルが出演する舞台は最近、珍しくない。ジャニーズは2012年から独自の舞台を毎年おこなっているし、乃木坂46のコンセプトに、舞台演劇を打ちだしていることは、プロデューサーである秋元康みずからが公言している。

 ハロプロ、AKB、TPD、ももクロ、エビ中、挙げるとキリがないほどに、今やアイドルが演劇に出ることへの違和感はずいぶんと薄まっている。その違和感のなさは、ひとえに演劇への出演回数の多さだけを意味するものではない。俳優/女優という職業とアイドルの関係に、その正体がある。

 代表的な例でいうと、2012年に熱狂的な人気を誇ったまま卒業したAKB48の前田敦子がその後、女優へ転身したことにある。男性アイドルが引退して俳優になる事例に比べると、女性アイドルが卒業後に女優になる例はとても多い。芸能界引退という言葉を引き合いに出せば、男性が引退で、女性は卒業であることからも、その内実はうかがえるだろう。

 これは女性アイドルの、女性性としての消費の著しさが主な理由として挙げられる。恋愛禁止や、握手会、ショーとしての順位づけ、それに関連した様々な事件はとうてい容認できるものではない。僕たちの欲望はけっして彼らの欲望ではない。その抑圧的な視線について、ファンや運営に携わる人は常に考えなければならない。

 その上で、今いるアイドルがアイドルとして立ち上がった後の人生、その後を考えたとき、アイドルが出演する演劇、つまりアイドル演劇がひとつの兆しとなりうるのではないかと思うのです。

 顕著なのはグループアイドルのアイドル演劇だろう。グループアイドル演劇は、出演者の大半がアイドルだ。既にアイドルの彼/彼女たちを知っているためか、観客の目には知り合いの劇を観ているような親しみを持って映る。いつもと違う彼ら、という見方は俳優の演劇ではまずないだろう。

 では、演劇におけるアイドルと知り合いの違いはどこにあるだろうか。
アイドルはライブであれ、すでに"舞台上で"アイドルを"演じている"。僕たちはそれを幾度となく"観る"ことによってアイドルのキャラを知っている。舞台上で演じるというアイドルの特徴に、舞台上で演技する役者の特徴を重ねることで、知り合いに見た”あったかもしれない世界”ではなく、”今ここにあるかもしれない世界”をアイドルは見せてくれる。

 つまり、知り合いの人とは日頃から接してるから、舞台の演技は演技として観るけど、舞台下のアイドルは想像でしかないので、演劇内の役がどこまでフィクションなのかが分からないのである。アイドルのお馴染みのキャラが舞台下の彼らであるとは限らないのと同じように、演劇中のアイドルが舞台下の彼らでないとは限らない。

 昨今、キャラというものを考える上で、注目しなければならないことにリアリティーショーの問題がある。発端は、テラスハウスに出演者していた木村花さんが、ネット上の誹謗中傷をうけて自殺したことにある。テレビ側の製作の意図にこそ、根本的な問題があると思うが、番組を観て誹謗中傷をした人たちにも当然責任はある。彼らはテレビに映る木村花を観て、テレビに映らない木村花を想像できなかった。テレビ側のフィクションが視聴者と共有されることはなかったのである。

 高度に折り重なったフィクションとしてのリアリティーショーは、アイドルの抱える問題とも無関係ではない。リアリティーショーで見た問題から、僕たちは、キャラのフィクションへの想像力を復興させなければならない。

 複数の役柄、複数の可能性。アイドル演劇に見た、"今ここにあるかもしれない世界"は、ひとりのキャラが様々な役を演じることで、性格への想像力、性別への想像力、国籍への想像力、といった他者に対する余地を僕たちにもたらすのではないだろうか。


このテキストは物語評論家さやわかのYouTube Live内での、僕のコメントを元に作成しました。コメントに回答いただく中で、まとまった論理展開を示せたのはさやわかさんのおかげです、お礼申し上げます。




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